β運動の岸辺で[片渕須直]

第65回 いろいろ影響を被る

 久しぶりに「大砲の街」の頃に戻って。
 吉祥寺で仕事するのは気楽だ。でかい本屋もあるし、古本屋もある。昼飯のメニューに困ることがない。ちょっと驚いてしまうのは、ときどきデパートの地下で弁当を買おうと選んでいると、いきなり肘をつかまれて引っ張ったりされることだ。何するんだ! と振り向いて引っ張った主の顔を見ると、
 「やあ!」
 というその人が月岡貞夫さんだったりしてしまう。
 大学の恩師である月岡さんの仕事場も吉祥寺にあった。そういえば学生時代、卒論の相談か何かで吉祥寺まで訪れて、カレーをご馳走になったことがある。

 その吉祥寺の片隅、以前ジブリが入っていた部屋に、スタジオ4℃の「彼女の想いで」チーム(森本晃司、沖浦啓之、新井浩一、渡部隆)が入っていた。ほかには、仕上(小針裕子、中内照美)、制作。それから、大友克洋さん、小原秀一さんの「大砲の街」の準備チーム。そこに自分も交じらせてもらっていた。
 壁に貼られているアートワークを見れば、「大砲の街」がアートアニメ寄りの方向に進み始めているのはよくわかった。
 小原さんは、
 「ユトリロの絵みたいな漠然とした美術はどうかなあ」
 「ゴッホの『黄色い部屋』みたいに、見せたいところを誇張した構図で」
 と、絵画における「表現」の話をしては、そうしたエッセンスをこの作品の作風に取り込もうとしていた。
 自然、机を並べる間で話される会話にも絵画的な話が多くなったりもしたのだが、大友さんはときどき小説の話なんかもした。
 「『マークスの山』っていうの、読んだ?」
 「いえ」
 「いやあ、本当によく調べ上げて書いてあるんだよねー。警察の細部がどうなってるとかがねー。感心してしまう」
 正直いって、この時点まで「よく調べたかどうか」が創作物を評価する基準になろうなどとは、自分の中にそうした尺度は明確には存在していなかった。ちょっと目を見開かされた。そうか、空想とかイマジネーションをどれほど広げられるかどうか「だけ」じゃないんだ。
 せっかくでかい本屋もある街なので、自分もその本を買って読んでみる。このときは、ふーん、という感じだった。しばらくすると同じ著者によるその続編『照柿』が出されて、それも読んでみた。これは何かが引っかかった。

 引っかかってきたのは、このときは「よく調べたかどうか」などということではなかった。
 高村薫による一連の小説の主人公・合田雄一郎刑事は、人物像の背景設定がそれなりに存在しているようであり、どうも自分と何歳も年齢が違わないらしかった。にもかかわらず、『照柿』では自分が属している世間、警察機構から精神的なドロップアウトをし始めている。
 それがなんだか自分に照らし合わせたとき、普遍的、一般的なことのように思えてきてしまうのだった。
 20代で目の前にあるものにしがみつくようなスタートを切ったとしても、30代も半ばを過ぎてくると価値観が揺らいできてしまう。もしくは、それまですがりついていた価値観そのものを見直す「眼」のようなが、なまじっか自己の中にできてきてしまうのかもしれないが、そうしたものどもが、「お前は今やっていることをこれからも続けてゆくつもりなのか?」と揺るがせにやってくるのだ。
 要するに、この当時30代中盤に差しかかって、自分自身がこのままこの仕事の道を歩むことに躊躇を感じていたらしい。
 そこで踏みとどまるのか、転身しちゃうのか。
 自分を戒めるものとも変わり始めたこれまでの道行きを離れ、自由を得たいと思いつつも、じゃあ自由ってなんなのさ、となる。同時に、これまで行ってきたことが、たとえたいした芽を吹いていないとしても、あるいは、そうであるだけに簡単には捨て去れない、捨ててしまうにはいとおし過ぎるもののようにも思えてくる。じゃあ、踏みとどまるのはいいさ、だが、ならば、自分の中にある何を根拠に?
 そういうことを考えさせられるようになってしまい、「大砲の街」に携わりながらもなおもあれこれ考え続けていた『アリーテ姫』の主人公の身の上にそうしたものが影響してゆく。はじめは漠然と漫画映画的だったものが、もっと切実なものとして自分の中に姿をとり始めるようになってゆく。そんな心境に陥ったときに突破口を示してくれる人物であってほしい、アリーテ姫のことをそう思うようになっていったのだった。
 30代半ばになると人生が揺らぐ、と勝手に自分で決めつけてしまったことは、その後『アリーテ姫』の制作中や完成後に出会った同世代の人々からも、なんとなく同じような心境を聞くことができた。やっぱり普遍的なことだったんだと思いつつ、さらに年を重ねて、やがて、大学の先輩で映画学科卒なのに心理学の先生になってしまった日大文理学部の横田正夫教授から、それは「中年の危機」という端的な言葉で言い表すのだ、と教わってしまった。
 10代半ばの小娘のはずのアリーテは、いつの間にか、「中年の危機」などというものを背負わされることになってしまっていたのだった。

 どうも「大砲の街」の頃は、その当時の自分自身が思っていた以上に、自分にとっての転機であったようだ。根が単純なので影響されやすい、という話に過ぎないのかもしれないが。  それにしても、伊集院光氏いうところの「中二病」なんかよりもずっと根が深い。なんといってもこちらは「中年の危機」なのだ。

第66回へつづく

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(11.01.31)