β運動の岸辺で[片渕須直]

第103回 サジタリウスの陽の下に

 この9月下旬、大学で同級生だった須藤典彦からメールが来た。須藤との最近の行き来は、ほぼ同級生同士で集まる都合うかがいの件ばかりだったので、今回もそれかと思って開けたら、違っていた。
 横田和善さんが9月7日に亡くなった、というのだった。
 横田さんのことは、この連載でずっと前に書いたと思う。お世話をいただいた先輩であり、愛すべき酔っ払いだった。あまりにも飲みすぎるので、須藤ものちのち同じことを言っていたが、「来るべきものが来てしまった」と、そのときにも感じた。あとで聞いてみたら、やはり肝臓だった。
 今でこそOLMで『ポケモン』の監督をしたり、ずっと前にはジブリで高畑作品の演出助手を勤めた須藤だが、最初の入社は日本アニメーションで、そこで横田さんに出会っていた。横田さんには、彼がTVシリーズを監督するとき、各話演出を任せるチームみたいな若い演出家の集団があった。須藤はそういう1人だった。
 松土隆二プロデューサー、演出の佐藤博暉、須藤典彦、佐土原武之各氏、それに脚本の一色伸幸さんたちが発起人になって、11月13日、横田さんの思い出深い吉祥寺で「偲ぶ会」が行われた。

 高畑勲監督、黒田昌郎監督、楠葉宏三監督、脚本の一色伸幸さん、藤本信行さん、美術監督・阿部泰三郎さん、音響監督・藤野貞義さん、『宇宙船サジタリウス』の声優の島田敏さん、塩屋翼さん、岡本麻弥さん、それに佐藤、須藤、佐土原各氏らが、マイクの前でそれぞれに横田さんの思い出を語った。はずなのだが、ほぼ全員の話題が一致していて、以下のようなことの繰り返しとなっていた。
 横田さんはとにかく言葉数が少なく、あー、うー、あとは単語を並べるような喋り方で、みんなはその中から意味を察していた。
 とにかく底なしに豪快に酒を飲んだ。飲み始めると、朝を越えてもまだまだ飲んでいた。
 作品の定尺オーバーは当たり前で、編集で苦労した。
 どんなときでも、いつも泰然と、悠然としていた。

 以前書いたことと重複する部分もあるが、自分自身の思い出を語る。
 「横田和善」という名を始めて覚えたのは、高畑作品『赤毛のアン』で、それまで『ハイジ』『母をたずねて三千里』、さらに『赤毛のアン』の初期にはずっと「演出 高畑勲」と単独でクレジットされていたものが、『アン』の途中から「高畑勲・横田和善」という連名のクレジットが現れ始めたそのときだ。以来、どういう人なのだろう、と思っていた。
 自分のテレコム勤務時代、友永和秀さんから「カラテマン」という渾名の演出家がいる、と聞いたことがある。それが横田さんだった。しかしながら、そのカラテマン氏は、夜中に酔っ払って動画机を空手で破壊し、途中でこれはまずいと思って証拠隠滅をはかり、跡形がなくなるまで動画机の残骸を完膚なきまで素手で粉砕しつくした、という噂だった。
 『魔女の宅急便』の仕事が終わって少し経った頃、その横田和善さん本人から、突然自宅に電話をいただいた。こんど、日本アニメーションの世界名作劇場の監督をやることになったのだが、絵コンテを描ける人がいないかと保田道世さんに相談したら、片渕というのに電話してごらん、といわれたのだという。あとで聞いてみたら、保田さんは日本アニメ時代から横田さんの飲み友達ということだった。
 はじめてお目にかかった横田さんの風貌に、空手使いの気配はなかった。いつもハンチング帽をかぶり、色の入った眼鏡をかけ、あごひげを生やし、朴訥な口調で想いを連ねる小説家みたいな印象だった。
 最初、『私のあしながおじさん』の絵コンテの仕事をもらったが、こちらも外注の立場で絵コンテを切る経験もまだ浅かった頃で、なんだか絵コンテをたくさん切れることがうれし楽しく、初めの頃などは毎回、半パート600秒ちょっとのはずが700秒近くで切ってしまっていた。たぶん監督という立場の人が調整してくれるはずだから、と安心して甘えていた。あるとき、さすがに尺が伸びすぎかな、と心配になり、横田さんに電話してみた。
 「うー、そうかー、Bパート800秒いってしまったかー」
 と、横田さんの声の表情が悲しそうだった。自分では20分の作品で8分オーバーのオールラッシュを作ってしまう横田さんは、任せておけばちゃんとした尺のコンテを上げてくれるコンテマンがほしかったのだ。横田さんが口数少ないという印象は自分にはあまりない。このときも、電話の向こうの声のトーンがひじょうに雄弁だった。それからは、極力定尺を意識してコンテ切るようにしようと心を改めた。
 『私のあしながおじさん』の絵コンテの打ち合わせは、電話を介して行うのが常態だったように思う。それに比べて、その次の『チエちゃん奮戦記 じゃりン子チエ』では、横田さんの居住圏である吉祥寺で会って絵コンテの打ち合わせすることが多かった。はじめは北口のルノアールを使った。横田さんは「アイス抹茶ミルク」といつも同じものを注文していたように記憶する。そのうち何回目かで、「ここはよくない」といいだされた。「井の頭公園の茶店で打合せしよう」。
 茶店に行くと「君は何にする? 蕎麦か」という。その通り注文しようとすると「僕はビール」。
 それが何回か続き、ガード下の店で打合せするのが、当たり前になった。打ち合わせでは、ここは押さえておかなければならない変更事項をきっちり語り、あとはこちらの意見を聞いてくれた。
 その後、自分がまたジブリに机を置いて新人のコーチ役をやっていた頃、忘年会を吉祥寺ですることになった。東小金井からぞろぞろと移動していく道すがら、若いアニメーターたちが、「自分もアニメーションをやってる」という人と知り合い、そのまま会場に連れてきてしまった。それが横田さんだった。
 宮崎駿さんの隣に座らされた横田さんは飲みまくり、呂律回らないままに何事かを語りまくり、さしもの宮崎さんもお追従笑いを浮かべるばかりだった。あの夜の横田さんはとても多弁だった。宮崎さんが口を挟む暇もなかったのだから。あの夜、横田さんが何を喋っていたのか思い出せたら、と思うときがある。
 偲ぶ会で、「ゲンさん」こと佐土原氏がいっていた。いっしょに机を並べて仕事した頃、片渕さん、カット表をきっちりつけてやってたでしょ。それ見て横田さん、「あー、宮崎さんと同じだあ」と。
 ゲンさんの声色のトーンは、語尾に至って悲しそうですらあり、いかにも横田さんらしかった。あらかじめ全カットのカット番号を並べておいて、1カットずつ作業を消化するごとに赤鉛筆とかマジックとかで塗り潰しては、進行状況を把握しようということで、常に勢いにまかせる横田さんのあり方の対極にある、まあ、いうならば姑息な手段だった。ちまちました仕事の仕方しかできないものからすると、横田さんのようなおおらかさには到底太刀打ちできないものを感じてしまう。まぶしいのは、泰然としている人のほうだ。

 自分のキャリアの中で一番苦しい時期に拾ってもらい、仕事をあてがってもらった。そして、それはコンテマンとしての自分にとって、心底よい修行の場だった。
 ありがとうございました、横田さん。

第104回へつづく

●『マイマイ新子と千年の魔法』公式サイト
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(11.11.14)