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第130回 説明台詞は必要か?
「LIPS the Agent」の、台詞の乗りはどんどんエスカレートしていき、全3部作のほぼ、3時間分の最後には、こんなおまけまでついている。
遊「ねえねえ、私たちの話がアニメになったら、声優さんが必要だよね」
愛「そういうことになるわよね」
遊「素敵な人がいいわよね」
愛「そりゃそうよ」
遊「私、遊の声は、小山茉美さんなんちゃってね」
愛「え? いいいねいいね。そうすると、私の声は、しょうがないから、林原めぐみさん?」
遊「しょうがないから?」
ちなみに、現実の声は、愛が小山茉美さんで、遊の声が林原めぐみさんである。
遊「でも、小山さんってギャラ高いらしいよ」
愛「らしいらしい。で、林原さんってめちゃいそがしいらしいよ」
遊「いそがしい、いそがしい」
愛「無理かなあ」
……間……
遊「私の声がう……ん。小山さんねえ」
愛「私の声が、あの林原さんかあ……」
2人「うーん」
遊「ま、いいか」
愛「ま、いいか」
楊貴妃「ちょっと待った、私、楊貴妃は島津どすえ……」
と楊貴妃の島津冴子さんが割り込んでくる。
実際の収録には、この台詞に、僕や声優さんたちが現場で考えたアドリブがつけ加わるから、もっと珍妙な会話になった。
最後の楽屋落ち的台詞は別としても、アニメでこんな台詞が連発される作品ができたら楽しいだろうにといつも思うのだが、アニメがアフレコで録音される限り、無理だと思う。
実際、プロデューサーがこの作品のアニメ化をもくろんで動き回っていたが、今のところ実現していない。
パソコン紙芝居ともいえるデジタル・ストーリー・ブックという試みも、「LIPS the Agent」の2部までと「平安魔都からくり綺談」の1部で頓挫して、今や、インターネットのオークションで探してもなかなか見つからない珍品になっている。
「LIPS the Agent」に関していえば、アニメ化ももくろんで作っていたので、エピソードを、3部作の他にもいくつも作っていた。
そのエピソードは机の上にほこりにまみれて置かれている。
テーマが保険詐欺なだけに、他のシリーズに使い回しがきかないのである。
もっとも、それらのエピソードには、保険に関する知識や矛盾点がいろいろ挟み込まれていて、保険会社の未払いが問題になっている現在なら、かなりタイムリーな作品のような気もするのだが……。
「LIPS the Agent」はラジオ放送され、全3巻までCD化されているが、今見つけるのはなかなか難しいと思う。
だが、僕としては、音響ドラマとして自分の書いた台詞が、アニメのように間に絵コンテを介入させず、直に声優さんと結びついている作品で、特に小山茉美さん、林原めぐみさん、島津冴子さんという特定の声優さんの個性を意識して書いた珍しい作品なので、愛着も深い。
もしも、この作品のCDをお持ちの方がいれば、テープなりCDなりにダビングでもして知らない方たちに聞かせてあげてほしい……などと書いたら著作権上問題になるので、書かない事にしておくが、そう書きたいぐらい声優さんの実力と、魅力があふれていて面白い音響ドラマだと僕は思っている。
余談だが、このCDを聞いていた2歳の娘が、このドラマの台詞の掛け合いに体を揺すって踊っていた。
もちろん台詞の意味が分かるはずはない。
会話のテンポやリズムが、娘にとっては踊りたくなる音楽のように聞こえたのである。
そしてその心地よさに夢中になって何度も聞いては体を動かしていた。
それは、小山茉美さんや林原めぐみさんや島津冴子さんが、娘に、まだろくに憶えていない日本語の喋りを教えているようなものだった。
日本語の話しかたの教師としては申し分のない声優さん達だが、脚本を書いた僕は少しだけ後悔した。
「LIPS the Agent」は基本的にギャグアクションである。
台詞もいささか荒っぽい。
こんなに娘が夢中になるのだったら、もう少し上品な台詞を書けばよかった……と思ったが、後の祭りである。
多分、娘の潜在意識の中に今も「LIPS the Agent」の台詞がしみ込んでいるに違いない。
ちなみに僕の書いた他の音響ドラマには、2歳の娘は関心を示さなかった。
聞きたがるCDは音楽だけだった。
他の音響ドラマの中でも「LIPS the Agent」だけが、音楽のように感じたのかもしれない。
