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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第131回 原作と脚本と……

 「LIPS the Agent」と、ほぼ同時期に書いたデジタル・ストーリー・ブックが、「平安魔都からくり綺譚」だった。
 絵は、いのまたむつみさんが担当してくれた。
 性格はともかく、容貌は美形ぞろいの登場人物ばかりのこの作品を、よく描いてくれたと感心する。
 美形だらけの人物達に美形なりの差をつけるのは、男女かかわらず描ける美形のレパートリーが広いという事だからだ。
 なにしろこの作品、自分の美貌というか美形ぶりに自信のある男女しか出てこないのである。
 デジタル・ストーリー・ブックに関しては、プロデューサーからは、どんな内容の話でも面白ければ構わないと言われていたが、そんな事はめったにない事だった。
 いくら原作のないオリジナルのストーリーで、その内容は僕にまかしてくれるにしても「魔女っ子もの」にしてくれとか、「アイドルもの」にしてくれとか、「ロボットもの」でやってくれぐらいの注文はつく。
 昔のTVアニメの場合、本来の目的はスポンサーの商品の宣伝である。
 放送局にとっては視聴率である。
 商品の宣伝にならず、視聴率の上がらないだろう作品は、どんなに面白い作品だろうが企画にすら上がらない。
 脚本に対して注文や要求がでるのは当たり前だとも言える。
 もっとも、現在はDVDの売り上げも重要な要素になっているから、アニメ作品の製作はより複雑になっている。
 本来の子供が見る時間の夕方から7時台のアニメが少なくなり――少子化のせいか、その時間帯のアニメの視聴率が上がらないせいもあるのかもしれない――子供が見るはずのない深夜にアニメが放映される事が多いのは、そのアニメのDVDを買うお金を持っている大人がターゲットになっているからである。
 だから、アニメの内容も、子供向けとは言えないものが多くなる。
 昔はアニメで育った子供が、今はアニメ好きで購買力のある大人になって、深夜に見たアニメのDVDを買ってくれる、アニメ業界にとって大切なお客様なのである。
 視聴率の高くない深夜にTVで放映するのは、DVDを売るための宣伝を意味している場合が多い。
 となると、TVの放映はDVDの予告のようなもので、TVで放送される時点では、とりあえず放映できる程度のものでよく、しっかりした完成品はDVDの発売に間に合えばいいなどと言いだすアニメ業界の人もいるらしい。
 ともかく、DVDが売れなければ商売にならないのだから、スポンサーの商品を売るためだけや視聴率を上げるためだけでない、DVDとしてのアニメを売るための意見、注文が出てくる。これも当たり前だといえば当たり前である。
 DVDとして売れるためには作品の知名度も大事だから、当然、本や雑誌やゲームで評判になっている作品……つまりは原作つきのアニメが多くなる。
 どう考えても面白いアニメになりそうもない作品も、原作があるというだけで、企画に顔を出してくる。
 さらに、いつの間にか巨大な購買層になったいわゆる「オタク」という人達がいる。
 もはや「オタク」は日陰の存在ではなく、メジャーで堂々たる「オタク文化民」になっている。
 アニメ関連のグッズも含めて、アニメ業界は、「オタク」の好みを考慮せずアニメを作るのはなかなか難しいといっても言いすぎではないだろう。
 だが一言に「オタク」といっても、種類は様々である。
 それぞれの好みに合せたアニメを作り、商売として成功する作品にするのは、簡単ではない。
 おまけに「萌え」という言葉が出てきてずいぶん経つ。
 その「萌え」の対象になる人や物の種類がどんどん増えていく。
 少し前までは、かわいい女の子が「萌え」の対象だと思っていたら、「執事萌え」などというものまで出てきて、それをアニメに盛り込めないか? ……などという話がアニメの企画会議に出てきている今日この頃である。
 それでアニメが面白くなるのなら結構な事だが、ともかく脚本家への要求は増える一方である。
 程度の差こそあれ、昔から商売を目的にするアニメには、原作があろうとオリジナルであろうと、色々なところから内容に対する意見や注文がくる。
