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第2回 「シナリオ」以前
脚本と僕との出会いは、落ちたことから始まった。落ちた、落ちた、落ちた……大学受験の事である。受けた大学を三つそろって落ちたのである。
本当は、五つ受けたのだが、その内の二つの学校は、受ける前に、申し込みの日、受験料をどこかに落としてしまった。
受かる可能性もない大学だったし、受験料を親に再度せびるのも気の毒だったので、どうせ滑る大学なんだからと、申し込みをせずに、受験生仲間と銀座でウナギを食べて帰ってきた。
滑る……ぬるぬるしている……ウナギを食っちゃえというわけである。
これが、後に誤解を呼び、首藤は受験料で、ウナギを食っちゃった……といわれ、僕の両親などはいまだにそれを信じている。
だが、受験料を落としたことは確かであり両親健在の今のうちに誤解を晴らしたい気持ちでいっぱいである。
ただ、受験料以外で、当時でも安くなかった銀座のウナギ屋の代金を持っていたのかと聞かれれば、はてさて、どこからそのお金を出したのか覚えてはいない。
ともかく、大学受験にことごとく失敗した僕は、しばらくの間ぼんやりとしていた。
別にあせりはしなかった。
周りを見渡せば、ほとんどが浪人だったのである。
少しだけ僕の世代を説明すれば、昭和二十四年――1949年生まれの僕たちは、第一次ベビーブームの最後の年代である。僕の好きな呼び方ではないが、団塊の世代ともいわれる。
当時「戦争を知らない子供たち」という歌が流行っていた。
確かに、生まれる前に太平洋戦争は終わっていたが、戦争の影響は受けていたと僕は思う。
敗戦とはいえ、一応平和な時代になり、戦争で失われた膨大な若い命、人口をなんとかしたいと「生めよ増やせよ」の雰囲気で大増産された世代である。
見渡すかぎり子供ばかり、それが、ごそごそぞろぞろと大学受験をしたから、落ちる連中が多いのが当たり前……特にベビーブームの最後である僕たちは、一年上、二年上の連中が落っこちてきて同じ土俵で受験するから不利もいいところである。
受験勉強を何年もした受験のプロと戦うのだから現役はつらい。
したがって、一浪は人並みとさえ呼ばれていた。三流受験校の僕の学校で、僕が知るかぎり、現役で合格したのは三人しかいないという有り様だった。
学校の同級生達が、次々と大学ではなく予備校を決めていく間も、僕は、ぼんやりとしていた。
ついでだが、予備校にも一流、二流、三流まであって、友人達はその当落に一喜一憂するありさまである。
受験地獄とはよくいったもんだ……とひと事のように、のんびりかまえていた。
その頃の僕は、大学そのものに不信感のようなものを抱いていたのである。
その頃の大学は、めちゃくちゃに荒れていた。
1970年が、近くに迫っていたのだ。
これを読んでいる人たちにとっては生まれる前か、生まれていても記憶に薄い子供の頃の年だろう。
最近の常識だと、1970年は大阪万国博覧会の年ということになっているようだ。
僕だって、大阪に行ってアポロ宇宙船が月から持って帰った石を見た覚えはある。
「芸術は爆発だ!」とCMで叫んでいた岡本太郎氏がデザインした万博のシンボル「太陽の塔」の下で記念写真もとっている。
しかし。1970年は、僕の世代にとっては万博の年ではなかった。
70年といえば安保(日米安全保障条約)の年であり、三島由紀夫という作家が、自衛隊に乗り込んで割腹自殺した年だった。
様々な大学で学園紛争が起こり、街にはデモ隊が繰り出し、機動隊が応戦し、安保に関心のない若者は人でなしといわれそうな雰囲気が漂っていた。
このころについては、今、なぜか思い出したように様々な本が書かれていて、あえて、僕が付け加えるような事はない。
僕はといえば、安保に関心がないといえば嘘になるが、当時流行語のように絶叫されていた「体制」「反体制」「ナンセンス」「自己批判」「総括」などという言葉に、いささかうんざりしていた種類の人間だった。
そういう僕のような人間を、学生運動をしている人たちは、「ノンポリ」(ノンポリティカル)と、軽蔑まじりに呼んでいた。
もっとも、こっちも、学生運動に夢中になっている人達を、時流に流されてはしゃぎまわる軽薄なお調子者と思っていたから、「ノンポリ」とさげすまれてもコンプレックスを感じることもなかった。
