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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第120回 『機動戦艦ナデシコ』オモイカネの電脳世界

 『機動戦艦ナデシコ』の12話「あの『忘れえぬ日々』」の簡単なストーリーをいえば、ある日突然、戦艦ナデシコが、敵ばかりでなく、味方であるはずの地球連合軍にまで攻撃を始める。
 原因は、戦艦ナデシコのメイン・コンピュータの「オモイカネ」にあった。
 かつて、ナデシコは連合軍と対立していた時期があったが、その時の記憶(データ)が「オモイカネ」に宿っていて、まるでコンピュータである「オモイカネ」が意志を持ったように、連合軍に反抗を始めたのだ。
 「オモイカネ」が学習してきたどのデータが、「オモイカネ」の反抗の引き金になっているかは誰も分からない。
 軍部は、「オモイカネ」の全データの消去を強要してくる。
 しかし、全データを消去する事は、人間で言えば、生まれてきてから培ってきた経験や記憶を全て失う事を意味する。
 過去の記憶や経験や思い出を失ってしまった人間は、もう元の人間ではない。
 コンピュータも同じ事だ。
 ナデシコのメインコンピュータは、今まで蓄積されたデータがあるからこそ、今の「オモイカネ」として存在しているのであり、データを抹消される事は、「オモイカネ」の存在がなくなってしまう事を意味する。
 全データの抹消は、今までの「オモイカネ」が死んで、別のコンピュータになってしまう事なのだ。
 ナデシコのオペレーターとして、他の乗員以上に「オモイカネ」と慣れ親しんできたルリは、「オモイカネ」をただのコンピュータとは思っていなかった。
 まるで、人格を持った親友のようにつきあってきた。
 いや、ルリと「オモイカネ」の間には、人間とコンピュータの関係を越えて、互いに意志の疎通さえあるようだった。
 生き物でない物と人間が意志を疎通させるというモチーフは、なぜか昔から僕の中にあって、「メカは友達」という台詞が口癖のように出てくる少年の登場する『戦国魔神ゴーショーグン』から『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のエピソードなどに、しばしば出てくる。つまり、もともと僕の好きなテーマなのである。
 これは、突き詰めていくと、生き物でない物にも、意志や感情があるということになり、もちろん僕はそんな事は信じてはいないのだが、そういう考え方が好きな事は確かなのである。
 例えば、長い間、失ったと思っていた物が、突然、思いもかけないところで見つかる事がある。
 誰もがこれに似た経験をした事があると思うが、それは、失ったものが、自分が相手の人間に見つけられたいという意志があって、相手の目につきやすいところに出てきたとしか考えられない……つまり、生き物ではない物にも意志があるという説(?)がある。
 ゴルフのホールインワンなどというめったにない事も、ゴルフボールに、ホールインワンしたいという意志があったから、ありえたのだということになる。
 余談だが、生き物でない物にも意志のようなものがあるという、人が聞いたらとんでもない事をかなり真面目に本に書いた人がいて、その人の名はライアル・ワトソンという著名な学者……「生命潮流」などという本が有名……であるが、とんでもない本を紹介する「と学会」というグループにその名前を出されて笑いの対象にされた。
 だが、確かにとんでもない説(?)かもしれないが、僕には、それほど、とんでもないという気もないのである。
 生物でないものに意志があるなど考えられないが、ふと、意志があってもいいんじゃないかと、なんとなくその説を許せるようなスタンスでいるのだ。
 僕は、あまり物を大切にする人間ではないのだが、物を捨てられないタイプで、部屋の中には、もはや古びて役に立たなくなった電気器具などがごろごろ転がって、足の踏み場もない。
 現に、机の上には、ノートパソコンが3台とデスクトップのパソコンが1台、押入れの中にも3台のパソコンが放り込んである。
 実際に使っているのは1台だけだから、他のパソコンは邪魔なだけなのだが、古びてもいまのところ一応動くパソコン達には愛着があって捨てられないのだ。
 だから、今は使いようのないパソコンでもたまに電源を入れては、「よしよし、まだ生きているな。お前」などと、1人で満足している。
 そんな僕だから、『機動戦艦ナデシコ』のルリと「オモイカネ」の意志の疎通を、それほど無理して作り話っぽくせず書けたのかもしれない。
 ルリには遺伝子操作された少女とか、コンピュータと接続できる体を持っているとか、まるでまともな人間ではないような初期設定があったらしいが、僕自身はルリを、幼児の頃の記憶がほとんどないにしろ、普通の女の子として描くように心がけた。
