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第102回 「海モモ」の「最終回」
「海モモ」も、ついに62話、最終回を迎える日がやってきた。
それまでに、他に語りたいエピソードはいくつもあったが、脚本が間にあわない時期になっていたし、それらのエピソードは、どんなに楽しく描いても、僕の考える当時の社会性……地球から夢がなくなっていくという過程を描くもので、本質的には、明るいテーマにはなりえない。
「海モモ」を、描き終えるには潮時にも思えた。
放映日は12月23日……クリスマス・イブの前日だった。
その放映日は、随分前から分かっていた。
だから、クリスマスらしい、優しいエピソードにしたかった。
とはいえ、それまで、奥底で、地球から夢がなくなりつつあるという暗いテーマをひきずっていた「海モモ」が、最終回になったとたん、なぜか地球にいきなり夢と希望が戻ってくるというような、視聴者が呆れるようなマンガチックなハッピーエンドは絶対、避けたかった。
かといって、夢と希望をテーマにして最終回を迎える事になった「海モモ」が、結局、地球から夢と希望はなくなりましたという絶望的な終わり方では、身も蓋もない。
夢と希望をテーマにする『魔法のプリンセス ミンキーモモ』という作品自体の存在さえ無意味になってしまう。
どんなに悲劇的な最終回でも、夢と希望だけは感じられる優しいラストにしたかった。
「海モモ」の中盤以降は、僕は、最終回をどうするかだけを考え続けてきたといっていい。
どうにか、最終回を上手く作る事ができそうだと感じる事ができたのは、空モモと海モモが出会うエピソード「モモとモモ」のアフレコを見学した時だ。
このエピソードで、小山茉美さん演じる空モモと林原めぐみさん演じるモモの存在の違いが、はっきり感じられた。
空モモは、子供が欲しいと思っている親の元に現れたが、夢の国の娘ではなく、人間としての夢をかなえるために、人間の子に生まれ変わった子だ。
自分の夢をかなえるのは、誰のためでもない、人間である自分のためだ。
それだけ自分の夢に対して自立している子だ。
一方、「海モモ」は、自分のために、夢をかなえるという意識まではない。
あくまで、失われつつある地球の夢を救うために、地上に現れている。
夢の国の子であるがために、他人の夢はかなえたいが、自分自身の夢に対しては、ほとんど考えていない。
この2人の夢に対する立ち位置の差が、2人の会話でなにげなく語られる部分を、最終回のクライマックスにしようとした。
空モモが、夢のなくなった地球から離れるべきか迷う海モモに、地球にいる決意をうながす、わずか数分のシーンである。
実際、この会話の部分だけで、ストーリーも固まっていないのに5回以上書いて見直し、さらに、プロットができて脚本化する際に、3回書き直している。
でき上がった脚本全体は直さなかったが、2人のモモの会話の部分だけは自発的に8回は推敲したのである。
視聴者には何気なく聞こえる会話かもしれないが、僕自身は、熟考し、かなり苦労した会話だった。
この会話が、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のテーマを的確に語っていると思ったからだ。
手前みそだが、この会話で、小山茉美さんと林原めぐみさんは、2人のモモの性格と存在の差を上手く表現してくれていたと思う。
最終回のストーリーは、地球から夢がなくなり、夢の国マリンナーサの存続どころか、夢の少女・海モモすら消えてしまう事態まで追い込まれてしまう。
マリンナーサは、夢のない地球から宇宙に脱出することになる。
「海モモ」を地球に残せば、夢のない地球で「海モモ」は、生きていけない。
マリンナーサの王様とお妃様は、明日の夜明けの一瞬に、マリンナーサが海の上に浮上するから、その瞬間に海モモにマリンナーサへ飛び移れと言ってくる。
王様とお妃様にすれば、娘の海モモを消滅から救う唯一の手だてだった。
海モモは戸惑うが、隠されていた地球の両親の秘密を知り、呆然となる。
地球のパパとママは、不治の病でいつ死ぬかもしれず、もちろん子供の産めない状態だったのだ。
