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第112回 「黄龍の耳」音で官能?
「黄龍の耳」のラブシーン、つまり官能場面を、音だけで表現する。
これには、ほとほと困ってしまった。
僕が書く脚本や小説のほとんどの登場人物には、現実のモデルがいる。
もちろん、モデルになった人を、そのまま書くのではなく、かなりデフォルメし、想像も加えている。実際のモデルとは全く違う人物のように見えるだろうし、モデルにされた本人も、その人が僕の作品に登場するキャラクターの原形だと気がつくこともまずありえないと思う。
だが、そのキャラクターの行動や考え方や感性は、できるだけ現実にいる人をモデルにすることにしている。
そうする事で、登場人物がいくらアニメ的で現実ばなれした行動をしても、どこかしら「あ、もしかしたら、こういう人いるかもしれない」というリアリティを持たせることができると思っているからだ。
登場人物の置かれている状況も、僕自身の周囲に起こった出来事や僕自身の体験で、リアルに想像できる範囲内で描くようにしている。
僕の書いた脚本の作品を見る人や小説を読む人が、どんなに奇妙きてれつに思える話も、僕自身には、リアリティのある、現実にそった事が元になっている。
ただ、それを元にして、できるだけ大風呂敷を広げ、デフォルメして描くようにしているのだ。
要するに、僕の書くものには大なり小なり、僕が出会った現実にいる人、現実に起こった事が原点にあるのだ。
舞台が宇宙であろうと、未来であろうと、過去であろうと、異世界であろうと、僕の作品には、僕なりのリアリティのある部分が潜んでいる。
僕の経験や体験のリアリティがほんの少しでも根底にないと、少なくとも僕は脚本や小説が書けないのである。
まず僕自身のリアリティがあって、そこから作品の設定や登場人物が僕の想像を広げてくれて、勝手に動いてくれるのである。
さて、音響ドラマ「黄龍の耳」の聞かせ所のひとつはラブシーン、官能シーンである。
これが、僕にとってはほとんど想像がつかない世界だった。
なにしろ、ヒーローは女性にとって魅力のある男である。
何もしなくても、出会った女性が黙って寄ってきて、ヒーローに抱かれる事を躊躇しない。
つまり、もててもててしょうがない男である。
こんな男は僕の周囲にはいない。
僕自身としては、40代で結婚したぐらいだから、20代、30代で結婚した男性よりは、付きあった女性の数は多い方だと思うが……恥ずかしながら、その女性達とはことごとく別れた、というか振られたといっていい……ともかく、女性に対して何もしないで黙っていても女性側から接近してきた、などという憶えはほとんどない。
まあ、少しはあったのかもしれないが、女性にもてた……過去形なのが淋しい……という自覚はないし、まして、もててもてて困るなどという気持ちになったことは、1度もない。
男女がラブシーンなり官能シーンにいたるまでには、それなりの恋愛のプロセスが必要だと思うのだが、「黄龍の耳」ではそれがほとんどなしに、女性達はヒーローに出会うとすぐにめろめろになって、身を任せてしまう。
その女性達は、男なら誰でもいいというような淫乱タイプではなく、それぞれ魅力的な個性を持った美しい女たちである。
それが、相手が「黄龍の耳」のヒーローに限って、あっという間にラブシーンになってしまう。「黄龍の耳」のヒーローは、「007」のジェームズ・ボンドのように、根っからの女性好き、女たらしというわけでもない。
それなのに、「黄龍の耳」のヒーローは好き嫌いなしで、まるで女性を抱く事が自分の持つやさしさだと考えているかのように官能シーンに突入してしまう。
来るものは拒まずという感じである。
このヒーローには、この男に対して愛一筋というヒロイン(恋人)がいるのだが、それにも関わらず、他の女性とのラブシーンの時は、その恋人の存在が、気持ちの中から消えてしまう。
こういう男は、現実に会った事もないし、当然、僕自身にこの男のような経験があるはずもない。
だから、「黄龍の耳」のヒーローの女性に接する時の態度や気持ちが、ほとんど分からない。
つまり、僕にとって、官能シーンにおける「黄龍の耳」のヒーローは、ほとんどリアリティのない存在なのだ。
まして、ヒーローに接する「黄龍の耳」に登場する女性達の気持ちがどんなものか、まったく見当もつかない。
知り合いの女性の脚本家や小説家に聞いてもみたが、「そんな女がいるはずない。男の妄想で作りだした女性像よ」と、一笑された。……な事を言っている女性作家自身が、自分の脚本や小説では、けっこう濃厚なラブシーンを書いていたりするのだが、少なくとも「黄龍の耳」のような男女関係は、女性から見てもリアリティがないようだ。
ヒーローと女性達の気持ちが分からないから、ラブシーンで語る台詞が思いつかない。
もっとも、べらべらおしゃべりしながらのラブシーンや官能シーンは、めったにないだろうし、僕自身だって、そんな時はほとんど無口である。
それに「黄龍の耳」のヒーローは、あくまで格好いいヒーローであり、コメディじゃあないから、むやみやたらと、意味の分からないラブトークを口にするはずもない。
まして、この男には、ヒロインの恋人がいる。
ヒロイン以外の他の女性に対して「好き」だの「愛している」だのといった言葉は、恋人のいるヒーローとしての立場上、喋るはずがないのである。
だから、ヒーローはラブシーンでは言葉少なく黙っているしかない。
とすると、頼りになるのは、相手の女性の反応だが、登場する女性達は、どちらかというと性愛に対しては品がよさそうで、官能的なラブシーンを展開するのに我を忘れて大暴れ(?)したり、大声を出したりするようなタイプはいなかった。
女性の方も、あまりじたばたしないのである。