 幼い子供が人形や玩具を人格化して語りかけるように、「オモイカネ」に対して接している女の子だ。
 英才教育を受けたルリとしては、周囲の大人たちの行動が、あまりにドタバタし馬鹿げているから信用できず、孤独になり、表情も乏しくなる。
 それが、大人たちへの冷たい視線になり「馬鹿ばっか」というおなじみの口癖になる。
 ようするに一種の人見知りなのである。
 ルリの唯一気の許せる相手が、コンピュータの「オモイカネ」だった。
 ルリをちょっと人見知りだが普通の女の子にしたいために、そのぶん、相手の「オモイカネ」にはルリが信じられるような人間味を持たせよう、と僕は思った。ナデシコのコンピュータ「オモイカネ」は、記憶(データ)が集積していくうちに、はっきりとは表現しないが自意識……つまり、意志を持ちだしたコンピュータという事にした。
 そして、それに気がついているのは、ルリだけである。
 「オモイカネ」の全データを消去することは、無二の親友を殺す事になる。
 そこで、ルリはデータの集積によって「オモイカネ」の中に育った軍部への反抗心、自意識の部分だけを刈り取ろうする。
 木の枝のように、刈り取った自意識はまたはえてくるだろうが、一時期でも反抗心を失ったような「オモイカネ」の様子を見せれば、少しの間は軍部の目をかわす事ができる。
 「オモイカネ」の死を意味する全データの消去だけは避けねばならない。
 軍部は、「オモイカネ」のデータ消去を開始した。
 ルリは気づかれないうちに、「オモイカネ」の反抗心を刈り取り、全データが消去されたように軍部にみせかける事にする。
 そんな訳で、パイロット兼料理人志望のアキトの協力を得て……アキトを選んだのにはそれなりの理由があるのだが……ルリは「オモイカネ」のデータが集積されているコンピュータ内部に入って行く。
 ここで、問題になるのが、コンピュータの内部、つまり電脳世界を、どうアニメで描くかということである。
 僕が脚本を書き始めて途中で筆が止まった……というかキーボードを叩く指が止まったのは、『機動戦艦ナデシコ』の12話のこの時が初めてだった。
 設定マニアともいえるほどいろいろな『機動戦艦ナデシコ』の設定を作ったスタッフだが、設定を作りすぎて……前にもこのコラムに書いたが、自分たちが作ったはずの戦艦ナデシコのメインコンピュータ「オモイカネ」の名前も忘れていた。
 それほど設定が多かったということだろうが、そのスタッフも、コンピュータ「オモイカネ」の内部の世界に入るエピソードまでは考えつかなかったらしく、「オモイカネ」の内部の電脳世界がどうなっているか、または、どう描いたらいいかまでは設定されていなかったのである。
 「オモイカネ」の内部の様子を、僕が勝手に決めるわけにはいかない。
 『機動戦艦ナデシコ』全体の世界観に関わる事だからだ。
 さっそく、監督、ストーリーエディター(シリーズ構成)、SF設定、プロデューサーと僕が集まって相談である。
 電脳世界というと、なんだか至る所がぴかぴか光っている気がするが、とりあえずそれはやめようという事になった。
 すでに電脳世界の冒険を描いたデイズニーのSF映画に「トロン」という作品があり、やたらぴかぴかした世界で、さらにぴかぴかした登場人物が動き回って、作品の出来もよくなかったが、ぴかぴかまぶしいというか目にうるさい映画で、いずれにしろああいう電脳世界の描き方はもう古いから止めよう……ぴかぴかのあの表現はやめようという事に全員一致で即決した。
 SF設定までいる『機動戦艦ナデシコ』のメインスタッフはさすがである。
 みんな「トロン」という映画を見て知っていた。
 『機動戦艦ナデシコ』で描かれる電脳世界は、ぴかぴかぱかぱかせずに、データが集積されているから図書館のイメージ、「オモイカネ」の自意識という枝を切るから「オモイカネ」の本体は大木のイメージという具合に、電脳世界という言葉から受ける電気的な感じとはあえて違うものにした。
 だが、その時、スタッフや僕が古い表現と言って、あえて『機動戦艦ナデシコ』で避けたそのぴかぴかぱかぱか的な電脳世界の表現が、視聴者に与える影響まではその場にいたスタッフの誰も考えなかったと思う。
 僕も正直に言って考えもしなかった。『機動戦艦ナデシコ』の12話の電脳世界の場面を見て倒れた子供はいなかったはずだ。
 それから、数年後、電脳世界をもろにぴかぴかに描いて、ばたばた子供が倒れたアニメがあった。
 脚本は僕ではない。
 電脳世界は『機動戦艦ナデシコ』でやったから、脚本はもういいよと思ったのだ。
 その作品は、「ポケットモンスター」の1エピソードであり、シリーズ構成は僕だった。