おそらく、声優さんの台詞が娘の中で音楽のように響いたのだろう。
僕はあらためて、声優さんの演技力、表現力、個性、そして台詞の重要性を強く感じた。
台詞といえば、アニメの脚本を書き始めていつも気になっているのは、大多数のアニメの台詞が説明的なことである。
台詞を喋る人物が、状況や心境や感情を台詞で説明しすぎる気がする。
アニメに限らず、TVドラマも説明台詞だらけである。
そして、合言葉のような決まり文句……つまり、巷に流行りそうな台詞とも呼べない言葉の連発。
最近は、実写映画の台詞も説明台詞が多くなった。
おそらく脚本家がアニメやテレビドラマで育ち、説明台詞を書く事に抵抗がなくなったからかもしれない。
それが影響してか、日常生活にも説明台詞が多くなった気がする。
つまり、言わなくても状況を見れば分かる台詞である。
しかも、その表現が直截になってくる。
説明が過ぎると、誰にでも分かりやすくするために、語彙が単純になってくる。
愛情表現は「好き」「嫌い」の二言で済まし、興奮したり窮地に陥ったりすると、なんでもかんでも「くそ!」ですましてしまう。
説明台詞は、詳しく説明するつもりでも、実は言葉を、平板で単純で誰にでも分かりやすいように、記号化してしまう傾向がある。
説明台詞が増えるくせに、説明する語彙は少なく単純化してくるのだ。
説明台詞が増えれば増えるほど、単純な語句で状況や心境や感情をパターン化してしまう傾向があるような気がする。
よく聞く台詞で「わたしってそういう人なの」「あの人ってそういう人なのよ」というのがある。
「そういう」というのが「どういう」のかはっきりせずに、パターンで人を分けてしまうのだ。
説明台詞の行きつく先は、自分や人や状況をパターンに色分けしてしまう事に通じるような気がしてならない。
僕は状況や心境や感情を現わすには説明台詞で分からせるのではなく、別の台詞で表現するのが台詞の醍醐味だとおもう。
台詞だけでなく役者の演技力も表現力も個性も、説明するためにあるわけではないはずだ。
例えば、涙を流す演技を見せて、悲しいという気持を説明するのは、演技力ではない。
涙を流さず悲しいという気持を表現できるのが、演技力なのである。
「泣いてなんかいないわ」と言いながら、ほろりと涙が出る。
それが、演技力であり表現力だろう。
もっとも、こんな場面は、台詞は説明でなくても、表現的にはひどく説明的であり、説明台詞を非難するほどの資格はないかもしれないが……。
「LIPS the Agent」にも説明台詞はある。
ほとんどが、主人公が置かれている状況説明である。
音響ドラマである以上、目に見えない状況は説明しなければならない。
しかし、その他の台詞は説明台詞を極力減らし、感情や心境を台詞にする時は、説明台詞ではなく、少しずらした台詞や心境とは逆の台詞にしている。
台詞は「この野郎!」と怒っていても、心は相手に好意を持っている場合もあるのだ。
そのずれた台詞や逆な台詞をずれたままでなく、本意とは逆な台詞であっても本来の感情や心境をふまえて、「LIPS theAgent」の声優さん達は声に出してくれた。
その方達は優れた演技力と表現力と個性を持っていると思うし、自分の書いた台詞を、こちらの本意どおり声に出してくれる声優さんと出会えるのは、脚本家冥利につきると今さらながらに思う。
世間にはほとんど知られていないだろう「LIPS the Agent」について長々と書いてきたのは、アニメ脚本家にとって、台詞とそれを声に出してくれる声優さんがいかに大切かを言いたかったからからである。
茶の間でアニメを見ている子供たちは、色々な事に気が散って、TV画面だけを見ているわけではないから、耳で聞こえる台詞で内容を分らす必要がある……だから、アニメはできるだけ説明台詞を増やせという人もいる。
実写のTVドラマに説明台詞が多いのも同じ理由だという人もいる。
それなりの理屈だとは思うが、僕はそうは思わない。
他の人の書いた作品ならともかく、自分の書いた作品ぐらい、他の事に気を散らさずに集中して見てほしいからだ。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
前回、「要は、監督やプロデューサーに簡単に書き換える気にさせるような脚本を書くな、という事である。脚本を変える事がくせになっている監督、演出、絵コンテには、書き換えられる余地のない脚本を書いて、そのくせを直してもらうしかないのである」と、書いた。
