β運動の岸辺で[片渕須直]

第128回 スティーブ・マックイーンはどうするのか?

 黒澤明監督の事績については、こんなところでより、もっと精緻に書かれているものがたくさんあるので、できればそういうものに当たっていただけるとありがたい。関係ある部分だけかい摘むと、1965年の『赤ひげ』まで東宝を舞台に作品制作をしていたのだが、作る映画が大作化する一方なのに対し、TV時代が到来して国内映画館人口が減り始めていたことから、その後の黒澤明監督はハリウッドに対して提携制作を打診するようになっている。
 などということを書物で読んで思っていたのは、東京ムービーの藤岡豊さんが、国内TV番組では仕事がしにくくなった状況を感じて、ハリウッドとの提携制作を望んで『NEMO』に挑んでしまった経緯であったりする。事の大きさは違えども、ハリウッド進出を目論んで挫折してゆく様にはどこか共通するものがあることを感じてしまう。そこで大きく作用してしまうのは、映画における(作品ではなく、制作過程における)文化性、風土性みたいなことだ。
 このとき前にした「遺稿」は、『全集 黒澤明』最終巻に収録されているのだが、ここでは執筆年度が1966年とキャプションされている。自分が見たものは一部が四騎の会の原稿用紙に書かれていたので、この会ができた1970年以降にも推敲が行われていたのかもしれない。
 この「遺稿」の冒頭には、
 「私達はドラフトというものを書いたことがありません」
 と、この原稿が従来の自分たちの手法、「いきなりシナリオにとり組み、場面と人物を具体的に描き始め……」とは違った方法で書かれた梗概であることが前書きされている。こうしたシナリオ以前の段階でプロデュース・サイドに提出し、詳しい判断を請う、というプロデューサー主体の映画作りと、あくまで作家である監督・脚本家が主体となって進めていく作品作りの方法論が激突しているのである。
 ハリウッド的なプロデューサー中心主義に拘泥するところが少なければ、『NEMO』も宮崎駿作品として、あるいは高畑勲作品としてそれなりのものができ上がっていただろうと思わないわけにはいかず、さらに後進の自分たちの場合においてもストレス少なく前向きな仕事ができていたのではないかと考えないわけにはいかないのだ。
 結局、黒澤明監督作品としては未成に終わってしまった『暴走機関車』や『トラ・トラ・トラ!』も同じような悩みどころを抱えていたものと想像してしまう。

 さて、「遺稿」もこうした時期のものであり、ハリウッド進出用の企画であった。なのだが、内容は日本の戦国時代、天文年間の九州を舞台にしていた。そのどこがハリウッド向けなのかというと、いきなり登場してくる主人公が「金髪、碧眼の武将」なのである。
 解説してもらって聞いたところでは、この「ブロンドの武将」にスティーブ・マックイーンの配役を想定していたのだという。
 九州に渡来した南蛮の交易船が、その地方の豪族に南蛮女を献上し、献上された殿様は配下の武将にこれを下げ渡し、武将が契ってこの金髪碧眼の若者が生まれた、ということなのである。武将は反乱を起こして殿様を屠り去り、以下ドロドロの下克上模様となってゆく。その先は、のちの『乱』などにもちょっと通底した展開になっていく。そんな中でこの「ブロンドの武将」が、自分の中にも流れる猛々しい父親の血との間で葛藤する。

 ふと思ったのだが、この配役がスティーブ・マックイーンにもし本当に決まっていたとして、この主人公は血統の半分こそヨーロッパ渡来だが、「生まれも育ちも日本」なのには間違いない。黒澤明という人は、一体全体、いかにしてスティーブ・マックイーンに流暢な日本語を喋らせようとしていたのだろうか?
 『トラ・トラ・トラ!』では、必然性に迫られれば実物大の戦艦や航空母艦のセットを作ることなどもやっている。しかし、その『トラ・トラ・トラ!』の絵コンテでは、航海する戦艦長門の艦橋から航走する艦隊全体を見渡す場面なども描かれている。さらにこれに対して航空隊が夜間雷撃演習を仕掛けてきたりしてしまうのだ。『トラ・トラ・トラ!』脚本の初期の稿には、雨の中で公試中の戦艦大和すら出てきてしまう。黒澤明といえば、東宝特撮の戦争映画に出てくる模型の軍艦などに苦言めいたことを漏らしていた人だったはずで、いったいどうやって撮るつもりだったのかと考え込んでしまう。とりあえず目標を定めてから、知恵を集めてブレイク・スルーをはかるタイプの人だったのだろうか。
 今の自分たちのアニメーションにちょっとした地の利があるとしたら、こういうところだったりしてしまう。戦艦大和の登場が必要ならば描いてしまえばよいわけだし、1000年前そこにあったはずの町の姿が必要ならば、多少調べ上げることがあったとしても、描いてしまえばよいのだ。同じように画に描く以上、画面の整合はとれるので、いきなり模型を映した画面が混じりこんでくるような違和感は生じない。
 とはいえ、アニメーションで描くに困るものがあるとすれば、戦国時代の甲冑などが実はそうだった。複雑な形の部品が細かく入り組んでいて、1枚動画を描くにも費やす時間が途方もない感じがしてしまう。1人や2人ならまだしも、これが軍団単位で合戦を行うさまなど、想像だにできないのだった。
 ところが、今回の話は3DCGを前提にした企画なのだった。何千単位の軍勢がぶつかり合う合戦の場面など、CGに任せてしまえばいいや、と考えることができる。黒澤明監督などよりもずっと小心な小者としては、少し安心してスペクタクルな場面を書くことができるというものだ。
 なるほど、これはこれでいいのかもしれない。

第129回へつづく

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(12.05.28)