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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第132回 作品向けに歴史を作る……

 「平安魔都からくり綺譚」は、平安時代に竹取物語のかぐや姫が実在したらどうだったかという、いわばよくある「IF」歴史ものなのだが、月に戻っていくかぐや姫を宇宙人だというアイデアは取らなかった。
 誰もが考えそうなそのアイデアは、僕自身、舞台のミュージカルで、すでにやっていたからだ。
 かぐや姫を、架空の人間ではなく、現実の人間として描くために、日本の平安時代と、僕の書く歴史とのすり合わせが必要になった。
 以下は、そのために作った年表だが、実際は、この5倍ほどあるのだが、短縮して載せてみた。
 「平安魔都からくり綺譚」を書くためには、最低、これだけのものが必要だった。

○平安魔都からくり綺談 10世紀末略式日本史改訂一版……その1
  平安魔都からくり綺談日本史編纂委員会・編

 使用上の注意
○現在の文部省教育指導要領にのっとった日本歴史の教科書および年表にしるされた事実とはかなり内容を異にしております。どちらを信頼するかは、皆様のご自由でありますが、以下の年表を、入試、および入社試験、また、平成日本の一般常識として活用されますと、必ずトラブルがおきることを、ここに明記しておきます。
 要するに一般常識として現在残っている歴史は、そのほとんどが歴史上の勝者がなんらかの操作を加えたからくりであり、だからといって、ここに記された事実が、からくりではない真実である……と言い切る自信は、平安魔都からくり綺談日本史編纂部である我々にもございません。
 かといって、まるで、でたらめでないことも確かで、文部省教育指導要領の日本史と比較対照の上、お楽しみいただくことをおすすめします。

