β運動の岸辺で[片渕須直]

第92回 コンティニュイティの意味するところ

 前に『ちびまる子ちゃん』と『あずきちゃん』をかけもちで仕事するに際して、毎日の消化作業量の計算などしたことを書いた
 『名犬ラッシー』の場合はどうかというと、1話あたり280カットになるように作ればよいのでは、と考えてみた。
 つまり、毎日毎日40カットずつこなせば、7日で280カットになる。ただし、絵コンテ、レイアウトチェック、原画チェックをそれぞれ40カット/日のペースで仕事できるかどうか。これができちゃうような気がしてしまったのだから、体力はまだあったのだろう。
 出社したら、いちばんゴチャゴチャしていない朝の頭でまず絵コンテを40カットやってしまう。絵コンテは毎時10〜15カットくらいできるとして、これを昼ご飯までに終わらす。
 それから、夜遅くまでかけて、レイアウトと原画チェックを40カットずつこなす。レイアウトについては森川聡子さんがチェックしてくれるので、方針だけ立てて森川さんに回せばよい、とする。原画はクイック・アクション・レコーダーをできるだけ使うようにして、渋滞しないようにする。これも、佐藤好春さん以下3人いる作画監督に直すなりそのままゆくなり方針を立てて回せばよい話なのだが、あとで編集のときなどにゴタゴタしないように、タイミングだけはきっちり確実なものにしておきたかった。
 ということで、毎日毎日仕事し続けられれば、1本あたり280カットのシリーズを、作り上げていけるように思ってしまったのだった。落とし穴は当然あるのだが、それはまたいずれ。

 そんなふうに考えてしまったのは、全カットを自分の手で演出することで、ひとつの表現を表してみたいという思いがあったからだ。
 今年の夏休み前、学期中の大学の教室で、昭和40年代後半のTVアニメーションを適当に並べてDVDで観てみた。昭和38年『鉄腕アトム』から10年後くらいの時期のものだ。
 『アトム』では極端な作画内容の軽減策が採られているのだが、これは通説でよく述べられる低予算のせいではなく、毎週毎週完成品を創出していかなければならない時間との戦いに備えたものだったのだ、と論じる人があり、自分もそう思う。
 そこで何が行われたかといえば、1カット内の作画内容をできるだけ単純化し、カットとカットのモンタージュで映像を構成していこうとする方法だった。
 その後10年後に作られたTVアニメーション(たとえば『巨人の星』『宇宙戦艦ヤマト』など)を見ても、基本的なところではやはり「『鉄腕アトム』以来のもの」という感じになっている。
 ただ、その同時期のものの中では『アルプスの少女ハイジ』だけがまったく異質だった。『ハイジ』ではカット内での芝居の表現にひじょうに重きが置かれており、同時期の他作品群の中に置いたとき、それはまったく別の考え方で作られたものだということが明らかになってしまうのだった。

 いわゆる「コンティニュイティ」という言葉がある。「連続性」という意味だ。これは一般に、映像の構成要素である「カット」と「カット」の相互関係の上に連続性を構築しようとするものだと捉えられることが多い。
 だが、「連続性」は当然、1カットの中に流れる一定の時間の上にも、当然存在しているのである。つまり「1カットの中で複数のことを連続的に行う表現がある」ということ。
 この辺のことは、今現在のこのちょっと眠たい頭で考えて述べ連ねてみても、なんだか観念的な言葉のオンパレードになってしまいそうなので、察していただければ幸いです。
 『鉄腕アトム』以来のTVアニメーションが、基本的にはそれぞれ「意味」を表象する「カット」をつなぐことで構成されているのだとしたら、『ハイジ』は基本的には「カット内の出来事」で「意味」を表そうとしているのだった。
 すなわち、カットの中での演出に「表現」があるのである。

 とのようなことをなんとなく直感的に把握していたのかもしれない『名犬ラッシー』当時の自分は、それぞれのカットの中身に演出をほどこさなければこの作品で「表現」を行ったことにならない、という気分でさえいた。これが「280カット/毎話」の根拠なのだった。
 放映1話分の正味本編尺は20分、つまり1200秒くらい。
 1200÷280カットは、おおよそ4.3秒くらい。
 毎カット平均4.3秒の中のコンティニュイティーに「表現」を求めてゆくのである。それを全話にわたって自分の手でやってみたかった。
 この辺のことは今に至ってもほとんど考えが変わっていない。なので、TVシリーズのチーフ・ディレクターなら与えられる仕事もあるだろうに、どうしても手を出せないでいる。原画はほぼ全カットをクイック・チェッカーで見るようになってしまった。単純にパラパラめくっているよりその方が「速い」からだ。そうやってでも、どうしてもそれぞれのカットの中にあるものを自分で演出しないと気がすまないのは、そうした末にやっと現れてくるのが自分の表現だから、なのだった。

 それにしても、色々とくたびれきってしまった今、あらためて『ハイジ』を見直そうとすると、限られた時間に対してなんと無謀な挑戦をおっぱじめてしまっているのだろう、と泣けてきそうにすらなる。
 『ハイジ』は全52本あったが、同じシリーズのずっと後期のものである『名犬ラッシー』は全39本予定だった。期首末特番だとか、世界バレーボール中継だとかがはじめから織り込まれていたのだった。非才な自分であっても、「いくらなんでも死にはしないだろう」と思って臨んだのだが、甘かった。

第93回へつづく

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(11.08.22)