β運動の岸辺で[片渕須直]

第34回 これからのあらすじ

 『MIGHTY ORBOTS』の修羅場ばなしの途中なのだけれど、今回もちょっと脇へそれる。
 この連載の趣旨は、書き始めてからわかってきたのだけれど、どうも自分がいかにデコボコした道を歩いてきたかを語ることにあるようだ。はじめは、アニメーションの原理だとか、技法だとかそういうところに触れつつ経験談を繰り広げようとしていたつもりだったのだが、実際に書き始めてみると違うところに進んでしまっている。
 要するに、最初の仕事である『名探偵ホームズ』が中途でこけ、つづく宮崎『NEMO』、高畑『NEMO』、近藤『NEMO』、大塚『NEMO』すべて不調に終わり、『ナウシカ』『ラピュタ』には参加せず、『魔女の宅急便』はややこしいことになり、そのほか企画したりシナリオを書いた長編の企画も軒並み実動しなかった。このコラムでこの先に展開されてゆくのはそういうお話だ。

 そうした末にたどり着くのが『アリーテ姫』という一作なのだった。原作「アリーテ姫の冒険」の新刊広告を見たのが1989年。まさに『魔女の宅急便』でややこしいことになっている真っ最中で、広告が語るお話の概略だけを読んで、「ああ、こんなふうに立ちはだかる世の中の壁という壁を軽やかに乗り越えて進める主人公は、見たいなあ」などと思ったりしたものだった。
 その後、新聞の縮刷版でそのときの新聞を探し出したのだが、正直、自分がその広告のどこをどう読んでそんなふうに感じてしまったのか、なんだか曖昧な感じを抱いた。どうも、まさにその時点での自分の心理のなせる業だったとしか思えない。
 その「アリーテ姫の冒険」をアニメーションにする企画があるのだけれどやらないか、と田中栄子プロデューサーから誘われたのは、3年後、1992年のことになる。制作終了後に解散した『魔女の宅急便』のスタッフの何人かが寄り集まってはじめたスタジオ4℃は、1992年当時、まだただのごくふつうの平屋の民家を根城にしていた。畳の上に動画机を並べ、制作部は台所で仕事していた。その台所で『アリーテ姫』は始まった。
 制作に着手するのはその6年後、完成はさらにその2年後。20世紀最後の年、西暦2000年、われわれの『アリーテ姫』は完成した。
 結果的に「わたしはここにいます」「わたしの手は何かを作り出せる手です」と、一種不撓不屈でありたいと願う根拠を自分自身の中に求める作品となった。

 ある意味では『アリーテ姫』もまたそれまで歩んできた多くの個人的挫折の延長にあるものなのかもしれない。興行成績は期待したほどにならなかった。  けれど、たしかに報われたものがあるのは、自分の思うとおりの形でフィルムを完成させてもらっていることだ。成立しなかったほかの多くの仕事は、所詮「自分の頭の中のこしらえごと」に過ぎないのだけれど、『アリーテ姫』は違う。まがりなりにもフィルムは存在し、今でもそれは上映することができる。求めてくださる方があれば、なのだが。

 2010年5月30日。ラピュタ阿佐ヶ谷のアニメーション・フェスティバルで、久々に『アリーテ姫』を上映していただくことができた。完成以来10年経った作品をこうして再びスクリーンに映し出していただけるのは、感慨深いという以外の何ものでもない。東京では日仏学院での上映以来だろうか。
 せっかくなので、自分も座席について、久しぶりに東京のスクリーンに映る『アリーテ姫』(実はフランスなどではその後も何度か上映があった)を眺めてみたいとも思ったのだが、どうしたことか座席数いっぱいいっぱいのお客さんが入場してしまい、ありがたくも自分の席はなくなってしまった。
 30日の入場者の中には、ちゃんとチケットを買い求めて入った『マイマイ新子と千年の魔法』の製作・宣伝スタッフたちもいたのだが、出てきてやはり感慨深そうな顔をしていた。『マイマイ新子』もまた乗り越えなければならなかったデコボコ道だったのだが、その同じ道を乗り越えてきた彼らには『アリーテ姫』にこめたこちらの思いがたしかに伝わったようだった。
 『アリーテ姫』は1人で道を切り開く話。その次に作った『マイマイ新子と千年の魔法』はともに進む仲間を見つける話になった。それは偶然ではない。

 ささやかに宣伝させていただくが、『アリーテ姫』『マイマイ新子と千年の魔法』は、5月30日から6月5日まで、東京杉並区のラピュタ阿佐ヶ谷で上映されている。

第35回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.05.31)