 だが不思議な事に、僕に対しては、脚本の内容、テーマやストーリーに対する注文は、脚本家と呼ばれるようになってから極端に少なかった。
 つまり、「魔女っ子もの」「アイドルもの」「ロボットもの」でやってくれというおおざっぱな注文はあったが、それ以上の要求はほとんどなかったのである。
 もちろん玩具メーカーのスポンサーからは、売り出す玩具をアニメに出してくれという要求は山ほどきたが、その要求はスポンサーとしては無理のない事で、できるだけ受け入れたが、脚本の内容にまでは影響させなかった。
 作品の内容に口を出されたもので記憶にあるものでは、『アイドル天使 ようこそようこ』という作品で、主人公とコンビを組む女の子が売り物になる玩具を持っていないのに人気があり、それが邪魔だから作品から消してくれと言われた事があったが、あれやこれやと逃げまくり、結局、女の子も消さず内容もテーマもストーリーも変えずにすんだ事は、以前、このコラムに書いたとおりである。
 原作のあるものも、無理に原作どおりにやらなくていいという了解をとったものを書いたし、登場人物は同じでも原作に出ていない登場人物が加わったり、原作では脇役にすぎなかった人物が重要な役になったり、ストーリー構成やテーマを変えたりして、やはり原作とは違うものになってしまった。
 断っておくが、僕自身が原作のあるものをやりたくない……と思っているわけではない。
 原作が小説であろうとコミックであろうと、読む人それぞれによって原作から受ける感慨、思いは違うはずである。
 ひとつの原作に100人の読者がいれば、100とおりの読み方、感想がある。
 ひとつの原作から100とおりの世界が生まれると言ってもいいかもしれない。
 僕が誰かの原作を読めば、僕の読んだ原作であり、僕の世界の中の原作である。
 原作者の書いた原作ではないのである。
 その僕がその原作の脚本を書けば、僕の世界の中の原作の脚本化である。
 僕の世界の中に、こんな原作の人物像、ストーリー展開、台詞はない……という事になりかねない。
 僕の世界にないものを、僕は書けない。
 結果、原作を僕の世界に引きずり込んで脚本を書いてしまう。
 いくら、原作の味を出そうとしても、その脚本にあるのは僕の味である。
 つまり、原作と違うものになってしまう。
 それはある意味、原作者にとっても失礼である。
 僕は、原作のあるものの脚本をやりたくないのではなく、原作のあるものを原作そのままには、書きたくても書けないのである。
 原作どおりに脚本を書けと言われたら、僕は、至るところで、これは僕の世界とは違うだろう、違うだろう、違うだろう……で、ノイローゼではないが、病気になる体質のようである。
 20年以上前に『銀河英雄伝説』という小説の劇場版と本編の3話まで脚本を書いた時、色々な事情で原作どおりに書けという指示がプロデューサーから出た。
 その事情には、無理からぬところもあった。
 だが、僕はたちまち体調が悪くなり、すでにできていたシリーズ構成の26話分と、脚本は最初の3本のだけで降ろしていただいた。
 その後、『銀河英雄伝説』の脚本はそっくり原作どおりに書かれ、100本を軽く越える超大作になった。
 かなりのヒット作になったらしい。
 その後も人気は衰えなかったようだ。
 僕が『銀河英雄伝説』を書いてから20年以上経った。
 ビデオも僕が関係した部分しか見ていないし、原作もほとんど憶えていない。
 それが昨年、突然、音楽会社から連絡があった。
 この作品、BGMにクラシックを使っているのが特徴である。
 DVDで全巻を出すのと同時に、使われたBGMを全部録音したCDセットを出すという。
 全部でCD20枚分以上あるというのだが、音楽を録音しただけでは、訳が分からないので、ところどころナレーションを入れて、『銀河英雄伝説』のだいたいのストーリーが分るようにしてほしいというのである。
 確かに思い出してみれば『銀河英雄伝説』のくせのあるナレーションを最初に書きだしたのは僕である。
 「これも、何かの縁だな」と思いナレーションの原稿を書く事にしたが、肝心の『銀河英雄伝説』のDVDを見ていない。
 なにしろ1話30分で100話を軽く越えているのである。
 見るだけで1ヶ月近くかかった。
 そして、その膨大な時間の裏で流れているBGMの合間に簡潔ではあるが、ストーリーだけではなく、登場人物達の感情も説明するナレーションを入れなければならない。
