β運動の岸辺で[片渕須直]

第53回 原動機付自転車にまたがるようになった一件

 保谷にあった最初のスタジオ4℃には原付で通ってたんだっけ……と思い出して、あっとなった。虫プロ時代はまだ原付なんて持っていなかったはずだから、虫プロを辞めてすぐ4℃に通うようになったわけではなかったのだった。

 しばらく、完全にフリーの時期を過ごしている。
 たしか、最初に日本アニメーションの絵コンテの仕事を与えてもらった横田和善さんが、東京ムービーのTV『じゃりン子チエ』の新シリーズ『チエちゃん奮戦記』のチーフディレクターになり、その絵コンテの仕事をこちらにも回してくれたので、生活できていたのだった。
 横田さんは愛すべき酔っ払いで、絵コンテの打ち合わせの約束も、はじめは「吉祥寺駅前のルノアールで」などとマジメに交わしていたのだったが、そのうちに「井の頭公園の茶屋で」ということになり、
 「あなた蕎麦? 僕はビール」
 と、昼間から堂々と飲みはじめていた。
 さらにそのうちに、今度は吉祥寺ガード下の飲み屋が定番の打ち合わせ場所になり、時間帯も夜になっていった。たまにほかの場所で約束して、横田さんが現れなかったりするものだから、ガード下に赴くとやはり姿があって、
 「あれ? 君も飲みに来たの?」
 などといわれ、まあ、絵コンテ打ち合わせの如き瑣末なことは酒の神の前にすっぽり抜けていたのだった。
 「えーと、打ち合わせ、今日の約束だったんですが?」
 「ああ、そうだったっけ? じゃあ、ここの勘定、領収書取れる」

 『チエちゃん奮戦記』はそんな具合にゆるゆるした感じで、何かそれなりにのんびりできた。作業そのものは、自宅で原作単行本を広げて丸写しするような感じで進めればよい。最初の『じゃりン子チエ』の長編以来、アングルのとり方だとか、表情のつけ方一般に関して、原作のニュアンスを尊重した上での表現を高畑さんが十分に整理していたので、こちらはそれにのっかっていればよかった。はるき悦美さんのマンガは、吹き出しひとつが3秒分の台詞になっているのだな、などと自分で気づいて感心したりもした。台詞が多いようで、ちゃんとリズミカルに読めるようにできていたのだった。

 そんなこんなのうちに、スタジオジブリからも呼び出しがあった。ジブリは『魔女の宅急便』の後で、それまで作品ごとにフリーのスタッフを呼び集めるシステムから、きちんと会社組織にして新人社員の採用も始めていたのだが、そこで育ちつつある新人演出家と新人アニメーターの面倒を見てほしい、という話だった。
 以前、まだ虫プロにいた頃、宮崎さんから電話があり、「『紅の豚』の海面の処理がわからないから、演出助手をそっちに行かす。教えてやってくれ」といわれたことがあった。そのときは、妙に人の良さそうな若い2人連れがやってきて、こちらとしても複雑な処理をちゃんと理解してもらえるのだろうか、と思いながら話すのだが、やけに簡単に「わかりました」といって帰っていかれてしまい、「最近の若いモンは」というオジサンめいた感想を抱かされてしまったりもした。あとで完成した『紅の豚』のそのカットを見ると、やはり教えたとおりにできておらず、舌打ちさせられてしまうのだったが、要するに、そうした新人たちがジブリの中にいるようになっていたのだった。
 与えられた任務はこんな感じ。よその会社のTVシリーズを3本グロス受けしてとる。本来ならその作品独自の予算枠があるのだろうが、ジブリのほうで少しアシストして、枚数も使えるようにするから、それで演出家を2人、動画マンで採用した中から原画の練習をさせるのを10人、仕事させる。その連中の指導をしてやってくれ。

 当時、ジブリはまだ『となりのトトロ』『火垂の墓』『魔女の宅急便』の頃と同じく吉祥寺にあり、『紅の豚』もそこで作られていた。まあ、通いなれたところに通うまでだった。
 TVの仕事を3本取るのなら、1本目は自分でコンテ演出をやる。2本目以降は若い2人にそれぞれやらせる、などとプランを立てていたら、演出の1人が会社をクビになってしまった。どうも、『紅の豚』のダビングにきちんと来なかったのが、宮崎さんの気持ちに引っかかってしまったらしい。
 そうこうするうちに、『紅の豚』は完成し、スタッフ全員が慰安のためオーストラリア旅行に出かけてしまい、こちらは暇になったりもした。どうせ彼らが帰ってくるまでは、こちらは絵コンテだけやっていればよかった。
 1992年8月には東小金井にジブリの新社屋が竣工し、全社が引っ越すことになった。新社屋竣工記念パーティなどというものも開かれ、なぜか高畑さんがゲストの立場でやってこられ、こちらは出迎える側に混ざってしまっていたものだから、なんだか主客逆転したような妙なおかしな気分ですね、という言葉を交わした。
 招待状は司馬遼太郎氏や堀田善衛氏にも出されていたようだったが、まあ、そうした人たちは現れなかった。それよりも、大学の恩師・池田宏先生がやってこられた。小田部羊一さん、奥山玲子さんのご夫妻も。高畑さんも加わると、旧・東映動画のメンバーの勢揃いとなった。そこへ、アニドウのなみきたかしさんに案内された森康二さんがやってこられた。森さんはご病気だと聞いていたのだが、暑い夏の日ざしの下を、駅からここまで歩いてきたといい、存外、お元気そうだった。
 そう思って眺めていたら、なみきさんの鋭い声がこちらに飛んできた。
 「片渕君! 何やってるんだ、椅子!」
 あわてて椅子を探しに走った。
 なみきさんの口調からすぐにわかった。そうか、67歳の森さんの体はそんなに弱ってしまっているのか。気がつかない若造でほんとうにすみません。
 ようやく席に着いた森さんの周りを、かつての東映動画の仲間たちが囲んだ。
 宮崎さんは、パーティ会場の後ろのほうで行われているこの先輩たちの集まりには近づかなかった。一国一城の主となった自意識というのも難しいものだな、と思った。

 それで、なんだっけ、そもそもは原付の話だったはずだ。竣工祝いが終わって、スタジオが稼動するようになったとき、家からここまでの距離を地図上で測ってみたら、自分としてギリギリ自転車で通えるくらいだと思えたのだった。だもので、最初の1日は、ふだん子どもを保育園に連れて行くのに使っているママチャリを漕いできたのだが、汗っかきの上に、息切れしやすい体質なものだから、かなり悲惨なことになってしまった。必死で漕いでいる自転車を原付バイクがスラスラ追い抜かしてゆくのは、うらやましかった。翌日、原付を買いにゆき、それでジブリに通うようになった。

第54回へつづく

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(10.10.25)