β運動の岸辺で[片渕須直]

第33回 突貫作業へのいざない

 このコラムを書くにあたって「当時のノートとか日記とか見て書いてるんですか?」などとたずねられてしまうのだけど、日記なんてつける習慣がない。ノートの類も少しくらいはあったかもしれないけれど、今は納戸の暗黒の奥底にあって探すことすら覚束ない。
 『NEMO』のためにアメリカまで行ったのが大学卒業の年で、ジャカランダが咲き誇る頃だったから、1983年の5月頃。『風の谷のナウシカ』の併映として劇場版『名探偵ホームズ』が公開されたのが1984年の3月だから、その直前の冬の終わり頃に劇場版としての仕上作業をしていたことになる。
 もうひとつ、自分的年代記を綴るよすがとして、毎年のように仕事仲間たちとあちこちの島を訪れていたことがある。1982年のゴールデン・ウィークには宮崎さんたちと屋久島へ行った。翌年にも屋久島へ行ったのだが、このときにはもう宮崎さんはいなかった。それからも、石垣・竹富・西表。三宅島・御蔵。沖縄本島・与論島と……ああ、だめだ。記憶が霞んでいて、どうも順番が定かにならない。
 とにかく、1984年の5月のゴールデン・ウィーク頃には思いっきり暇になっていて、やはり島旅行に出かけたのは覚えている。その少し前の頃には、テレコムの社内は『キャッツ・アイ』の作画を手伝ったりしていたのではなかったか。当然演出助手の仕事なんかなく、一番暇していたのは自分だった。サイパンあたりに零戦が沈んでいる話があって、「零戦の資料持ってない?」とかいわれて、作画の参考用に持っていった記憶があるくらいだ。

 この間、とにかく『NEMO』の本編コンテを組み立てようと、近藤さんと会議室に篭って、2人で相談しながら冒頭部分のコンテを作ってみたりしたこともあった。
 これは意外にも絵が描ける人と相談しながらだとスラスラと(よい意味で)アドリブ的な気分を保ったままコンテができ上がることがわかった、といういい経験になった。あとで『マイマイ新子と千年の魔法』でこの方法を活用させてもらっている。
 それから、近藤さんは、シナリオを作れと荻窪あたりの旅館に1人カンヅメにさせられ、このあたりから我々の視界からよく見えなくなっていった。近藤さんはさらに共同監督のアンディ・ギャスキル氏と2人、ゲーリー・カーツの家があるロンドンで絵コンテのカンヅメになったりもしていた。カーツが住んでいる近くなら、今までよりも頻繁にでき上がったものを見せてコメントがもらえるだろう、という配慮がされたようだった。
 とにかく、近藤版『NEMO』の作業は、日本にいる我々からなんだか縁遠いものになってなってしまった。奮闘していた近藤さんには申し訳なくも、なんだかフェード・アウトしていってしまった感があった。

 で、突然、忙しくなる。『MIGHTY ORBOTS』に穴があきそうになった、という話が舞い込んできたのだった。
 出崎統さんは、以前からテレコムに遊びにきて大塚さんと雑談したりしていたこともあったが、たまたまその雑談の現場に踏み込んでしまったとき、どうも自分の話題になっていたようで、どぎまぎした。いきなり初対面の出崎さんから、
 「いいじゃない、宮さんに呼ばれたからって、行かなくったって自分の道はある」
 というようなことをいわれたのだった。
 その出崎さんは、いわゆる「コープロ」の最前線に立って、東京ムービー新社グループを牽引する立場になっていた。藤岡豊社長の念願が叶って、とうとうアメリカ三大ネットワークのひとつABCへの営業が成功して、ロボット・アニメのシリーズを放映できるところまで漕ぎつけていたのだった。これが『MIGHTY ORBOTS』で、出崎さんがアメリカに居を据えてチーフディレクターとして働いていた。ロボットそのもののデザインは『六神合体ゴットマーズ』からイメージが流用されていたが、お話の中身は全然変わって、いかにもアメリカの子供番組らしい感じになっていた。
 この作品の企画は、『MIGHTY ORBOTS』というタイトルになる前の『Broots』(Robotsのアナグラム)の頃にパイロットフィルムが作られ、テレコムでも作画を担当していたから、そういう作品があることくらいは知っていた。シリーズ第1話が相当な尺オーバーで編集がたいへんだった、だとか、にもかかわらず高品質感を出すためにかなり全体にわたってカゲが足されたとか、そういうことも聞いていたし、実際にオールラッシュを自分たちの仕事場と同じ建物の中にある試写室で観たりもしていた。

 その『MIGHTY ORBOTS』の8話がなんだかたいへんなことになっているらしい、と聞かされた。自分ではゴールデン・ウィーク明けと思っていたが、夏休みに伊豆七島の三宅島・御蔵島へ行って帰ってきたばっかりのところだったか。
 シナリオが遅れたのか絵コンテが遅れたのか、とにかく放映までに日がない、突貫工事で作らなくちゃならない、作画に費やせるのが原動画含めて3週、4週目には撮影完パケにまでもっていかなきゃならない、という。その時点で見たのが9月のカレンダーだった記憶がある。
 「お前、その演出、やれ」
 「はい?」
 「他の回は出崎さんがコンテ切るか、コンテのチェックをしてるけど、今回はその時間もない。アメリカ人の切ったコンテだけど、お前、いいようにいじれ。簡略化したり時間が節約できるようになるなら、描き直してくれて構わない」
 「それは……」
 絵コンテをやり直す時間がすでにもったいないのではないか? まずすっ飛ばすべきはそこだ。ここは、コンテのやり直しはやりません、というしかない。
 「だけど、1本丸ごと演出するのって、初めてですよ? いいんですか」
 「お前には大塚さんをつける」
 自分の演出チェックに粗漏があったとしても、大塚康生さんがケツを持ってくれる、というのだ。

第34回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.05.24)