海モモの存在は、子供のいない……いや産めない地球上のパパとママの夢の具現化した存在だったのだ。
もし、海モモが消え、その夢が消えれば、パパとママは夢から覚め、現実のパパとママに戻ってしまう。
不治の病で、子供の産めない夫婦に戻ってしまうのだ。
おまけに、仮に海モモが地球に残ったとしても、夢のなくなった地球で、海モモが存在し続ける事ができる可能性もない。
このパパとママの不治の病が何であるか、色々考えたが、結局、最終回では表向きには伏せられているが、裏設定ではHIV(エイズ)を意識した。
今ではウイルスによる血液関係で感染する病気として認知されているが、「海モモ」の最終回放映当時は、同性愛者の性交のためや麻薬患者の注射針から感染する病気として、一般から差別視されている病気だった。
だが、なぜか、僕はHIVが一般から妙な目で見られるような病気ではない事を知っていた。
大病院に入院した経験のある僕は、話題性のある様々な病気や手術、治療について、医者や看護婦から世間話のように情報を聞いていたのである。
彼らから漏れてくる話によれば、エイズは、人の偏見を受けるような病気ではなかった。
気をつけなければ輸血でも起こりうる病気なのである。
そして極めて社会性の強い、現代に影響力の強い病気であることも分かった。
ちなみに、非加熱血液製剤でエイズが日本で大問題になったのは、「海モモ」の最終回の数年後である。
この手の問題は、医学界や製薬会社や政府は隠そうとしたり、対処が後手後手に回るのが常のようだが、HIVは特殊な人だけがなり、偏見を受けるような病気ではないのである。
それでも、最終回の放映当時は、偏見や誤解を受けやすいので、パパとママの病気はあくまで裏設定にしたが、今なら表の設定にしても構わないと僕は思う。
エイズ問題は今はあまり話題にならなくなったが、潜在している病人は毎年増え続けているというだけに、なおさら、今こそ問題にしなければならない病気だと思う。
両親の病についてはともかくとして、「海モモ」がいなくなる事が、両親を現実の世界(不治の病で子供が生めない状態)に引き戻してしまうのは確かだ。
海モモは思う。
自分の存在は何なのか……そんな時、空モモが海モモに言う。「私は、海モモにいてほしいと思う。そんな人がいる限り、海モモは地球から消えはしない」
その時、海モモは、「自分が望まれてこの世に存在している」事に気がつく。
そして、地球に残る事に決める。
夢は消えて行くかもしれないが、いつも望まれているものなのである。
これは、モモに限った事ではない。
今の多くの子供たちは、自分たちが何のために、この世に生まれてきたのか分からなくなっている気がする。
子供たちは、誰かに、何かに望まれているから、生まれてきたのである。
子供が存在するわけはそこにある。
子供が生まれるのを望んだのがその子の親だとは、言いきれない時代だ。
だが、世界中の誰かが、何かが望んだから、その夢をかなえるために子供は生まれてきた。
海モモは、この世に夢がなくなろうと、存在し続ける。
それは、何かが誰かがそれを望んでいるからだ。
最終回で、「海モモ」のシリーズのテーマは夢と希望から、このアニメを見てくれている子供たちに自分たちがなぜ存在するか、なぜ必要なのか、なぜ生きなくてはならないかを、少しでも感じてもらえる方向のテーマに若干シフトした。
それが上手くいったかは、視聴者の判断を仰ぐしかない。
最終回をリアルタイムで観た方には、もう、お子さんのある人もいるだろう。
ただ、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』における地球の人間にとっての夢と希望に関してのテーマは、まだ終わっていない。
「海モモ」の最終回の試写を見た日本テレビの堀越プロデューサーが、ぽつりと僕に言ってくれた。
「『魔法のプリンセス ミンキーモモ』はこれで大河ドラマ……ミンキーモモ・サーガになりましたね」
確かに、最初は「空モモ」だけで終わるつもりの『魔法のプリンセス ミンキーモモ』が、「海モモ」をやった事で、夢と希望をテーマした話に決着をつけるパート3が、僕なりにしても必要になっている。
