第42回 道はあちこちにある
テレコムを辞めたあと、近藤喜文さんは浪人生活を送っていた。
そうしたあいだに、合作『ブリンキンズ』のキャラクターデザインなどやってもらったりもした。
近藤さんのAプロ時代の仲間たちが作るあにまる屋なども、なんとか近藤さんに来てほしいと思っていたようだった。うわさに聞くところでは、本多敏行さんはじめ肉体派ばかりが所属するあにまる屋にはある入社基準があって、それはバーベル何キロを持ち上げられれば合格とかそういう話だったのだが(そういえば同社に入った学生時代の友人池田成も、酔っ払って○○○の○○を○○○せて回っていたと自慢する肉体派だったし)、しかし、またうわさに聞くところでは、近藤さんに対してのみはこの入社基準を大幅に引き下げることを真剣に検討しているところらしい、という話だった。近藤さんは長身だったが、体も手足も指も極端に細かった。
その近藤さんが日本アニメーションに戻ったらしい、というので、テレコムを辞める身となったこちらも行く末を相談してみたりもした。多摩市和田の日本アニメーション・スタジオは、『赤毛のアン』制作の頃に、絵コンテや台本類を購入に行ってかつて知った場所だったが、電車を乗り継いでそこまで赴くと、近藤さんと、それから同じくテレコムから日本アニメに移籍していた動画の森川聡子さんが出てきて、近所の喫茶店でしばらく語りあった。
近藤さんは「わかった。会社の人に話しとく」といってくれたのだが、もらえた仕事は外注の絵コンテだった。『愛少女ポリアンナ物語』の絵コンテに少しばかり携わったのは、そういう経緯からだったのだが、その打ち合わせのときもらったキャラ表でキャラクターデザインの佐藤好春さんの存在をはじめて知ったりもした。
こうして仕事をもらえるというのはそれはそれでありがたいのであるが、バリバリ続けざまに絵コンテをやろうにも、ローテーション順が来るまでは仕事にならない。それもローテーションに入れてもらっての話ということになる。個人で営業を打つ才覚はまだない。
絵コンテを切り終わってしまうと暇な時間が来る。身を持て余しているような感覚に襲われる。こういうときに忍び寄るのが「食っていけるかな?」という不安だったりするし、何より「現場」なるものが恋しくなる。そんなことを感じながら自宅で呆けていたとき、近藤さんの奥さんの山浦浩子さんから電話をもらった。
「コンちゃんもあれから色々考えてみて、虫プロどうか、っていうのよ」
虫プロ? 虫プロダクション?
「そう、あの虫プロ」
手塚治虫さんの虫プロは経営が破綻したあと、様々に分派してたくさんのスタジオを生んだが、あの『バンパイヤ』にも出てくる練馬区富士見台の本拠は、旧虫プロ労組が管理し、いまだに虫プロダクションの名で作品を作り続けていたのだった。社長の伊藤叡さんは旧虫プロ編集部の方で、倒産当時の労組委員長だった。
近藤さんと山浦さんの出会いはAプロ時代の労働組合、映産労の活動の中でのことだったと聞く。そういう意味で虫プロの中に人脈があって、紹介してもらったのだったが、なるほど演出部トップの有原誠司さんはAプロの出身で、作画のトップ小野隆哉さんは、同じくAプロにいた椛島義夫さんのスタジオ古留美の出身だった。虫プロへもぐりこませてもらって思ったのは、まるで従兄弟の家に居候になったような気がする、ということだった。
この当時、虫プロでは『ワンダービートS』というTVシリーズを制作していたのだが、シリーズ前半でチーフディレクターを勤めたマジックバスの出崎哲さんが退き、後任に『ルパン三世[マモー編]』の吉川惣司さんが入ったのだが、これもすぐ退いて、この作品で虫プロ現場の演出チーフだった有原さんが監督に昇格したばかり、という時期だった。
こちらへは空席になった演出チーフなるポジションに就いてくれ、といわれたのだが、テレコム時代より給与が3割以上上がった。虫プロの現場には、ほかに中村隆太郎さんや岩本保雄君もいて机を並べることとなった。思えば演出の人がたくさんいるところに交じるのは初めてのことだった。
「演出チーフって、何をやるの?」といっていたら、
「たまたま22話の絵コンテが上がってきたところだから、これ、チェックしてみてもらえます?」
と、有原さんから手渡されてしまった。ああ、そういうことをするわけだ。
第43回へつづく
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(10.08.02)