 でき上がったナレーションは、全部合わせるとCD2枚分ぐらいあった。
 正直、くたくただった。
 だが、自分の書いたナレーションを聞いて、笑ってしまった。
 BGMの入っている本編は、ほとんど原作どおりである。
 だから、BGM集のナレーションも原作どおりのダイジェストになるはずである。
 だが、自分で意識したわけではないのだが、ちゃっかり自分の言いたい事はナレーションに入れている。
 結局、原作があろうがなかろうが、首藤剛志という自分が出てしまうのである。
 そんな僕が「面白ければいいから、何でも好きなの書いて……」と言われたらどうなるか……「LIPS the Agent」は、保険をテーマにしながらも、台詞で楽しんだ作品だった。声優さんにも恵まれた。
 「平安魔都からくり綺譚」は、また別の楽しみ方をした作品だった。
 「平安魔都からくり綺譚」の原作は僕である。
 他に原作があるとしたら、日本の平安時代の歴史的事実と実在した人物達である。
 それをぐちゃぐちゃにしたオバカな作品を書こうとしたのである。
 この作品は、ラジオ化されCDにもなっているが、「LIPS the Agent」と同様、今は手に入りにくい状況である。
 だから、作品のストーリーやテーマを語るというより、歴史的事実、つまり、原作と呼んでもいい平安時代の歴史と、脚本家としての僕の関わり方を述べる事になると思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 年を越したというのに、まだ、このコラムで話題にするのは、長々続けてきたロボットものの話である。
 いいかげん僕もあきてきたが、アニメ脚本家について語るのにちょうど都合がいいので、もう少し続ける。
 このロボットものには、前作があった。
 前作の名を使ったのは、知名度があり、前作のフアンを含めてDVD、その他の関連グッズを売りたいための商売上の理由があった事は確かだろうと思う。
 が、その前作を意識しないで新作のつもりで作ってくれという指示は、前作の出来に満足できなかったプロデューサーが、前作のファンと同時に新作のファンも増やそうと目論んだのだろう。
 余計な事だが、いまだに僕は前作を見ていない。
 僕自身は、新しいロボットものを作るべく色々設定を作った。
 僕には過去に別のロボットものの作品があったが、極力、その作品のテーマは入れないようにした。
 主人公達はクールで、人生に対していささか投げやりに設定した。
 舞台は人間の寿命が短くなった200年後の地球である。
 15歳で成年になるという設定もそこからきている。
 基本的なテーマは、200年後の人間は宇宙に存在する価値があるか……である。
 だから、この作品が上手くいくかどうかは、200年後の人間がどんな人間なのかを描けるかどうかにかかっていた。
 そのテーマを、制作の時間的な制約もあって、もう1人のシリーズ構成と充分話し合う事ができなかったのが、僕の失敗である。
 そんな事、言わなくても分かるだろうという僕の思い込みもあった。
 本来、僕がシリーズ構成する作品は、連続ものでなく1話1話のエピソード形式の場合、30分もの1本が完成するのに、最低1ヶ月、長くかかって1年かかるものもある。
 脚本の直しに、30回以上かけた脚本もある。
 それだけ、練るのである。
 プロの脚本家は、1本の脚本にそんなに時間をかけられるはずもなく、そこそこのところで適当に仕上げてしまう。
 1ヶ月にふたつかみっつ番組を掛け持ちする人もいる。
 そういう技術のあるのが、プロのアニメ脚本家である。
 だが、そこそこのものに、まず面白い脚本はない。
 言ったところで仕方のない事だが、2次使用料(印税のようなもの)を考えなければ、家族を持っている脚本家の場合、月に3本か4本は脚本を書かなければ、人並みの生活ができないのが現状である。
 僕のシリーズ構成する作品の脚本は、あまりプロのアニメ脚本家が多いとはいえない。
 新人や素人の脚本を使う事もある。
 もちろん、作品によっては構想30分、執筆時間3時間などという人もいる。
 それで脚本も面白い。
 僕のシリーズ構成した作品の中で、執筆時間は長いが、でき上がると一度も直しがなかった人もいる。
