β運動の岸辺で[片渕須直]

第50回 最初の10年が終わり、次の10年が始まる

 積もり積もって、仕事を始めた1981年から1991年まで10年分書いたてきたことになる。
 虫プロにはたぶんあと1年くらいいたのだが、ちゃんと映像になった仕事は、1991年3月公開の『うしろの正面だあれ』で終わりだ。あとは何をやっていたかというと、自分がメインに入って携わる予定で映画の企画を2本ほどやっていた。
 1本目のは何がどうなってポシャったのか、よく思い出せない。が、シナリオまでは進んでいなかったはずだ。
 2本目のはプロデュースサイドも入れ込んできて、かなりちゃんと進めた。

 ただまあ、『うしろの正面だあれ』にしても「戦災もの」であったわけだし、どうしてもここでの企画はある種の社会性のようなものをセットにくくりつけられる前提があった。「作品そのもののおもしろさ」を全面に立てて世の中に打ち出していこうとしても、「ほんとにおもしろいの?」とか「おもしろいもの作れるの?」などと勘ぐられてしまうのが往々なのだとしたら、そうしたことも仕方なかったのかもしれない。
 で、この2本目の方の企画は「絶滅寸前のトキ」を題材にする、というお題目がまず最初にあった。今は中国から貰い受けたトキの繁殖が進んでいるが、この当時は純国産のトキが最後の老鳥だけになっているような時期だった。トキの棲めなくなった自然環境だとか、そういうことを語ることが期待されていたのかもしれない。
 ただ自分で色々調べてみると、トキが棲めなくなってしまった山野で、サギは今も闊歩していた。どうやらトキは、より適応したサギにエコニッチを奪われ衰退したもののようで、「自然が汚染されて云々」とはあまり関係がないのではないかと思われた。同じような浅い水辺に棲みながら、サギは脚が長く、トキはニワトリ以下に脚が短い。そしてまた、短い脚のトキが田んぼの中で餌を捜し歩けば稲苗を跨ぎこすことができず、倒してしまう。なので明治以降、トキは稲作の害鳥として積極駆除の対象となって激減してしまったのではなかったろうか。
 トキに関してどこに社会的なテーマがあるのか、正直自分として取っつきが難しかった上に、ましてや、そうした社会的テーマみたいなものを前提にされると、ちょっと腰が引けてしまうところがある。「これはおもしろいのだ、それで十分」という明快な売り込みをしてくれることを、プロデュースサイドに対してついつい期待してしまいたくなってしまうのだ。
 だもので、このトキに関する映画は、明らかにトキにしか見えない鳥が出てきながら映画中ではまったくトキと呼ばず、トキと切っても切れないはずの佐渡島も、よく似たたたずまいの別の島が舞台となるが佐渡島そのものとしては出てこない、そんなふうにしてしまおうかと思った。本人としては、ローカルな地域性を脱して一般化してしまった方がより高度な普遍性を得られるのではないかと考えちゃったわけだ。

 そのようなポリシーでシナリオの第1稿を書いてしまった。自分として児童文学的なアプローチ全開で書いたつもりで、絶滅する種の運命とかよりも、そこにいるたった1羽の鳥と女の子の話を書いた。
 訪れた島で、鳥の生態を研究する偏屈な老学者から鳥の言葉を習ってしまった都会の女の子が、捕獲され都会にやってきたその鳥が檻の中で悲しんでいることを知り、逃がすのだったか、鳥が自分で逃げるのだったか、鳥は生まれ故郷の島を目指して街中を飛び、海へ出て、大海を渡ろうとする。だけどこの鳥にはそんなに航続力がないはずだ。女の子たちは小船で鳥を追い、鳥が力尽きて波間に落ちようとしたところで女の子が海に飛び込み、波間で泳ぐその頭の上に鳥がとまる。
 そんな話だった。

 これを書くため、佐渡島にロケハンにも行った。誰も同行者がいない一人旅で、宿泊先の予約も何もしてくれる人もなく、船で着いた港に待っていた客引きに引かれるままに安い商人宿と思われるところに泊まった。1泊目の夕食がライスカレー1皿だったのには、「ああ、これは観光客向けの宿じゃないし、自分は今、観光に来てるのではないわけであり」などと、しみじみしたりした。
 翌日はレンタカーの軽乗用車を借りて、地図がないので、佐渡の地図をプリントしたハンカチを土産物屋で買い込み、それをハンドルの上に広げつつ走り回った。
 湖に直接船を出せる家々が並ぶ両津の町のたたずまいも、加茂湖の静けさも印象よく、その上、山の端に閉ざされた小さな漏斗のような谷間が棚田になっていて、そこへ雲間から斜光が絶品に差し込む光景を見てしまったときなど、えもいわれぬ幸福感に襲われたものだ。

 ただ、カンヅメ場所は最高によかった。
 プロデューサーの1人のお父上の山荘だった。このお父上は、どうも政界に顔が利く人のようで、自民党の派閥の領袖を呼びつけたりできるような人だったらしい。でもって、富士山の周囲に何軒もの別荘を持っていた。それらの別荘を建てるために、まず大工をスペインに修行に行かせる、という趣味のよさだった。
 このお父上がたまたま調子を崩して入院されたところだったので、別荘にはほかに誰もいないし自由に使っていい、といわれた。
 スペインタイルに彩られた別荘の中には、大きな一枚板のテーブルがあり、真鍮を切り抜いた太陽が壁に飾られた下にはほんものの暖炉があった。風呂場の大きな一枚ガラスには富士山の全姿がそのまま切り取られて見える。
 何より驚愕したのは、美術書や映画ソフトのコレクションの充実ぶりだった。クラシックのレコードも箱入りのものが大量にあった。ものすごく趣味がいい。『ラストタンゴ・イン・パリ』だなんて、果たして80代のご老人がコレクションする映画なのだろうか。
 毎日、何本か映画を見つつワープロを前にする日々となった。
 映画学科の学生だった頃の次くらいに、たくさん映画を観た。何を観たかな。『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』『カラビニエ』なんかが印象的だった。

 ただ、周囲にちゃんと開いている店屋がまるでなかった。台所の引き出しにカンヅメがあるから自由に食べてね、といわれた引き出しの中身は高級品のカニ缶だけで、これは食ったらバチがあたると思った。食糧を買いに数キロ歩くのが日課となった。
 一度だけ、妻が子ども連れで訪れてきたが、その妻は3人目の子どもがおなかにいてかなり大きかったから、これは1992年に入ろうとしていた頃だったろうか。富士吉田まで帰りを送って、このときはじめてモスバーガーなるものを食べた。欠食児童になりつつある身にとっては、この上ない美味だった。

 シナリオ第2稿?
 うーん、そうね。こんな状況で書けるものではないよ。
 結局、第1稿で判断してくださいね、と返すしかなかった。けれど、この映画をどうするのかについてのプロデューサー間の結論は堂々巡りに入って出そうになくなっており、結論を得ないのなら、このまま作り始めない映画を待つわけにも行かず、こちらとしてはこの際、虫プロを離れることにした。
 行き先は、『魔女の宅急便』の制作担当・田中栄子さんが作ったスタジオ4℃。そこで次の10年が始まる。

第51回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(10.09.27)