パート3は、パート2の「海モモ」が放映されてから10年以上たった今も、毎年のように企画されては、今一歩のところで、様々な事情で実現されるにいたっていない。実現されれば、空モモから30年を超える作品になる。
僕の脚本歴が、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に占領される事になるのかもしれない。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
前にも書いたが、僕がこのコラムを書き始める前までは、いわゆる「シナリオの書き方」等というようなハウツー本は、読んだ事がなかった。
しかし、この種のコラムを書く以上、多少は参考になるかと思い、大きな本屋で買えるだけの本は買ってきて目を通した事も前述したと思う。
そして、初心者向けの入門書は、形だけは脚本になっているが、オリジナリティのない面白くない作品を書くための方法を教えているとしか思えない本がほとんどで、ある程度脚本を書けるようになった人が、つまらない本を書かないために参考にするには役立つ本と思う。
もっとも、原作全盛の映画界やテレビ界やアニメ界で食べて行くには、原作を脚本にまとめる作業が重要視されるから、この種の入門書を、読むのは損なだけだとは言いきれないのがつらいところだ。
中級者向けの、著名な脚本家の書いた本は、脚本の技術論というよりは、その脚本家の人生論を読まされているようで、その脚本家本人ではない僕たちには、あまり参考になるとは思えない。
そんな本を手本にして脚本を書いたら、著者の人生観をパクった脚本になってしまう気がする。
脚本家の回顧録風の本も、同業者の楽屋落ちのエッセイやエピソードとしては面白いものもあるが、自分の書く脚本の参考になるとは思えない。
つまり、脚本創作法を書いた本は、読み物としては興味深いものもあるが、自分の脚本の創作にはほとんど役に立たない。
それでも、脚本を書き終わった後の睡眠法まで書く親切な僕である。
脚本を書くために参考になる本はないか、という質問が時々くる。
そんな時は、過去の名作で脚本がいいと言われている映画の脚本を読みなさいと言うしかないが、案外そんな映画は、監督が脚本に手を入れている場合が多いから、脚本を読んでも当てにならない場合が多い。
ただ、アメリカの有名監督で、ビリー・ワイルダーという人がいる――すでに故人であるから、ビリー・ワイルダーという監督がいた、と言った方が正しい。この人の名を知らない人は、脚本家になろうなどと思う前に、彼の作品のDVDかビデオを見てから出直してくるように――。
この監督は有名な台詞を残している。
「わしは、本来、監督ではなく脚本家である。自分の書いた脚本を、監督に下手にあつかわれたくないから、自分の脚本は自分が監督もする事にしている」
世間では名監督と言われながら、「自分は脚本家である」と言いきっているのだから、凄いというか、かなり脚本に自信があるのだと思う。
僕も「俺は脚本家だ。だから、演出に口を出す」ぐらい言いたいものである。
ときどき、絵コンテやアフレコに口を出して顰蹙を買った時もあったけれど……ね。
ただ、残念な事に、ビリー・ワイルダーは外国人であるから、脚本の微妙なニュアンスが、日本人の僕たちには分かりにくいところがある。
監督と脚本家を兼任する日本人では、老匠、新藤兼人氏がいるが、僕個人としては、脚本が玉石混交に思えて、あまりお勧めできない……。などというと、脚本界の長老だけに、「チンピラアニメライターが何を言う!」とお怒りを頂戴するかもしれなくて怖い。
もっとも、僕など相手にもされないか……。
で、脚本を読む以外に、よい指南書はないか……と、脚本家の書いたもの以外の本も探してみたら、思わぬところから、参考になりそうな本が見つかった。
何と、アニメファンならよく知っているあのガンダムの監督の富野由悠季氏の本だった。
つづく
■第103回へ続く
(07.06.06)
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