β運動の岸辺で[片渕須直]

第52回 真面目に働いてれば、あとに何かは残ってるもの

 虫プロの伊藤叡社長と車でどこかに出かけると、伊藤さんは給油するつど、ガソリンスタンドのアルバイトに聞いていた。
 「時給いくらですか?」
 そして、運転を始めてこうこぼすのだった。
 「今のおねえちゃんほど、うちのアニメーターに支払ってあげられてないなあ」
 こういう伊藤さんは本当に立派だと思う。
 自分自身も虫プロにいた何年間かで、月給が1.5倍増、テレコム在籍時の倍を超えるようにまで引き上げてもらっていた。
 そんなふうにきちんと定収を保証してもらえる虫プロを辞めて食っていく自信はあるのか、しかも三人の子持ちで。といえば、まあ、何とかなりそうな気もしていた。日本アニメーションから絵コンテの仕事をもらえるようになっていたからだった。

 最初は『私のあしながおじさん』監督の横田和善さんが、日本アニメーションの仕上出身の保田道世さんに「誰かコンテ切れるのいないですかねえ?」と電話し、保田さんが「片渕ってのがいる」と紹介してくれたのだった。
 真面目に働いていてよかったと思う。ジブリ仕上部チーフの保田さんの前に最初に顔を出したときには、相当蔑まれた目で見られていた。それは、どうせコイツも使えない奴なんだろう、という目だった。現場のプロフェッショナルとしてはごく当たり前な態度でもあった。
 しばらくそんな感じが続いたのち、『魔女の宅急便』の途中で、旧知のテレコムの仕上チーフ・山浦浩子さんが保田さんのところに遊びに来た。何か談笑してるな、と思ってのぞきこんだら、2人の目がこちらを向いていた。どうもそれから保田さんからの扱いが変わったように思う。こちらの意見なんかもちゃんと聞いてもらえるようにもなった。

 実は、『魔女の宅急便』の制作中、かなりな危機が仕上部の上に訪れたことがあった。納品されたセルが不良品で、それに気づかず相当枚数の彩色を行ってしまっていたのだった。不良というのは、セルの透明部分にごく微小な気泡だか傷が入っている状態で、そのまま撮影すれば、小さなチラチラしたものが画面を汚すことになる。不良箇所を発見するために仕上チェックの女性たちが何人も眼精疲労になり、一時的に目が開かないようなことにまでなってしまった。
 セルに入った傷は、ある程度なら撮影時に偏光フィルターをかければ消すことができる。しかし、撮影のスタジオぎゃろっぷは撮り上り画面の抜けがよいのが自慢で、撮影監督の杉村重郎さんは、どうしてもピントが甘く多少薄暗い画面になってしまうPLフィルターは絶対かけたくない、と自分たちもプロフェッショナルとしての立場で拒んだ。
 ならば、この空セル部分に傷が入った大量の彩色済みセルは廃棄しなければならないのか。それで予算的に大丈夫なのか。映画の完成は間に合うのか。
 ただひとつなし得る手があるとすれば、塗り終わっているセルから透明部分を全部切り抜き、きちんとした空セルに貼り直して撮影に回すことだった。
 複雑な絵を切り抜けるのか? 誰がやるのか?
 そういうことになると、不肖この自分がやるしかないのだった。はいはい、まあ、こうなったら何でもやりますよ。
 セルからキキを切り抜く。またがっているホウキだとか髪の毛のとんがっているところが面倒だけど、仕方ない。そこは丁寧に。ああ、使ったのはふつうの文房具屋で売ってるハサミです。そして、切り抜いたセル断面が撮影のライトを浴びて光らないように、厚さ0.125ミリの断面だけを黒マジックで塗りつぶす。そののち、新しい空セルに両面テープで貼る。本来の絵と位置がぴったり一致するように。そして、隅が浮いて影を作らないように。
 何百枚かそういうことをやった。自分が貼り直した分だけ仕上げで塗り直さずにすむのだと思えばこそだったわけだが、結果として、そのあとは保田さんとはいっそう話をしてもらえる感じにもなっていったのだった。

 ということで、保田さんに紹介してもらって『私のあしながおじさん』の絵コンテの仕事をもらえるようになった。まだ虫プロ在籍中だったのだが、伊藤さんにはちゃんと断った。まあ、仕方ないと思うから、せめてペンネームでやってね、と許してもらった。
 最初の絵コンテを切り終えて、日本アニメーションに電話すると、制作が車で回収に来て、夜中にもっていく。車の走りやすい真夜中にだけ来るので、制作進行の姿を見ることはない。サンタクロースみたいだった。提出してしばらく経ってペンネームを考えてなかったことに気がついた。制作デスクの余語昭夫さんに電話したら、
 「ああ、そういう人が何人かいるから、こちらの方で共通のペンネームつけてクレジットしてます。大丈夫」
 ということだった。要するに、余語さんなりの「アラン・スミシー」が存在していたわけだった。

 日本アニメーションの絵コンテの仕事は、その後もちょくちょくもらえるようになってゆく。そしてまた、これから机を借りてそこで仕事しようとしてたスタジオ4℃のプロデューサー田中栄子さんが、実はまだ日本アニメーションに在籍中のプロデューサーでもあったのだった。

第53回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
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(10.10.18)