β運動の岸辺で[片渕須直]

第30回 ようやく人前に出せるところに

 何をどうやったのだか今となっては定かにしたくないが、1983年4月には恩師・池田宏師のおかげでかろうじて大学を卒業することができ、ようやくアルバイト扱いを脱することができた。正社員になったら、月給が8万から12万に増えた。必要性が認められた残業には残業手当もつくようになった。
 1984年にもなると、仕事を始めて丸2年以上経っていたわけだが、自分が携わった仕事は、いまだにどれひとつ公開にたどり着いていなかった。『名探偵ホームズ』はお蔵だったし、当時、アニメージュ編集部に出入りしているライターのあいだでも、「『名探偵ホームズ』脚本の『片渕須直』というのは、あれは宮崎駿のペンネームだろう」くらいにいわれていた。自分の存在なんか、無に等しかった。
 途中で離れた『リトルズ』はどうなったのだか。ずいぶんあとになって『リトルズ』のTVシリーズが始まっていたようなので、「あの3本のパイロット・フィルム兼TVスペシャル版『リトルズ』はどうなったんですか?」と聞いてみた。すると「フィルム自体がどっか行って見当たらなくなった」と答えられてしまった。真偽のほどはわからないが、さもありなん、という気もする。そして『NEMO』は相変わらず停滞前線となっている。
 1984年正月にあちこちの神社でお御籤引いてみたら、軒並み「凶」とか「大凶」ばっかりだった。これはちょっと凄いな、と思ったが、ひとつだけ大吉が出た。唯一めでたいその御籤には、今も忘れはしない、「西の方、駿馬躍る」と書かれていた。

 宮崎駿さんは、中野区のわれわれの仕事場より西、阿佐ヶ谷で『風の谷のナウシカ』を制作中だった。
 少し以前、『リトルズ』がどうしようもない感じだったので、もうやめようかなあ、などと愚痴をこぼしていたら、ちゃんと宮崎さんに伝わってしまったらしく、会社に電話がかかってきた。
 「まだやめるな。これから『ナウシカ』を作りにテレコムに戻るから」
 宮崎さんは、大塚さんからのサジェスチョンもあって、『風の谷のナウシカ』の制作場所としてテレコムを使わせてもらいたい旨の話を携えて、これから東京ムービー新社の専務のところに行くのだ、という。意気軒昂というか、背水の陣で発奮している感じの声だった。
 しばらくして大塚さんに聞いてみた。
 「あれねえ。断わられた。今は『NEMO』に全力あげてるから、スタジオを使わせられない、っていうんだよねえ、専務が」
 その後、東映動画、日本アニメーションにも赴いたが、全部断わられたという。東映、ムービー、日アニといえば、要するに宮崎さんがこれまで在籍してきた縁に頼ったわけだったが、全部うまくいかなかったらしい。
 結局、トップクラフトに決まったのは、高畑さんと東映同期の原徹さんが社長をしていた縁による。『太陽の王子』チームの縁でもあった。
 宮崎さんからはまた、「中野で待ってるから、夕方、仕事終わったら出てきて」と電話がかかってきた。
 17時半の定時を待って新井薬師から中野へ出向くと、待ち合わせ場所のサンプラザの前の石段に、ライトグレーのジャンパーを着た宮崎さんがひとり腰を下ろしてたたずんでいた。ようやくスタジオが決まって制作にGOが出た『ナウシカ』に脚本として加わらないか、という話だった。うれしかったし、ふたつ返事で引き受けるべきところだったが、「今晩、返事待ってるから、自宅に電話してきて」といわれた。ここでタイムラグが置かれなかったら、その後の道のりはずいぶん変わっていただろう。実のところ、即座に腹案を考えたりもしたのだった。
 とりあえずその足で会社に戻ると、「宮さんのとこに行くんだって」という人が次々と現れた。どうしてこう筒抜けになってしまうのだろう。「よかったね」という人もあれば、近藤さんはすごく悲しげな顔をしたし、それ以上に、近しい人から絶対的な反対を述べられて途方に暮れてしまった。結局、その夜は電話できず、翌日電話に出た宮崎さんの奥さんに叱られた。宮崎さんは遅くまで待っていてくれたらしい。二重に不義理をしてしまった。お断りせざるを得なくなってしまったのは、まったくの個人的な事情からだったが、そのことをくどくど説明しても始まらない。

 宮崎さんは、その後も何かと声を掛けてきてくれ、制作開始後にはもういちど「演出助手で来ないか」と誘ってもらったりもした。
 またあるとき連絡があり、
「『ナウシカ』の併映に『名探偵ホームズ』をつけることになった」
 という。
 「でも、あれ、MIP(国際テレビ番組見本市)に出すため英語版は作ったけど、日本語の音声、ありませんよ」
 「だから、それ作って」
 「オープニング、エンディングもですか」
 「そう」

 トップクラフトに『ホームズ』の音楽打合わせに赴いた。
 宮崎さんは、『ナウシカ』終盤近くの王蟲の触手に包まれたナウシカの原画を全直しして描き直していた。小松原さんに挨拶し、演助の片山一良氏や、原画に入っていた庵野秀明氏など旧知の人々にも会釈した。宮崎さんは、線画台の上でゴムマルチをセットした王蟲なんかも見せてくれた。
 「俺なんかいなくても全然大丈夫なんじゃん」
 と、ごく当たり前のことを思い知らされた。

 音楽の打ち合わせは、録音監督の斯波重治さんが作ってきたメニューを元に、「極力アコースティックに。シンセは使わずに」と、その後もしばしばいろいろな作品の音楽打合せの都度持ち出すことになる前提を示し、確認することに終始した。
 宮崎さんは「海底の財宝」で戦艦が登場する場面にかかる音楽にこだわった。
 「『未来少年コナン』でダイスが出てくるたびに使ってた軍艦マーチもどき、あれ、使えないのかなあ」
 「庵野がそればっかり聞いてたからテープ貸してもらって聞いた伊福部昭のマーチ、あれ乗るよな。肝心なところでラッパが息絶えるのな」
 それと同時に、オープニングは作ってられないからこの際なし、各話サブタイトルのタイトル・バックとエンディングをお前、作ってくれ、といわれた。

 サブタイトル・バックとエンディング作成の話はテレコムにもって帰って、自分で絵コンテを作り、本編カットのデュープ切り出しの発注をしたり、アールヌーボー風のランプの絵なんかを描いてもらった。サブタイトル・バックのハーモニーは山本二三さんの筆になる。タイトルロゴはデザインスタジオなんかに発注せず、当時テレコムで動画をしていた「パンダの嫁入り」こと家入君に描いてもらった。
 そんなこんなで画面ができてくると、『ホームズ』が息を吹き返したことが実感できてきた。ポリィもライサンダー大佐も、ようやく人前に出られるんだなあ。

 アフレコ、ダビングもお前行け、といわれた。ちょっと不安だから、パクさんを後見人につけてやる、と。
 高畑さんとふたり、赤坂まで録音に行くことになった。雪が降って、地面が凍っていた。

第31回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.04.26)