それに付け足す事として、脚本家本人が書きたくて、もしくは満足した脚本で、プロデューサー、監督、演出、絵コンテで書き換えられる余地のないものということになる。
そんなもの書けたら、苦労しない。
そんなものは不可能だ、という脚本家達のつっこみが殺到しそうである。
しかし、自分の本意でなく、プロデューサーや監督のいいなりに書いて、その決定稿が無事書き換えられずに済んだ、では、もはや自分を脚本家とは呼べず、プロデューサーや監督や他のスタッフの脚本代筆業にすぎないだろう。
原作のコミックなどがある時、原作どおりに書く脚本家もいる。
プロデューサーや原作者から、原作どおりにしろと要求される事も多い。
これも、脚本家というより、原作から文字でかかれた脚本への変換業にすぎないと思う。
これに慣れてしまうと、ほとんどの人がオリジナルを書けなくなってしまうようだ。
オリジナルな発想ができなくなり、自分でオリジナルを書いたつもりでも、どこかしら誰かの原作の発想や展開のパターンを真似てしまうからだ。
現状のアニメは、圧倒的に原作つきが多い。
理由は言うまでもなく、知名度があるし、商売として安心だからである。
ところが、原作といっても様々で小説やコミックでもそのままアニメにできない、つまり脚色を余儀なくされるものもある。
中には、原作や原作者の名前だけもらって、中身は違うという珍品もある。
最初にアニメ用の脚本を作って、後で人気のある原作者に原作を書いてもらう……これはアニメのノベライズではなく、あくまでアニメの原作小説を書いてもらうのである……原作より脚本の方が先にできるという事も奇妙な話だが、たまに、よくある(?)話らしい。
もちろんわずかではあるが、オリジナルのアニメもある。
そうなると、もう、脚本代筆業や脚本変換業では、通用しなくなる。
オリジナルが書ける人、書くものにオリジナル性が必要になってくるのである。
オリジナル性のある脚本家は、原作のあるものを脚本にしても、必ずその脚本家の持つ匂いを残している。
これは不思議で、原作そのままに脚本を書けと言われても、どこかに匂いが残ってしまうのである。
で、ここで言う脚本家とは、オリジナル性のある脚本家という事に限らせてもらう。
つまり「監督やプロデューサーに、簡単に書き換えられるような脚本を書くな。脚本を変える事がくせになっている監督、演出、絵コンテには、書き換えられる余地のない脚本を書いて、そのくせを直してもらうしかないのである」とは、脚本家のオリジナル性で、誰からも文句を言われない脚本を書くべきだという事である。
そして、僕が前回まで長々と書いてきた、あるロボットアニメについて起こった出来事……脚本がしばしば絵コンテで書き換えられる要素が、オリジナル性という意味でも沢山あったと、後になると思い当たるのである。
この作品には前作と呼ばれるロボットものの作品があった。
だが、この作品の場合、名前だけ借りた別の作品という事で出発した。
ようするに、原作や原作者の名前だけもらって、中身は違うという珍品の一種である。
だから、脚本のオリジナル性が充分必要とされた。
それが、面白いといえば面白い(?)訳の分からない珍品になったのには、それなりの原因があったのである。
まず、それを語った後、「脚本家本人も書きたくて書き満足した形で、プロデューサーも監督も納得し、簡単に絵コンテで書き直される事のない脚本」を作る方法を考えて見よう。
僕の場合、絵コンテで脚本を変えられた事はある。
めったにないが、その場合、僕自身も了解し納得している場合がほとんどである。
僕の脚本の大きな特徴のひとつは台詞まわしだとよく言われる。
絵コンテで、脚本を変えられると台詞も当然変わらざるを得ない。
脚本で書いた台詞まわしの特徴などふっとんでしまう。
それでも、僕の台詞まわしが云々されるのは、脚本が絵コンテであまり変えられていないということを意味していないだろうか。
「脚本家本人も書きたくて書き満足した形で、プロデューサーも監督も納得し、簡単に絵コンテで書き直される事のない脚本」を作る方法は、難しいかも知れないがないわけではないのである。
その方法は来年にでも……みなさん、よいお年を。
つづく
■第131回へ続く
(07.12.26)
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