第131回 パンツも履き替えずに、あがく
前回、『アリーテ姫』ダビングの日程を5、6日と書いたが、どうも8日間くらいだったような気がしてきた。4℃の田中栄子さんから「タクシー代を奮発するから」といわれて、日本橋浜町からはるばる東京を横切って深夜帰宅したことが2、3度あったのは間違いないし、徹夜になってからも1度だけ制作デスクの吉田昌央君が車で迎えにきて、吉祥寺の4℃まで運んでもらったこともあった。
この吉田君の運転がまた楽しいもので、日本橋浜町から吉祥寺を目指しているにもかかわらず、レインボーブリッジが見えてきてしまったり、かと思えば池袋PARCO前を通ったり、深夜の東京見物をあちこち楽しめた。その夜、そうして4℃まで送ってもらったのは、エンディングの原画チェックをするためだった。
もともと『アリーテ姫』は本編で全精力を使い切ってしまっていたので、エンディングはまったくの黒味にクレジットだけ白文字でだすつもりだったのだが、音楽トラックダウンのとき、大貫妙子さんの歌を初めて聞いて、何とかしなければ、という思いに駆られてしまったのだった。黒味にロールアップではお客さんはそそくさとスクリーンの前を離れてしまうだろう。けれど、今やラストにこの楽曲がつくことでひとつの印象が完成する映画としてできあがってしまっている。せめて「ありもの素材」を組み合わせてでもエンディングを作らせてもらえないだろうか、という話を田中栄子プロデューサーにしたのは、大貫さんの歌を聞いた直後のこと。ダビング直前のかなり間際のことだったのだが、こんな感じ、とラフな絵コンテを出してみたら、意外にもOKが出た。本編は新天地を目指すアリーテが港町にたどり着いたところで終わっていたので、エンディングはその先、彼女を乗せた船が別の国に(アリーテがあれほどその五感で味わいたがっていた、言葉の通じない人々の国に)入港する直前までとして考えてみたのだった。ただ1カット、見えてきた陸地を見つけてほかの乗客たちと笑顔で見つめるアリーテのカットだけは、「そこまでの余力なし」と不許可になってしまった。だが、帆船は新作画する必要があって、だがこれは止メ1枚ですむとして、それ以上に、ラストカットでアリーテを乗せた船の上空を悠然と飛ぶカモメはかなりの量を作画する必要があった。それから、新作カットの背景も、新たに発注するわけにいかないので、これまでに描いてもらってきた背景を切り貼りしてでもでっち上げなければならない。
作画のことは作画監督の尾崎和孝君に、背景のことはCGI監督の笹川恵介君に全面的にお任せすることにして、監督である自分はダビングのスタジオに詰めっきりということにさせてもらっていた。その尾崎君の作画が完成したので(原画だけでなく、あるいは、すでに動画完成まで進んでいた状態だったかもしれない)、4℃まで戻って、仕上に回す前にこれをチェックしておかなければならないのだった。
カモメは、いかにも尾崎君らしく、気持ちよく飛んでいた。
笹川君が作った背景は、単にありものを切り貼りした以上のもので、画用紙の紙質の質感なども表現してあって、詩情あふれる感じになっていた。
さらに、色彩設計の林亜揮子さんが、いち早くカモメや帆船の色調を試し塗りしていたので、これもきちんとチェックすることができた。
ダビングの作業に戻る。ダビングでは、エンディングは「黒味」のままで差し換えられることのないまま、進む。
効果の西村睦広君も別仕事から戻ってきて、効果マンが原田社長とダブルになった。
その西村君が、
「このシーンはもう空気感の音を考えつきません」
という場面が現れた。西村君はそれまでの全シーンで、空想力を広げ、その場に立っていたらどこからか忍び寄ってくるだろうはずの音をつけ続けてくれていたのだった。だが、この問題のシーンは石造りのボックスの城の中だった。どんな音が聞こえてくるというのだろう?
「ヤギの鳴き声」
「ヤギ? ですか?」
「この城は壁が落ちてるし。このフレーム内に見えてない、どこかこの近くの壁が穴だらけで、外からの音が入ってきてると思って」
西村君が、さっそく遠くから忍び込んでくるヤギの鳴き声をつけてくれる。
そんな感じで、作業は進んでゆく。
だが、立ち上がりの段階でデジタル調整卓がダウンを繰り返したことが祟って、予定日数内で消化しきれるかどうか、微妙だった。
4℃は4℃で大忙しらしく、制作をダビング現場につけてくれていない。ただ、監督である自分にPHSがひとつ渡されていた。過ぐる日、六畳一間のアパートを借りてもらって『アリーテ姫』準備室としたとき、電話を敷く代わりにと手渡されたあのPHSだった。
今はどうなのか知らないが、当時テレセンのスタジオ内では、PHSの電波が通じなかった。唯一電波が入ってくるのはトイレの窓からだったので、そこから4℃にいる栄子さんに電話した。スケジュール的に危険、と。
「どれくらい?」
「予定日数いっぱいいっぱいで、1ロールこぼれるかもしれない」
栄子さんからの答えは、8ロール中の1ロールがこぼれるのならば残り7ロールに万全を尽くすこと、というものだった。時間がないあまり、ぶっ飛ばした仕事をするな、と。ダビングで形にしたものはそれっきり、いつまでも残るものなってしまうのだから。
「こぼれた1ロールのダビングは予算とか日程とか考えます」
「了解。そこから先はプロデューサーに任せます」
4℃の制作は別作業で手一杯でも、ダビングスタジオに詰めきりのわれわれの面倒は見なければならないと考えられたらしく、毎朝、4℃の新入社員たちが交代で、コンビニで買った朝食などを差し入れにやってきてくれたりもしていた。
着の身着のまま風呂にも入らないわれわれは、自分たち自身としても相当見苦しい感じになってきたので、ダビングスタッフ男子一同で、テレセンのそばの洋品店までパンツを買い出しに出かけたこともあった。このときは久々に陽光を浴びることができた。それ以外はほぼ同じ部屋に詰めきりだったし、当初の腹積りよりも1日早く徹夜作業を始めてしまったので、一同、着替えも持たないままこの場にいてしまっていた。
テレセンには実はシャワー室があるらしいと聞いたのが、かなりスケジュール末期になってからのことで、今さらもう面倒とこれは使わずにすましてしまった。
最終日の一日前くらいになって、主演声優の桑島法子君が大量のシュークリームを持って差し入れにきてくれた。隣に来てくれた法子君にはもうしわけないくらい自分は臭かったと思う。
そうしてダビングは最後の1日を迎える。もう、仮眠もしていられない。
この朝、われわれはたどり着けないと思われていた8ロール目に、ようやく手がかかりそうになっていたのだった。
第132回へつづく
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(12.06.18)