β運動の岸辺で[片渕須直]

第68回 でっかいものが消えてなくなる

 話がうんとさかのぼる。
 1979年4月に日芸映画学科の映像コースなるものに入学したとき、同級生に舟久保てるみがいた。彼女とはその後も、アニメーション専攻の池田宏ゼミでもいっしょになった。その舟久保てるみから、
 「グループえびせん、っていうのやってる」
 という話を聞かされた。アニメーションの自主制作グループだという。恵比寿でときどき上映会やってるから来て来てといわれ、行ってみたらほんとうにおもしろかった。真似できない、と思った。
 「片渕も入んなよ!」
 と、彼女はいう。
 「でもあれって、アニメーション・ワークショップの卒業生のグループなんでしょ?」
 「今年の冬もワークショップやるから、片渕も行きなよー。そしたら紹介してあげるから」
 と、彼女は彼女なりの筋道を立ててしまったようだった。押し出されるように、1980年12月の日本アニメーション協会のアニメーション・ワークショップに入り、彦根範夫と尾崎眞吾さんに教わった。同じクラスに阿佐ヶ谷美術専門学校の学生だった西内としお君たちもいた。
 で、その後、舟久保に引っ張られて、グループえびせんに引き込まれた。
 それからもう30年以上経ってしまっている。

 舟久保てるみは在学中から「ひらけ! ポンキッキ」のアニメーションを手がけるようなり、さすがだなー、と思わされた。卒業して何年か経って、彼女は結婚したが、難病で病床に閉じ込められることになり、しばらくして亡くなった。もう、「あんたはできる奴なんだから」と励ましてもらえなくなってしまった。何年経っても、自分が作品を作るたびに一番見てもらいたいのは、舟久保てるみだったりする。

 グループえびせんでは、斎藤美緒子も亡くなった。彼女は鈴木伸一さんのスタジオ・ゼロのアニメーターだった。自分が川本喜八郎さんから『いばら姫またはねむり姫』の雨セル作りを頼まれたとき、この仕事を肩代わりしてやってくれたのが、美緒子だった。彼女は、仕事を離れて郷里に帰っていたとき、交通事故で帰らぬ人となった。
 葬儀のあと、骨揚げのとき、鈴木伸一さんが何かを拾っておられるのを見た。お棺の蓋をとめた釘だった。
 「お骨をもらって帰るわけには行かないしね」
 大事そうに釘をハンカチにくるんでおられた。そのときの愛弟子に先立たれた恩師のさびしそうな姿を忘れない。

 それから、宮澤みきお。のどかな時間をグループえびせんで一緒にすごした仲間だ。あんな非業なことが宮さんの上に起こったなどと、いまだに信じられずにいる。よくふざけあってお腹を撫であったりしていたので、この手にはいまだに体温が残っている気がする。彼が作った8ミリ作品『ペルセウス座物語』のことも、なんて洒脱にフィルムを作り上げてしまうんだ、と感心させられた。最後に会ったのは、えびせんメンバーの結婚パーティでだったが、そのときだってスタートレックのコミュニケーターのオモチャをガーガー鳴らしふざけていた。このとき交わした言葉はみんな覚えている。

 馬之介こと飯田勉もグループえびせんのメンバーに名を連ねていた。その葬儀はついこのあいだのことだというのに、その葬儀の場で別れの言葉を発っしたばかりの片山雅博が亡くなってしまった。

 片山さんは巨体の持ち主で、1981年頃からずっとグループえびせんの会長だった。若い頃は、日本漫画家協会の事務局員で、手塚治虫さんからも、「片山氏」「片山氏」と重宝がられていた。片山さんには、銀座の漫画家協会の事務室を仲間うちの集合場所によく使わせてもらったりもしたし、ときどき、「お前らにやってほしいことがある」と、石ノ森章太郎、藤子・F・不二雄、横山隆一などという人々のパーティで流す映像を作れとか、パーティそのものを8ミリで記録しろだとか、いかにも楽しそうなアルバイト仕事を持ってきてもらったりもした。赤塚不二夫さん直々に道案内していただいてトキワ荘を撮りにいくなど、今となっては得がたい体験をさせてもらったと思っている。
 片山さんはこのあとどうなっていくんだろうなと思っていたら、日本アニメーション協会の事務局に鞍替えし、広島国際アニメーションフェスティバルを支えたりして、日本のアニメーション界に欠かせぬ人になっていった。それから、多摩美や造形大の先生になって、若い人たちの指導を始めたのだが、教え子から加藤久仁生君をはじめとしてたくさんの人材が輩出し始め、まったくただならない先生ぶりだった。
 片山さんとは、飛騨メルヘンアニメ映像祭やノルシュテイン大賞の審査員として、長い時間をともにすごすことができた。こちらは『マイマイ新子』の制作に膨大な時間を傾けなくてはならなくなったとき、そうしたものから離れてしまったのだが、その不義理に片山さんはさぞや怒っていたことだろうと思う。

 こうして回顧的な文章を書いていると、片山さんに怒鳴られてしまいそうな気がする。
 片山さんの言葉に最後に接したのは、去年の暮れ、えびせんメンバーのメーリングリストで、過去を懐かしむだなんてふざけるな、と怒っていたときだった。
 「グループえびせんはまだ解散壊滅してないだろ! またみんなが生きているうちに新作アニメーション作って上映会『えびせん大乱戦』を開くのが正しい道だろうが!」
 この年、2010年は、日本アニメーション協会会長である川本喜八郎さんや、飯田勉はじめ、あまりにも物故者が多く出た。なので、片山さんは過去をいたたまれなく振り返ることに反発していたのだと思う。そういう意味では、この文章だって怒鳴り飛ばされてしまうのかもしれない。これを書き終えたら明日を見るようにするからさ、ちょっとだけ許してね。
 この片山さんから最後にもらったメールの最後は次のように締められていた。
 「イヤなことばかりだった今年の最後に来て嬉しいニュースです。片渕兄監督の『マイマイ新子と千年の魔法』が第14回文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門で優秀賞を受賞しました。片渕よぅおめでとう!。ホント良かったなぁ!」
 ホント良かったです、片山さんからそんなふうにいってもらえたことが。もっとボロカスいわれても仕方なかったです。
 あんなにでっかい体と、分厚い魂と、存在感が忽然と消えてしまったかと思うと、寂しさを通り過ぎて、やりきれなくなる。

第69回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
http://www.mai-mai.jp

(11.02.21)