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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第103回 『ミンキーモモ』「夢にかける橋」

 「海モモ」が終わり、番外編ともいえる「モモ学校に行く」他のみっつの作品もでき上がった。
 これで、「海モモ」は全て終わったと思っていたら、モモのOVAを2本作りたいという注文が入った。
 どうやら、キングレコードやその系列のスターチャイルドが、表になり裏になり動いていたようだったから、このOVAの実現には、スターチャイルドの自他共に認める『ミンキーモモ』ファンだった大月俊倫氏の影響が大きかったのかも知れない。
 ミンキーモモのOVAはTV放映版よりもクオリティの高い作品にしようというのが、当時の合言葉だったような気がする。
 その中の一編「夢にかける橋」は、舞台が橋だけの作品である。
 僕としては、互いに何の関係もない人々がすれ違い、しかしそれは、互いにとって確かに出会いと別れなのだ……という叙情詩のようなものを、前々から作りたかった。
 昔、『街角のメルヘン』という作品では、新宿西口の道の1年間を舞台にしたが、道を通り過ぎる人や周囲の風景はあくまで背景として、2人の男女の出会いと別れに絞ってアニメにした。
 今度は、ひとつの場所の1年を主役にして、通り過ぎる人たちが見せる人生の断片をモザイクのようにちりばめる作品を考えていた。
 その場所は、前々から「橋」に決めていたが、『ミンキーモモ』という作品とは、別の作品として考えていたものだ。
 実際、この橋を通り過ぎる人たちを1年間にわたって見つめる主人公の少女は、ミンキーモモという名前を使っていない。
 極端な話、この少女は別にミンキーモモでなくてもよかったのだ。
 ミンキーモモでなくてもいい作品だが、やはり、この作品は、ミンキーモモこそのキャラクターとムードを持っている。
 『ミンキーモモ』のエピソードでなくてもいいかもしれないが、やはり、『ミンキーモモ』でなければ存在しえない作品……意識的にそんな作品にしようとした。
 ストーリーや、細かいプロットを聞いてくれたスタッフは、どんなものができ上がるか不安だったろうが、快く納得してくれた。
 むしろ、そんな風変わりな『ミンキーモモ』にやる気を燃やしてくれているようだった。
 まず、僕は橋を行きかう人々の人生を考えた。
 人々が、通り過ぎる橋の上で見せる表情やしぐさは、その人の人生をわずかにかいま見せる断片でしかない。
 それを、視聴者にある程度想像させる、しぐさや台詞に苦労した。
 橋の上をさりげなく通り過ぎる人々だが、そのほとんどに、その人なりの人生を考えた。
 もちろんその人生は、アニメの橋の上では語られない。
 台詞やしぐさからは、その人の人生の香りがかすかに匂ってくるに過ぎない。
 例えば、いつもリンゴをかじって橋を通っている女性が娼婦であるという事に気づいてくれた視聴者は何人いただろうか。
 彼女は、自分を娼婦だとは言わない。だが、他の言葉やしぐさで、それらしい雰囲気を出す。
 彼女だけではなく、橋を行きかう人々の台詞やしぐさに、それぞれの人生を直接的にではなく感じさせる。
 僕の作品の中では、この「夢にかける橋」より出来がいいものがあるという方もいるが、こと台詞と登場人物のさりげないしぐさに関しては、いまだに、これ以上の脚本を僕は書いていないと思う。
 この作品は、30分強の短編でありながら、企画されてから完成まで9ヶ月間もかかっている。
 ストーリーと登場人物と人物の動きは僕が作ったが、脚本の1稿は、面出明美さんに書いていただいた。
 だが、面出さんには人間関係にドラマを持ち込むことはできても、通り過がりで互いに関係のない人物の交流を描く事は、難しかったようだ。
 無理もないのである。本来、登場人物の間をドラマチックにするのが、普通のアニメ脚本家の仕事であるからだ。
 結局、台詞と登場人物のしぐさは、ほとんど僕が書き換えた。
 面出さんは、僕の書いた決定稿にはかなり不満があったようだが、できあがった作品を観て、驚いたようだった。
 無理にドラマチックにしなくても、人の心を動かす作品は作れるのである。
 スタッフの中には、その方の作ったOVAの中では、「夢にかける橋」を最高の作品のひとつだと言ってくださる方もいる。
 あれから十数年も経った。
 今の面出さんのアニメ脚本に、「夢にかける橋」と、前述したCDドラマの「雪がやんだら」の2本の『ミンキーモモ』で得たものが、少しでも影響を残していてくれればうれしいと思う。
 ところで、「夢にかける橋」の完成に9ヶ月もかかったのは、脚本のせいだけではない。
 なにより問題になったのは舞台になった「橋」である。
 一応、イメージでは、西洋特有の大きな古い石橋で、中央を路面電車が走っている。
 登場人物は、ほとんどその橋のどこかにたたずみ、または歩き回る。
 だが、その人たちは橋のどこにいればいいのか?
 その人と人との距離感をどうだせばいいのか……。
 その人たちを描くカメラアングルはどうするのか……アニメの場合は、背景、美術の問題である。
 イメージで描いた背景や美術では、カメラの位置から見た風景が曖昧になって、リアリティのなくなる恐れがある。
 ちょうどその頃フランスでは「ポンヌフの恋人」というポンヌフ橋に住むホームレスを主人公にした映画が作られていた。実際のセーヌ川にかかるポンヌフ橋では、カメラアングルの問題や、ロケのための交通整理や、雨や雪を降らすシーンの撮影が不可能なため、本物そっくりの実物大の橋を、何十億もかけて別の場所にセットを作って完成させたという。
