第77回 その日、まだ桜が咲いていた
「おさむちゃんが肺炎になったって」
と、丸山正雄さんから聞いたのがちょっと前のことで、
「君の友だちの片山さんも肺炎だったでしょ。だからちょっと心配」
と、いわれた。
「TVシリーズはほんとにキツくって。毎週毎週カッティングが続くともうヘロヘロ」
などとうっかり丸さんを前に愚痴をこぼそうものなら、
「そう? 毎週毎週、編集に嬉々としてくるヤツもいるけどなあ。出崎統」
と、返されてしまう。これは『ULTRAVIOLET Code 044』の頃の話だから、かなり最近のことだ。
「宮さんのところへなんか行かなくったっていいんだよ」
と、出崎統さんに始めてお目にかかったときにいわれてしまったのは、前にも書いたかもしれないけれど、1982、83年頃のことだ。当時勤めていた仕事場のどこか一角にたまたま入ったら、そこに大塚康生さんと談笑していた出崎さんがいて、こちらの顔を見るなりいきなり、そういわれてしまった。どうも、自分がナウシカに加わるためにテレコムを抜けるの抜けないのという顛末を大塚さんから話されていたところだったらしい。
はじめて出会った大巨匠(といいつつ、出崎さんはまだ30代だったはずだ)にいきなりそんなふうに声をかけられたのもドギマギならば、思いもかけずやさしい口調だったのも動顛もので、それでいて目つきが鋭かった。
その目は「所詮、自分は自分でしょ」と最も本質的なことを突っ込んできているようで、なんだか自分が気恥ずかしくなった。出崎さんが、設立メンバーだったマッドハウスを抜けてあんなぷるを立ち上げて、まだ日が浅い頃のことでもあった。
やわらかな日差しがその場にあったような記憶もあり、あの頃の出崎さんのシンボルだった長いカーリーヘアとともに、自分の中に焼きつけられた一情景になっている。
だが、出崎さんの絵コンテもそれ以前に目にしていた。まだテレコムにいた頃の宮崎さんも原画を描いた『コブラ[劇場版]』の仕事が社内に入ってきていて、そのときにまず見た。
お葬式のとき、式場の外に出崎さんが少年時代に描いたマンガの原稿や、最近の書簡などが飾られていたのだが、マッドハウスの制作の古強者・岩瀬安輝さんがそれを見て懐かしがった。
「ああ、この字だこの字だ。絵コンテに書いてあった字だ」
「でも、これはまだ読めますねえ」
「読めるねえ」
『コブラ』の絵コンテのト書きや台詞の文字は本当に難読だった。
それ以前に、絵が難読だった。グチャグチャした線が渦巻いていて、一目見ただけでは何が描いてあるのかわからず、しかし、そのグチャグチャの中にためらいは感じられなかった。
これを読み解いてあの完成画面に作り上げる人たちはよほどのものであるに違いない、と若造の自分は思っていた。何が「よほど」であるって、監督の意思を汲み取ることのできる共同体として磨き上げられているのに違いない、そう思ってしまった。
そう思えばこそ、その出崎さんに偶然初めてお目にかかってしまったときかけられた言葉の背後にある、背骨が一本通った独立心が複雑にも感じられた。
出崎さんはどこかで、「スタッフとは真剣勝負」とも述べられていたはずだ。「自分が渡した絵コンテをどう呑み込み、どうすばらしい映像に仕上げてくるか」その真剣勝負なのだ、と。
ほんとうに若造だった自分には難しくって仕方なかった。
その後、同系列だった東京ムービー新社の海外支社である、TMSロサンゼルスに仕事に出かけたとき、その当時はずっとアメリカ駐在だった出崎さんにはいろいろご配慮いただいてしまった。これも前に書いたかと思うのだが、自分の茶碗にご飯をよそってくださり、ビールをついでくださるのだった。まったく気が利かない若造の自分はされるがままになってしまったのだが、あの吊り上った眉と鋭い目のうしろにはそうしたやさしさがたしかにあった。
自分と出崎さんの縁はそこまでだったので、もう四半世紀も経ってしまっているのだが、棺の中のお顔は、もともと痩せておられたためかあまり面やつれしたようには見えず、懐かしいままにそこにあった。
第78回へつづく
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(11.04.25)