β運動の岸辺で[片渕須直]

第59回 つとむのこと

 飯田勉もいなくなってしまった。
 誰のことだかわからない、という人も「飯田馬之介」という名前でならわかるのじゃないか。
 だが、我々の仲間内では、誰も馬之介だなんて呼んでなかった。我々というのは例えば、はらひろしだとか、今では多摩美の先生になっている片山雅博、斎藤紀生、同業のアニメーション監督・本郷みつる、角銅博之、それから出版業界の島谷光弘、さらにはなみきたかしだとか。
 通夜、葬儀に集ったり、あるいはあまりに遠すぎて来られずメールでやり取りする中で、みんな「ウマノスケ」だなんて呼ばず、「勉」「つとむちゃん」「飯田君」といっていた。まだ「馬之介」でも「飯田監督」でもない、それどころか駆け出しのアニメーターにさえまだなっていなかった19歳、20歳の彼のことを知っていたからだ。葬儀場に飾られていた個人の写真何点かを眺める中にも、「ああ、これがいちばん勉らしいやね」と、口々にいっていたのが、1980年頃の彼の姿だった。

 そういえば先日、アニドウの創立40周年のお祝い事があって……などと思い出そうとして、その「先日」というのがもう3年半も前のことなのだと気がついて愕然とする。あのときの勉は、赤く染めた髪になってずいぶん太っていたが、アニドレイ代表として顕彰されることになって名前を呼ばれた瞬間、飯田馬之介監督ではなくなって、昔の初々しい顔に戻っていたように思う。
 アニドレイというのは、アニドウの出版や上映会活動などでひたすらコキ使われる身分の者をいうのだが、まだ北海道から出てきたばかりだった勉は、なみき会長の家に住み込んで常在戦場的アニドレイをやっていた。
 自分がアニドウに関わりだしたのも1980年頃からだったが、その前の年くらいには後年うちの妻となる浦谷やその兄がアニドウが出す本にと協力していたりもした。浦谷はいちはやくテレコムに就職していたのだが、今度は僕自身が演出助手としてテレコムにもぐりこむ段になると、飯田勉が「○○○(浦谷のあだ名)によろしくね」という。社内でたまたま浦谷に会ったとき「飯田勉がよろしくって」と挨拶したら、「それ誰だっけ?」と返されてしまった。
 ともあれ、自分の妻となる人物とはじめて交わしたひょっとすると記念すべき会話は、飯田勉に関するものだったわけだ、と、ここへ来て突然思い至ってしまった。だからといって、奴のことを縁結びのキューピーだなんて思うつもりもさらさらない。あんなデカい体のキューピーなんて存在し得ないし、だいいちうちらがそういう仲になるのはずっと後年のことだ。

 葬儀のあとのざわざわした中で、飯田馬之介のアシスタントの方が「わたしはウマドレイ」と名乗っておられる声が、ちらっと耳に入ってきた。何よりなみきさんがまず目を丸くした。
 「あいつ……。ウマドレイなんてものを作ってやがったのか」
 暖簾分けというか、かつての日々に対する彼なりのリスペクトだったのだと思う。さらには、自分も今ではいっぱしだ、という意識の現れだったのだろうと思う。
 事実、彼はいっぱしな存在となっていたし、こんなことになって、彼を惜しむ人、彼の作品を愛する人、未完に終わった彼の作品の続きを望む人の声にはたくさん接した。
 だけど彼がまだ「馬之介」でも「飯田監督」でもない、それどころか動画マンにすらなっていなかった、まだ何者でもなかった頃のことを知っている者としては、そして「今に何者かになってやるんだ」と意気込んでいたことを知っている身としては、1980年頃の若い彼の写真を見てこそさびしさを募らせてしまう。
 ここのところ相次いだ先輩諸氏の訃報に対するものとはまた違った思いが、ここにはある。
 「俺も成人式迎えた!」
 などといっていた彼のことが思い出される。

 なあ、勉。お互い19、20歳で知り合うことが、いずれ棺を担いだりお骨を拾うことになるだなんて、思いもしなかったよなあ。
 あんなに大勢で担いだのに、重かったんだよ、お前。

第60回へつづく

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(10.12.06)