 ついでながら、この映画、フランス映画史上、空前の赤字映画になったらしい。
 で、そんな事は構わず、僕は口走った。
 「本物の橋を作らないと、この脚本も書けなきゃ、アニメも完成しないぞ」
 「それもそうだ」と監督の湯山邦彦氏も頷いた。
 驚いたのは制作文芸担当の南極二郎氏である。
 「橋」といっても見知らぬ架空の西洋の橋である。
 ロケハンしようにも、どこに行ったらいいか分からないし、第一、海外ロケハンなんて、そんな予算はない。
 『アイドル天使 ようこそようこ』なら舞台が渋谷だから電車代ですむが、今度の橋はそうはいかない。
 結局、どこをどう工面したのか、「これでご勘弁を」――それは、ペーパークラフトでできた、橋の模型であった。
 模型とはいえ、専門家に作ってもらったかなり巨大で立派なものである。
 「製作費は……?」と聞く僕に、南極二郎氏は「さすがに億はかかりませんでした……」と、にやりと笑った。
 ともかく、この模型は、少なくとも僕には役に立った。
 橋の上の登場人物の位置を明解に想像することができたからだ。
 監督、演出、絵コンテ、その他の人たちの参考にもなったと思う。
 なにしろ、イメージでなく、模型とはいえ実体化した橋が目の前にあるのである。
 僕の想像だが、晴天の日、雨の日、夕日……模型にライティングをすれば、それなりの影など、随分分かりやすくなったろう。
 だが、僕の知らないところで、「夢にかける橋」はさらに、様々な人の苦労と努力が必要とされたらしい。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 富野由悠季氏とは、昔、イベント等で何度かご一緒させていただいているが、氏の代表作である『ガンダム』を実は一度も観た事がない。
 観ようとした事はあるのだが、氏の作品の台詞が妙にいらついて、15分と観続けられないのだ。
 ところが、氏の書いているアニメージュのエッセイなどは、面白くて単行本まで買って読んでいるから不思議である。
 おそらくアニメに関してだけ、僕の作品の台詞のリズムやテンポ、感性が、富野氏のアニメ感性と合わないのだろうと思う。
 で、何となく富野氏のアニメ作品に対しては食わず嫌いになっている。
 だが、映像に対する指南書となると話は別である。
 その人の語る理論と、実際のアニメ感性を同一には語れない。
 感性としては好き嫌いがあるが、理屈は正しいという場合もある。
 そんなわけで、僕が読んだ映像指南書関係の本の中では、富野氏の書かれた「映像の原則」(キネ旬ムック)が、数多い脚本ハウツー本より、よほど初心者から中級の脚本家には役に立つと思う。
 富野氏は監督だから、当然この本もシナリオ教本ではない。
 だが、映像について分かりやすく語られている前半部は、映像に関係する脚本家にとって、シナリオの書き方以上に知っておかなければならない基礎である。
 原稿用紙の書き方よりも、先に脚本家が知っておかなければならない、映像とは何かを、これほど丁寧に語ってくれる本はめったにないだろう。
 何しろ、モンタージュ論まで教えてくれるのである。
 そして、中盤を過ぎる頃から絵コンテ論に入ってくる。
 絵コンテを描く側からのシナリオについての話が時々出てくるが、これが、シナリオライターの書く創作術より勉強になる。
 言うまでもなく、まずシナリオがあって、その後あれこれあるにしろ、次に絵コンテの作業になる。
 富野氏の本には絵コンテや演出が、どうシナリオを処理すべきかも当然書かれている。
 シナリオを絵コンテで変えられて、怒る脚本家は多い。
 実写の世界でも、監督と脚本家が出来上がった作品で、喧嘩になる事が少なくない。
 だが、怒る前に、相手の意見も聞いてみるべきである。
 味方ともいうべき同じ脚本家の指南書よりも、敵さんとまでは言わないが監督や絵コンテの意見や見方が、脚本家にとっては役に立つ事の方が多いと思う。
 別に、絵コンテや演出に気に入られそうな脚本を書けとは言わない。
 だが、富野氏の「映像の原則」が、参考になる本である事は確かだ。
 富野氏のコンテに対する考え方は、僕にとってはとても役に立った。
 ただ、ふと思うのは、富野氏は、脚本家運が悪いんじゃないかなあ、という気もしたのである。
 違っていたらごめんなさい。
 ひどい脚本に頭にきて、自分流に絵コンテで変えちゃうんじゃないですか。
 誰が書いた脚本も、数分台詞を聞くと、富野流を感じてしまうんですね。
 僕はたいした脚本家じゃないけれど、若い頃は、自分の書いた台詞と、同じ台詞を書いた絵コンテの台詞の、秒数の違いまで気になって、アフレコスタジオに行って台詞直しをしたり、声優と話して、その声優が無理をしない自然な語り口を台詞に取り入れたり、場合によっては、絵コンテチェックまでしたりしていた脚本家なので、こんな僕が富野氏と仕事をするような事が起きるとすると、大げんかになるかも知れませんが、それでもなんとなく富野氏の脚本家運が気になります。
 確かに、信じられないほどひどい脚本を書く人も多い。
 そんな人は、顔を洗い直して、富野氏の「映像の原則」を読んでほしい。
 そうでない脚本家も、一読を勧めたい。
 なにしろ、こんな惹句が、表紙に載っている。
 「本書を何度読んでもわからないという方は、やはり映像業界に就くことはおすすめできません」(富野由悠季)……僕も少しはそう思います。

   つづく
 


■第104回へ続く

(07.06.13)

 
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