 そんな人はアニメ、映画、ドラマを問わず、アイデアやセンスが群を抜いている。
 書いた本数はそんなに多くはないが、この人達がいなければ『魔法のプリンセス ミンキーモモ』など、途方に暮れた出来になっただろう。
 この人達が、着実に脚本を書き上げてくれたから、数ヶ月かかる他の脚本も完成にこぎ着ける事ができたのである。
 だが、そんな人はたまにしかいないし、結局、アニメのプロ脚本家より、新人やアニメ以外の脚本家に書いてもらう事が多くなる。
 でなければ、プロの脚本を「少し脚本を直すよ」と断って、実はほとんど僕が書き直してしまう場合もある。
 そうでもしないと、週1本消化してしまうTVアニメをとても続けられないからだ。
 「首藤はやたら人の脚本を変えてしまう」という噂がたった事もあるが、脚本が面白ければ変えるはずはない。
 せいぜい、台詞を作品に合ったニュアンスに変える程度だ。
 結局のところ、僕のシリーズ構成作品は、若手の新人脚本家が多くなる。
 その人達に女性が多いのは、別に僕の好みではなく、男性より比較的生活に余裕があり、ねばり強く、頑固な人が多いからだ。
 男性の新人は、何だかあきらめが早い。
 欠点を指摘するといじけてしまうような人も多い。
 そのせいか、アニメに限らずTVドラマや映画にも、このところ脚本家に女性の進出がやたら目立つ気がする。
 いずれにしろ、僕がシリーズ構成をする時は新人を探し回った。
 1ヶ月で、4本書ける手慣れたプロのアニメ脚本家より、2ヶ月かかって1本でき上がる新人の脚本の方が面白いからだ。
 アイデアやセンスだけなら、素人の方が面白い場合もある。
 それを脚本化する技術など、さほど難しい事ではない。
 1ヶ月に4つアイデアを考えなければならないプロと、長年、素人が胸の内に持っていたひとつのアイデアではどちらが面白いか、考えなくても分かるだろう。
 しかも、原作のあるアニメが全盛の現在、プロの書く脚本のほとんどが、原作者のアイデアに頼っている事になる。
 そして困った事に、その原作者自体がアニメやコミック愛好者で、本人が気がつかなくても、原作者のセンスとアイデアの引き出しには、過去のアニメやコミックが詰まっている場合が多い。
 だから、そんな人の原作を脚本化すると、過去のアニメをコピーしたような脚本になってしまう。
 さらに、脚本家自身がアニメ好きで、読む本がコミックばかりという人もいる。
 アニメが好きでアニメ脚本家になった人も多いだろうから、過去のアニメの影響を受けているのは当然かもしれないが、その影響が自分のセンスやアイデアの源泉になっているというのでは困ると思う。
 その作家のオリジナリティが、すでに過去のアニメやコミックのコピーなのである。
 そして、ほとんどの場合、本人はそれに気がつかない。
 今回のロボットアニメの場合、もう1人のシリーズ構成には200年後の人間がどんな人間なのか考えてほしかった。イメージしてほしかった。
 そこを僕がよく説明しなかったのが、失敗だった。
 彼が考えたのは、アニメやコミックの常套手段である肉親関係で描かれる人間像だった。
 そしてストーリーの展開は、作品の全体を見ないその場その場のサプライズと、一部のアニメファンが喜びそうなサービスが続くものだった。
 つまり、大昔どこかで観たようなロボットアニメの展開だったのである。
 ようするに、彼は普通のプロの脚本家が書くような脚本を書いてきたのである。
 おそらく、彼はその脚本を変な脚本だとは今も思っていないだろう。
 いつものシリーズ構成なら、1本に1ヶ月以上かけていたはずの僕が、わずか12本、それも連続ドラマだから、テーマさえ明解ならば2人で6本ずつ書けば楽勝だ……と考えていなかったといえば嘘になる。甘かったのである。
 しばらくシリーズ構成をしていなかったため、僕はぼけていたと言うよりない。
 それに気がついたのは、シリーズ3話目、もう1人のシリーズ構成が書いた最初の1本目だった。
 タイトなスケジュールでは、登場キャラクターの性格からしてあり得ない行動を書いてある部分を直すしか時間がなかった。
 そして、4話ではナイアガラの滝が登場するのである。

   つづく
 


■第132回へ続く

(08.01.09)

 
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