β運動の岸辺で[片渕須直]

第47回 宅急便の宅送便「次は自分たちで、ね」

 当時、ジブリの所属でもなんでもないアニメージュ編集部の鈴木敏夫さんが、実質的なプロデューサーとして、宮崎さんがこちらの現場方面に介入してくるのを防ぐため、色々手を尽くしてくれていたのだが、最終的にここがスポンサー乗りしなければこの企画は成立しないことになるという立場の企業の方から、
 「当方としては『宮崎駿監督作品』としてのもの以外に出資するつもりはない」
 と、実にはっきりしたことを、冗談のひとつも交えず、やけに硬直した面持ちでいわれてしまったことがあり、せっかくネクタイのひとつも締めて新橋まで出かけたこちらも困ったが、鈴木さんと相談してここはこちらから身を引くカタチをとることにした。
 当時、メインキャラクターのデザイン、パン屋の美術設定などくらいまでができていたところだった。宮崎さんはキキのキャラクターを『トトロ』のメイのような(あるいは後年の千尋みたいな)はっちゃけた感じにしろといっていたのだったが、こちらはこちらの意図としてあのキキのデザインを提示していたのだった。
 鈴木さんの事前の予想として、「宮崎さんは『挫折』というものを描き得ないだろうから、そこをあなたがやってください」と、いわれていたのだったが、意外にも宮崎さんの内面で一種の開き直りがあり、挫折感と屈折を正面にもってきたシナリオが完成してしまったのであって、それをもって作品自体の目的はクリアできそうにもなっていた。

 「でも、あなたは作品の最後まで立ち会うべきだ」
 と、鈴木さんは強くいい、演出補として現場に残ることになった。
 宮崎さんのシナリオ第1稿は表紙に「決定稿」と表示して印刷されたが、しかし、鈴木さんはさらに、観客にもっと提供しなければならないものがある、と進言して、飛行船遭難の話が追加された。
 そこから先は自分として、画面作りのことしかしていない。
 湖面に波を立て、雨を降らせ、例によって撮出しで適当に構図を調整しつつ、奥行き移動を実現させた。
 この仕事はやけにオメデタに恵まれる現場となってしまい、うちの家で第二子ができたかと思うと、森本晃司・福島敦子夫妻のところも宅送便、さらに制作担当の田中栄子さんご懐妊という華々しさだった。その一方では、スタジオ・ライブから来た渡辺浩さんが、「やたらに肩が凝っちゃってもうだめです」と、蛭に血を吸わせに通っていた。

 全カットが完成し、瀬山武司さんが来て編集を行い、16ミリのダビングロールが完成した。編集には宮崎・片渕のふたりで立会い、仕事を終えた瀬山さんが帰ったあと、編集室代わりの会議室の映写機にそのフィルムをかけ、2人きりでその映像を見た。エンディングクレジットにさしかかったとき、自分は「ちょっと待ってください」といって映写機を停め、荒井由美の「やさしさに包まれたなら」のカセットテープをラジカセに押し込み、映写機を再び回した。
 アフレコ前の映像にエンディングだけ音がついて、全編が終わった。これで義理は果たしたような気になった。

 『魔女の宅急便』の打ち上げパーティは、吉祥寺の第一ホテルで行われたが、開始前に「ちょっと来て」といわれ、いってみると、喫茶室に高畑さんがいた。高畑、宮崎、鈴木さんという顔ぶれのテーブルに交じらされた。高畑さんの次回作『国境1938』が天安門事件のあおりを食って中止になっており、代替企画をどうするか、という話だった。
 「今あるのは、音響の斯波さんから以前に提案いただいていたこれだけです」
 と、『おもひでぽろぽろ』の単行本が取り出された。
 斯波重治さんが、「いやあ、これがおもしろいんですよ」とこの本を持ってきたときのことは覚えていた。ついでにいえば、最初の段階で、片渕某に『魔女の宅急便』を任せてみては? と推して下さっていたのも斯波さんだった。
 「いやあ『めぞん』のアフレコで、ちょっとは話ができる奴と思ったんですけど、ね」
 とのことだった。
 『国境1938』は、高畑さんとして『火垂るの墓』の路線を推し進めるものとして自ら企画したものだったから、別のものへの転換ににわかには向かいがたい、という感じの顔をしていた。まあ、高畑さんの仕事はいつもこういう顔をするところから始まるものだ。『NEMO』も当然そうだったし、『ハイジ』なんかにしてもスタートの時にはそうだったと聞く。
 なぜ自分がこのテーブルに呼ばれたのかよく分からなかったが、いずれにしてもこの先もジブリで誰かの演出補をつとめるつもりはなかった。

 打ち上げの席上、現場作業中はたいへんお世話になった撮影監督の杉村重郎さんにつかまった。
 「もう40代のおじさんたちはいいからさ、次は我々30代でやりましょうよ。ね!」
 まさにこちらもそういうつもりだったのだったが、ただ、このとき重郎さんはひとつだけ思い違いをしていた。こちらはまだ20代だったのである。

 制作中、終電がなくなってしまったあとは、いつも制作進行が車かバイクで家まで送り届けてくれたのだが、フィルム完成頃の最後のドタバタの中で一度だけ制作のボスである田中栄子さん自らが運転して送ってくれたことがあった。
 「片渕さんが何をしようとしてたんだか、ちゃんと見てたんだから。これから先もいっしょにやらせてくださいね」
 栄子さんはそれをいうためだけに、宅送便の運転手になってくれたのだった。

第48回へつづく

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(10.09.06)