第26回 ほんとうの空色を求めて
このときの「ハリウッド勤務」は3週間程度だったと思うのだが、その間の出来事でほかに記憶していることは、いくつもある。
昼飯はもっぱら、われわれの仕事場が入っているビルの中にある韓国人夫妻の食堂で食べた。「テリヤキ」という日本語がメニューの上で一般化されていたこと。あとは、ここでBLTサンドとか食べてたこと。
昼休みに行ったハリウッド通りの本屋や古本屋で買ったのは、ビクトリア朝イギリス中流階級の写真集、アメリカ開拓時代の写真集、黎明期の飛行機の本、欧米の鉄道、船なんかの本ばっかりで、『NEMO』に直接使えるかもしれない現世利益的買い物に終始した。映画関係古本屋で、リドリー・スコット「エイリアン」の美術デザイン本を見かけておいて、結局買わなかったこと。ノストロモ号内部のコーション・プレートだとか細かいデザインが網羅してあったのに、惜しいことをしたと今になって思う。
字幕なしで英語のまま見ても簡単に理解できそうな映画、ということで見に行ったのが「スターウォーズ/リターン・オブ・ジェダイ」「スーパーマン3」。「スーパーマン3」などはよりによって超豪華な内装のエジプシャン・シアターで見たのだが、あんな劇場で見るのならもっと別な映画を観たかったように思う。チャイニーズ・シアターには入らなかったが、昼休みに散歩で行ける距離だし、あの前の歩道の手形の上は盛んに歩いた。
ライブハウスでカントリーの演奏を聴きつつ、リブステーキなんか食った。
ドジャー・スタジアムに野球を見に行ったら、本物のB‐25爆撃機が頭上を飛んでいた。
カタリナ島へ行って、生まれて初めて乗馬というものをやった。
マルホランド・ドライブからスピルバーグが描くような夜景を見たこと。
ロング・ビーチに実物が展示してある豪華客船クイーン・メリー号と、当時はまだその横のドームの中に鎮座していた飛行艇スプルース・グースを見物した。ハワード・ヒューズが作らせたスプルース・グースは、木製機なのだが、史上最大の飛行機でもある、という代物。それが収まるだけの巨大ドーム建築も面白かった。クイーン・メリーのレストランで食べた食事には、デザートにチョコレートムースが出てきて、アイスクリームかと思ったらただの卵の白身を泡立てただけだったので閉口したこと。
サンタモニカの海岸で、7月4日の花火大会を見た。打ち上げしているそば近くまで行けて、その砂浜に寝そべって見ていたら、花火の燃え殻がボトボト落ちてきた(ということは、このアメリカ行きは1983年6月から7月にかけての出来事だったことになる)。
宿舎になっているダーハムのアパートの裏手のグリフィス・パークへ行った。
ハリウッド貯水池の周りを歩き回り、こけら拭きの家など見た。
上等なロースト・ビーフが食える場所に連れていってもらって、前菜のサラダがレタスをちぎっただけのものだったのだが、じゅうぶんに冷やしてあって、サウザンアイランド・ドレッシングがうまいと始めて思ったこと。
ファーストフード店で食うハンバーガーは日本で食えるものと大差なかったし、もっと上等な店で食べるハンバーガーはナイフとフォークなんかついていたこと。
これはいけない。
おのぼりさん的に遊んだ記憶と、ご馳走の記憶ばっかりだ。
というより、実際、恐ろしく充実して遊んだり、物見遊山ばかりしている。
今だったら、映画の筋立てを考えなければならない時期には絶対にこんなことはしない。これでは絶対に集中力を欠く。
映画の中で描くべきアメリカ的な快楽主義的傾向を、体験的な刺激感とともに急速に味わおうとすると、こういう物見遊山体験は必要だったのかもしれない。にもかかわらず、それはあまりにつけ焼刃であり、ストーリーの根幹を攻めようとする時期には、もっと別な集中力をもって臨むべきだっただろう。
ある意味では、われわれの作業が対症療法的なものに終始してしまっていた証であるのかもしれない。ゲーリー・カーツの肚の中を探ろうと「池探り」する、という作戦は、とにかく戦術的対応に終始していればいずれ戦略的局面が開けてくるかもしれない、という期待感でしかなく、所詮、自分たちなりの戦略的立ち位置を放棄していたに等しい。
これには弁護すべき点がある。われわれが自分たち独自の「こんな映画を作るべきだ」を振りかざして突撃してしまった場合、それがまたして華々しくも討ち死にを果たしたとき残るものは何もなくなってしまう。そうなってはならない。つまるところ、近藤監督版『NEMO』準備班の任務は、われわれの現場としての組織防衛なのだった。それは「映画的」という観点から見れば、はじめから不健全な目的意識でしかなかったのかもしれない。おそらくそうなのだろう。
その証拠に、近藤さんに対して「こういう池探り策はどうでしょう?」といくつか提案した記憶はあるのだが、その内容をまったく覚えていない。先週からの宿題にして1週間かけて思い出そうとしたのだが、まったく思い出すことができない。それらのアイディアは自分自身にとってどうでもよかったことに過ぎなかったのだ。宮崎さんから「映画の『ナウシカ』の脚本をいっしょに考えてくれ」と誘われていたのを、蹴っ飛ばした形になった上でこの場に立っていたというのに、情けないことはなはだしい。
もちろん、当時その場にあってすでにそういう思いは押し寄せていた。
なので、近藤さんにこう尋ねたことは記憶にある。
「ぜんぶ自由だったらこういう映画が作りたい、近藤さんにとってそういうものがあるとしたら、それはどんなものなんですか?」
もしそういったものがあるのなら、自分は近藤さんの思いを守って戦おう、そんな風に健気に思ってしまっていたのかもしれない。そういう目的感がほしかった。
近藤さんはこう答えた。
「そういうの、あるんだよね、オレにも。『ほんとうの空色』というお話があってね、そういうのがいいなあ」
貧しい少年がいて、絵が得意だが、絵の具を持つことができない。そこに神様みたいな人が出てきて、「ほんとうの空色」という絵の具をくれる。その絵の具を使えば、本当の空を描くことができる。月夜になれば、絵の中の空も夜になって月が出るし、曇ったり雨が降ったり、雷が鳴ったり。
でも、その絵の具もいよいよ残り少なくなって、ズボンにこぼした一滴の染みの跡だけになる。
少年はずっとその半ズボンを大事にはき続けているのだが、いつの間にか半ズボンをはく年齢ではなくなっている。そこへ少女が現れて少年の前に立つ。目の前にある少女の目の色こそがほんとうの空色であるように感じられる。少年はそのとき、ほんとうの空色が一滴だけ染みた半ズボンを脱いで、長ズボンに履き替える。
「そういうのが『成長物語』だと思うんだよね。そういうのがやりたいの。ほんとは」
思春期に差しかかった少年少女のボーイ・ミーツ・ガール。いかにも今にして思えば、『耳をすませば』を監督した近藤さんらしい。
と、そこまで思い出して、「池探り」のネタがひとつだけよみがえってきた。
「じゃあ、最後に出会う女の子の話を考えましょうか」
と、提案してみたのだった。ただ、これもストーリーの根本を左右する本質的な話にはならなかったように思う。
第27回へつづく
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(10.03.29)