β運動の岸辺で[片渕須直]

第25回 ハリウッド勤務

 なんだか、『NEMO』の頃の話がずっと続いてしまって、我ながら辛くなってしまった。
 まだしも『名探偵ホームズ』の頃のことは、「前途」とか「先行き」とか、まだ何かが開けた感じの言葉とともに思い出すことができたのだが、『NEMO』に関しては閉塞感の記憶しかない。
 当時の現場にあってそうした気分を退けようとするならば、『NEMO』なんかの中核に踏み入らず、社内の若い同世代の仕事仲間たちと青春っぽいことをしてるほうがよほどよかった。実際、一時期、なんだか身を持て余した感じの若い連中で集って、自主制作アニメを作ってみないかなどとわいわいやっていた時期もあった。そうしたところに高畑さんが覗き込んできて、互いに照れくさそうな会釈を交わしたこともあった。そうやってゴソゴソしている集まりが、会社からはどうも不平分子が蠢動しているように見られていたのかもしれないきらいもあった。
 不平というか満たされなさ、という点では近藤さんには何日もの長があった。
 近藤さんは、東映長編にあこがれて東映動画へ「入れてください」と行ったのだが、入れてもらえず、Aプロダクションを紹介された、といっていた。AプロはTVの仕事しかなく、でも、そこでかじりついて仕事していたらいつか映画の仕事もできるかもしれない。そう思っていたら、ある日突然、東映動画の人たちがやってきて、Aプロで映画を作りはじめてしまった。『パンダコパンダ』のことなのだが、ああした屈託のない映画に対してすらも、近藤さんの中には何か鬱屈するように沈潜するものがあった。
 近藤さんは、細面の顔の輪郭から目が左右に飛び出して見えることもあり、宮崎さんなどは「ガニメデ星人」(「目ががに股」の意)と呼んでからかっていたが、若い者ばかりの飲み会では近藤さんは「オレはガニメデ星人じゃねえー」と息巻いていた。
 一言でいえば、そういうところの難しいところのある人だったが、一方でその難しさの源泉となっているのは理想主義的な想いであることも感じられ、何か役に立ちたいと思わされた。

 近藤さんは、慎重居士というのか、「池さぐり」という戦術を主張した。ゲーリー・カーツに色々なものをぶつけても、いいときですら「うん、君たちも少し私の考えに近づいてきたね」的なリアクションが返ってくるのが関の山だったので、ならば「彼の心に秘められた正解」とはどんなものなのか、なるべく近い線で散発的にアイディアをぶつけてみて、良好なリアクションが得られたアイディアの周辺を補強するようにストーリー開発を進めていけばどうか——というより、自分にはそういうことしかできない、というのだった。ゲーリー・カーツという水面の曇った池の底に何があるのか、竿を差して探ってみようというのだった。
 はあ、なるほど、そのアイディア出し要員にスカウトされたというわけか、と理解した。
 一方で、制作からは相変わらず、お前は内容には深入りするな、アメリカに渡ったら向こう流の作画法のレクチャーを人を呼んで行うから、その内容を日本にいるスタッフにわかりやすく伝達するレポートを書くことを第一の旨とせよ、などという任を与えられた。正直いって、そんなレポート書いてるより、近藤さんをサポートできるところがあるならば、そちらに注力すべきなのではないか、と感じて、また頭が痛くなってしまった。

 当時はまだアメリカに旅行するにもビザが必要で、パスポートを作ったり、ビザをとりにアメリカ大使館に行ったり、いろいろやらなければならないこともあった。たしか、支度金も出ていたように思う。それでサムソナイトのスーツケースを買いに行ったりもした。
 飛行機はノースウェストだったように記憶する。それも、成田発、ソウル経由、ロサンジェルス行きという便だった。
 ソウル・キンポ空港は、当時はまだ軍事政権の臭いが残っていて、空港内撮影厳禁という物々しさだった。そういわれても、今なら必ずもってゆくはずの、その当時でも遊びの旅行では必ず携えていっていたカメラをこのときは携行していなかった。物見遊山とはもっとも遠いところにある気分だったもので。

 ロサンジェルスに着くと、『NEMO』のアメリカ側の制作ノートン・バージンが迎えにきてくれたのだったか。
 仕事場はハリウッド・ブルバードのひとつ裏に入ったところにあるビルの中にあった。
 宿舎として借りられていたのは、たしか、グリフィス・パークの裏にあたるバーハム・ブルバード沿いの高級アパートメントで、たぶん、101号線でもうちょっと行けばユニバーサル・スタジオという手前を曲がるのだったと思う。曲がり口のところに、このあいだまでリチャード・ウィリアムスのアニメーションスタジオ「だった」という場所があった。道端には、SF映画に使った探検車の実物が屑鉄のように野ざらしになっているのが珍しかった。
 ジャカランダの木々が薄紫の花を、日本のソメイヨシノのように満開に咲かせ、そんなふうに思い出してみれば、まんざら真っ暗な気分のままハリウッドの地に立っていたのではなかったことも思い出されてくる。

 同時期に、脚本家の高屋敷英夫さんご夫妻も、東京ムービーの仕事でロスに来ておられ、仕事場で顔を合わせたわれわれに、「いやあ、自分のところは下町のアパートで、時々銃声が聞こえて怖くて怖くて」といっておられたので、誰かが気を利かせて、『NEMO』班で何室も借りっぱなしになっているアパートメントに空き部屋があるので、どうぞお使いください、などという話になった。
 このアパートメントがほんとうに上等そうで、テニスコートはあるわ、ビリヤード場はあるわ、プールはあるわ、ジャグジーはあるわで、ベッドルームふたつ付ひと部屋の月々の家賃が見るからに自分の月給の倍くらいしそうだった。まあ、自分の月給なんてこれより下はない程度のものではあったのだが。
 プールサイドには監視員がいて、明らかにみすぼらしいこちらの姿を見つけては、「何号室の住人か?」などと職務質問をかけてきた。部屋番号がこれまたZ棟の200何番かで、「Z」をアメリカ人相手になんと発音してよいのかよくわからず困り果ててしまったりもした。そんな向こうで金春智子さんは、黒い水着にサングラスをかけて優雅にデッキチェアに座っていた。人間あれくらいにならなくちゃなあ、などと思ったりもした。

 で、仕事のほうはどうなったのか。
 どうも、このロサンジェルスでした仕事の中身をよく覚えていないのだった。情けない。来週までに思い出せるだろうか。

第26回へつづく

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(10.03.15)