 だが、この時の話は後で述べる事にして、今は『機動戦艦ナデシコ』の話を続けよう。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 僕がシリーズ構成をしてびっくり仰天した作品がある。
 めったにない事だと思いたいから作品名は言わない。
 その作品は僕が1話2話の脚本に着手した時に、なんとまだ監督が決まっていなかった。
 やっと監督が決まった時、僕はプロデューサーから、脚本を字コンテのように書いてくれと言われた。
 監督の能力にプロデューサーは疑心暗鬼だったのである。
 つまったスケジュールの都合もあったのかもしれない。
 アニメは普通、脚本があり、監督の意見が入り、それから絵コンテが書かれ、さらに監督や演出の直しなどあって、でき上がった絵コンテが録音台本……別の言い方をすれば字コンテ、つまり字で書いた絵コンテ……になって印刷され、それをもとに声優さんや音響さんが音を入れる。
 だから、当然、脚本と録音台本は違ってくる。
 脚本に演出と絵コンテの作業が加わって録音台本になるのである。
 ただし、著作権の常識として、脚本を変えてはいけない決まりのようなものがあるから、ストーリーや台詞はあまり変わらないはずである。
 しかし、監督や演出や絵コンテを書く人の力で、脚本が映像化へ一歩を踏み出す事は確かだ。
 そして、脚本を絵コンテにしたものを元にして、作画他様々な人の手を通ってアニメ化されるのである。
 字コンテを書けという事は、監督や演出の作業をすっ飛ばして、字で絵コンテを書けということだ。
 実は、僕は昔、自分の書いた脚本の録音台本を書いた事がある。
 僕の脚本をもとに書かれた他人の絵コンテを録音台本に書き直す作業をして、さらにアフレコ、ダビングに立ちあい、完成品の試写まで見届けた。
 それは、アニメ制作の工程を勉強したいためであった。
 『まんが世界昔ばなし』というシリーズの「くるみわり人形」という作品がそれだが、脚本で原作をかなり変えたし、チャイコフスキーのバレエ音楽が重要な意味を持つから、監督とプロデューサーに無理を言ってそうさせてもらったのである。
 だから、字コンテ、要するに録音台本の書き方は知っている。
 そんなわけで、とりあえず、おおまかだが字コンテと呼べるような脚本を書いた。
 しかし、今回のような場合、字コンテのような脚本を渡された監督は、どう思うだろう。
 監督能力を無視されたと思わないだろうか?
 おまけに、プロデューサーから脚本通りにやれとも言われていなかったようだ。
 さらに、脚本を変えてはいけないという常識も、その監督はあまり知らなかったようである。
 でき上がった作品は、ストーリーは脚本どおりだったが、シーン割……画面のつながりが大きく違っていた。
 脚本ではかなり工夫したシーン割りのつもりだったのだが、ごくごく普通のシーン割りになっていた。
 台詞はそこそこ脚本に書かれたものが使われていたが、なんだか僕の書いた脚本と言っていいものかどうか、首をかしげるものができ上がっていた。
 そもそも、字コンテ風脚本というもの自体が、監督や絵コンテや演出の力を無視して、相手の領海侵犯したものだから、脚本と違うぞと、こちらが文句を言うのも微妙である。
 僕の字コンテ風脚本を読んだ時に面白いと言った人の中には、出来上がったアニメをひどいと言う人もいたが、脚本を読んでいない人は、まあこんなものかなという出来だったかもしれない。
 脚本を書いた僕本人としても、「出来はどうですか?」と聞かれても、「はあ、まあねえ」と答えるしかない。
 監督としては、それでも脚本を尊重したような口調だった。
 アフレコも、1話からほとんど絵はできていないし、絵コンテをそのままビデオに写した……つまり絵の動いていない状態で行われていた。
 声優さんは、録音台本を読むのが精一杯で、アフレコ現場で台詞を直せるような雰囲気ではなかった。
 監督は疲れ切っているように見え、その姿だけでご苦労様としか言えないような状態だ。
 つまり、1話にして、すでに脚本無視などと言っていられる制作状況ではなかったのである。
 脚本無視だろうと脚本不在だろうと、ともかくTV放映に間に合わせなければならない。
 もっとも、それは特別な例ではなく、TV放映など、とりあえず絵が動いて音が入っていればいい。完成品は、DVDで発売するまでに間に合えばいいというのが、今のアニメ界の常識になりつつあるという人もいる。
 ほんとうかね!?
 さて、1話にして、そんな状態だったアニメの脚本は、さらに凄い事になっていくのである。

   つづく
 


■第121回へ続く

(07.10.17)

 
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