基本的に大騒ぎせず、聞こえる声は静かなはずである。
そんな女性が、各話に順番に必ず出てくる。
その女性達とヒーローの官能場面を音で表現しなければならない。
官能場面でのそれぞれの女性の違いを表すのも音だけである。
これが映像ならなんとか描く事ができるかもしれない。
もっとも僕は、映像でも官能なんてものは表現不能だと思っている。官能なんてものは感覚的なもので、目で見えるものではない。当事者の感覚を官能的に映像化することはできても、それはあくまで官能(的)であって、第三者の見た目や、カメラが映し出した画像にすぎないと思っている。
だから、僕に限って言えば、その種の場面を映像で見ても、頑張ってカメラで撮っているなとか、その画面自体を凄いなあとか、たまにはきれいだと思うこともあるが、登場人物の官能度まで感じることはほとんどない。まして、その官能を役者がカメラの前で演技していることを思えば、いくらその役者が体当たりの熱演をしても、嘘に見えてしまう。せいぜい感じるのは、その場面を必要とする脚本家や監督の、その作品に対する感性ぐらいなものである。
そりゃあ、見せ場としての、その手のシーンは、好奇心をくすぐられはするが、それで、自分の感性まで揺さぶられる事はない。
これはもしかしたら、僕だけなのかも知れないが、ヌード写真やその種のものも、人並みに興味はそそられるものの、だからといって、所詮は他人事じゃないかと、冷めて見てしまうところがあるのだ。
とくに恋愛とか性愛行為なんてものは、他人のものを見るものではなく、自分で経験するものだという気持ちの方が強く、見ているのが馬鹿馬鹿しくなるのである。
何だか話が余談になりすぎたような気がするが、ともかく音響ドラマ「黄龍の耳」は、耳に聞こえる音だけで、官能シーンを表現しなければならない。
「ああ、そのとき、彼の指が、×××をかすかに○○○して、わたしの△△△は、□□□になり、思わず私の口から声が漏れた。あ……あ……」などとアクションシーンの時のように、官能シーンの様子をご本人がべらべら言葉で実況中継するのでは、一部の人の劣情を刺激するかもしれないが、これはいきすぎて、恋愛官能の恋愛の雰囲気がぶちこわしである。
少なくとも「黄龍の耳」はエロティクな場面はあるかもしれないが、好事家のおじさん向けのポルノ音響ドラマではないのである。
ドラマの品を落しては困る。
じゃあ、どうする?
かくして、「黄龍の耳」の官能シーンを脚本に書くという、後で考えると自分が空しく思える馬鹿馬鹿しい努力が、6話分も続く事になるのである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
原作通りのアニメがほとんどの時代に、オリジナリティのある脚本家はいらない。
極論ではあるが、ある意味、それは正解かもしれない。
だが、それが即脚本家がいらないということにはならない。
今は共同作業の中で、まるでシステム化されたように、原作から脚本、そして絵コンテ、作画、他にも色々あるがやがて映像ができて、音を入れるアフレコ、ダビング、の順で作品ができ上がる。
たまに、作画や映像ができていなくて、アフレコの三日前に絵コンテができ上がるなどという恐ろしい制作状況の作品もあるが……これには僕もびっくりした。おまけにその絵コンテは脚本すらほとんど無視して作られていた。作業の順番がめちゃくちゃで、それでもアニメはでき上がるから不思議である。もちろん、脚本を無視しているから、ストーリーも登場人物の行動もちんぷんかんぷん、ある意味、呆れるほど凄い作品ができ上がって、脚本家がこれは自分の作品ではないと言うのはともかくとして、作品の責任者であるはずの監督まで、自分の名前を出さないでくれと言いだす代物になった。
もう一度言うが、それでもアニメはでき上がるのである……もっとも、それは制作状況が特異な場合で、普通は作業は順序どおり行われる……と、信じたい。
で、通常のアニメ作りの順番から行くと、原作からアニメになる間での途中に、どんなアニメになるかという指針になるものが必要になる。
特に、最近は1本のアニメを作るために、色々な会社が共同でお金を出しているし、TV局他、音楽制作、DVD制作など、様々なところが関わる場合が多い……あまりに関わるところが多いので、○○○製作委員会などと、まとめてタイトルされる事が多い……それぞれを代表する企画やらプロデュサーとタイトルされる人の数もやたら多くなる。
その人達の納得を得るためには、企画書と原作を見せて、「これをアニメにします」だけでは、さすがに済まない場合もある。
そこで、ある程度でき上がるアニメの全貌が分かる指針として、脚本が必要になる。
本当は、原作どおり作るなら、原作からいきなり絵コンテに入ってもいいのだが、時間的に絵コンテができ上がるまで待っていては、他の作業が間に合わない。
それに、アニメを作るのにそれぞれ分担のある共同作業では、脚本を絵コンテにする作業はできても、原作からいきなり絵コンテを書く能力を持つ人は少ない。
当分、オリジナリティのあるなしに関わらず、脚本は必要である。
いや、むしろオリジナリティのない原作どおりの脚本の方が、アニメに関わった人達を安心させるためにも必要かもしれない。
ところで、アニメを作るためのいくつもの作業の中で、一番おいしい作業が脚本かもしれない、という話も、少しはしておかなければならない。
アニメの脚本料が安いという事は、以前何度も書いたが、それでもアニメ制作に関わる作業の中ではそうとう恵まれている方なのである。
次回はそれについて書こうと思う。
つづく
■第113回へ続く
(07.08.22)
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