このころの東京の若者は、極めて大ざっぱに分けると、「学生運動」(過激なのはゲバ学生)派……ゲバとはゲバルト(ドイツ語で闘争)の略、反戦歌を唄うフォーク派、受験一直線派、なにをするでもなく新宿をうろつくフーテン派。本当に何にも考えていないノンポリ派……と、乱暴に色分け出来た気がする。
ただ、その頃の僕は、いちおう大学というところは勉強や研究をするところだと思っていたから、大学に入ったはいいものの、学生運動に巻き込まれて、ゲバ棒を振り回したり石や火炎瓶を投げたりするのはかなわないなあ……と受験そのものに白けてもいたのである。
勿論、良い大学に行けば良い就職ができるという常識論もあったが、学生運動の盛り上がりは、そんな常識も怪しくなりそうなほど盛んだった。
なにしろ三流進学校の僕の学校でさえ、「体制」の象徴としての学生帽を廃止しようとして火炎瓶が投げられたし、数年後には、学生運動が激しすぎて、東大の受験さえ中止された騒ぎだった。
そんな状況に、どうもついていけんなあ……と、僕は生来の怠け癖も手伝って、大学受験失敗後も予備校にも通う気もせずぼんやりと、かたちだけ受験参考書をぺらぺらめくりながら、あくびまじりに日々を過ごしていた。
そんなとき、僕の二人いる妹の上の子が、部屋に入ってきた。
「お兄ちゃん。映画好きだったよね」
確かに映画は好きで一年に百本以上見ていた。
今はほとんどなくなったが、当時は三本立ての名画座というのがあり、加えて、受験生御用達のラジオ深夜放送の試写会御招待に応募すれば、年間百本は難しい数ではなかった。
勿論、その裏には、多少、気がつかれずに学校をさぼるという特殊技術も必要ではあったが、その方法は今の高校でも通用すると思われるので公表する事はさしひかえることにする。
さて妹は机の上に、雑誌を置くと、
「こんなのあったから買ってきた」
「シナリオ」と云う雑誌だった。
妹がめくったページに研究生募集と書かれていた。
妹は、当時「君といつまでも」という歌を歌っていた加山雄三のファンではあったが、それほど映画が好きな子ではなかった。
「シナリオ」なんていう雑誌は、大書店の映画コーナーに数冊しか置いていない程マイナーな雑誌である。
僕自身もそんな雑誌があることを知らなかった。
映画が好きと言っても、専門書には興味がなく映画雑誌といえば、「スクリーン」「ロードショー」今はなくなったが「映画の友」ぐらい……「キネマ旬報」さえ知らなかったのである。
僕も知らない本を、妹が持ってきたのには、妹は何も言わないが涙ぐましい兄を思う気持ちがあったのだと思う。
妹と僕は三つ違いである。
僕が大学受験の時、妹は高校受験なのだ。
しかも妹は、兄の僕より数段レベルの高い高校に入学していた。
本来ならルンルン気分な筈なのに、大学に落ちた兄を余程気の毒に思ったに違いない。
渋谷駅付近にある大盛堂という大書店にわざわざ行って「シナリオ」を見つけてくれて来たのである。
高校生の彼女にとって、決して安い雑誌ではなかったはずだが、持つべきものは良い妹である。感謝の言葉の一つも言うべきだったが、その時は、辞書を片手に、外国版の「プレイボーイ」を見ていたので、それを妹に隠すのにあわてて、「そこに置いといて」と一言言っただけだったのがいまだに悔やまれる。
ともかく、その「シナリオ」という雑誌との出会いが、僕と脚本との初めての出会いであり、もしかしたら、僕の人生の間違いの始まりだったのかもしれない。
余計なことだが、この話で、「シナリオ」という雑誌の販売促進に協力するつもりは全くありませんのでそこのところよろしく。
(次回につづく)
●昨日の私(近況報告)
昨日も渋谷のコーヒーショップで、ぼんやり街を眺めていた。
そこで、気がついたことがある。
女子高生らしい年ごろの女の子達は、ガングロのころから様々なファッションで闊歩しているが、男の子達はどこに行ってしまったのだろう。女の子に話しかける怪しげなおやじ達は見かけるが、元気な男の子が見当たらない。
まさか、閉じこもってパソコンにしがみついていたり、アニメショップの中にたむろしている訳ではないと思うが……。昔、寺山修司という作家が「書を捨てよ街に出よう」という本を書いたが、男の子の姿がもう少し街にあふれていてもいいような気がするのだが……。もっとも、街に出て何をしろというのだ……と、問い詰められても困ってしまうんですけどね……。
以上
■第3回へ続く
(05.06.08)
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