 西暦950年以前の10世紀前半について
○794年 桓武天皇……京に都を遷す(平安京遷都)
 その後、約100年ほど、そこそこ平和が続いて……とはいえ、京の都、平安王朝の裏側では、陰険な政権抗争が続いていた。
 政権のトップをねらう方法はいろいろあったが、一番手っ取り早いのは、帝に、自分の娘を嫁にやることだった。
 帝に嫁入りするため、教養と美しさを身につけるために作られた女子校が、内裏付属帝女学館(だいりふぞくみかどじょがくかん)の前身……妃教養塾(きさききょうようじゅく)である。
 だが、帝に嫁入りできる数は限られる。あぶれた塾生は、あまたさぶらいける女御、更衣として、内裏に就職した。
 かくして、内裏の女性たちの知的レベルは、大幅に向上……並の教養と美貌では、内裏の仕事はつとまらなくなった。
○896年 内裏付属帝女学館(だいりふぞくみかどじょがくかん)設立
 そこで改めて、当時、京で教養知識NO.1といわれ後に受験の神様といわれる菅原道真(すがわらのみちざね)を初代校長にした、妃、および、女御更衣を教えるための内裏付属帝女学館が創設された。
○901年 右大臣菅原道真、太宰府に左遷される
 内裏の女性たちへの菅原道真の影響力を恐れたライバル藤原氏の陰謀と思われる。
 以後、内裏付属帝女学館の運営は、藤原氏にまかされることになった。
 早い話が、藤原氏は内裏付属帝女学館を菅原道真から乗っ取ったのである。
 若き女性たちに囲まれていた内裏付属帝女学館から、大陸からの侵略にそなえる兵隊しかいない九州太宰府での生活の差は大きい。翌々年、菅原道真は、傷心・無念のまま死亡。
 「東風(こち)吹かばにほいおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」(道真)
 その後、京の都に、厄災がおこるたび、菅原道真の怨念のせいだとされ、道真は平安世紀末オカルトブームのスーパースターになる。
 10世紀初頭……通常の日本歴史では、すくなくとも西暦909年までには、現存する世界最古の物語「竹取物語(かぐやひめのおはなし)」が成立していた……という説もあり、950年ごろという説もある。が、我らが竹姫が、かぐや姫のモデルだとしたら、当然「竹取物語」の成立は11世紀初頭のはずであり、909年説、950年説は却下……。
 なお、清少納言の「枕草子」は1000年ごろ成立、紫式部の「源氏物語」は1008年成立とされているが、当「平安魔都からくり綺談日本史編纂委員会」は、3作品とも1000〜1005年の間という説をとりたい。
 10世紀初頭より、日本は毎年恒例のように、疱瘡(ほうそう)や赤斑瘡(あかもがき=はしか)などの疫病に襲われ、その被害は20世紀末のエイズや某日本の大腸菌を大きく越えていた。とくに、10世紀末の赤斑瘡は空前絶後の大流行……京の都は、死者の山で埋め尽くされたそうである。
○907年 唐(中国)滅亡
○925年頃 お習字の天才3人組(三跡)活躍する
 小野道風、藤原佐里、藤原行成……ちなみにもうひとつ……平安お習字3人組(三筆)といえば、嵯峨天皇、空海、橘逸成のこと。
 パソコン・ワープロでしか文字を打たない時代には、文字を書く習字はお呼びがないかもしれないが、後の平安ナンパ3人組……藤原道長、藤原伊周、藤原源光よりましな3人組であることはたしかである。
 小野道風といえば、同姓の小野小町は平安初期の歌人……こちらは、スケール大きく世界三大美女……クレオパトラや楊貴妃とならび称され、日本美女の超本命とされている。
 世代こそ違うにしても、この作品に登場する紫式部も清少納言も、当時早くも伝説的になった小野小町の美貌をむちゃくちゃ意識している。
○935年頃 「土佐日記」成立(作者:紀貫之)
 女性たちの間にかな文字が流行……女がしちゃうかな文字を僕もやっちゃう、と男がまねして書いたのが、最初のかな文学といわれる「土佐日記」である。
 いわば、文字のおかま日記であった。
 この頃、関東の平将門・瀬戸内海の藤原純友が反乱……平安王朝は大ピンチ。
○940年 将門の乱平定される
 将門は、京の街に首をさらされるが、その首、なんと空を飛んで、関東に帰るの噂……菅原道真に続き平安世紀末オカルトブームの二大スーパースターとされる。
○941年、藤原純友の乱平定
 純友も首をさらされ、平安王朝のピンチ、かろうじて去る。だが、疫病にくわえ、河川洪水、飢饉、地震、落雷、火災など災害頻繁……科学的根拠なく、あれやこれやをみんな怨霊のせいにして、陰陽師(おんみょうじ)という厄払い(悪霊封じ)や祈祷僧が、花形ビジネスになる。
○959年 中国に宋朝おきる
○969年 左大臣、源氏の源高明、藤原氏との政権抗争に敗れ、太宰府に左遷
 平安の源氏は落ち目街道まっしぐら。これを「安和(あんな)の変」という。
 平安王朝政権は、藤原氏に牛耳られ、以後王朝は藤原氏の内部抗争場となる。
○970年頃 藤原兼通(ふじわらのかねみち)、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)兄弟の争いが激化、この頃大江山に鬼がでるとの噂しきり。
○970年代後半 大江山付近の竹細工師の家に女の子が生まれる
 名を竹姫、正確な生年月日は定かではない。
○986年 一条天皇即位
 王朝は藤原家のなすがまま。藤原兼家が、摂政(政権トップ)になる。
○990年 藤原兼家没
 長男・藤原道隆が政権トップになる。
 ここいらあたり、一夫多妻が当たり前の当時とはいえ、兄弟親戚関係がいりまじり、核家族が普通の平成日本人からみれば、ごちゃごちゃとまぎらわしいことおびただしい。ちなみに藤原兼家の末っ子が藤原道長、藤原道隆の長男が藤原伊周(ふじわらのこれちか)であった。藤原道長と藤原伊周はおじ、おいの関係である。
 そしてこの年、藤原伊周、異例の出世、蔵人頭になる。
 藤原道隆の娘、定子(ていし)一条天皇にお嫁入り。中宮(ちゅうぐう)になる。ようするに藤原伊周と一条天皇の妃は兄妹の関係である。後に定子に仕える女房(女官)になるのが、清少納言である。だがそれはまだ先のこと。
 この頃中国では、印刷技術が完成された。
○990年頃 「平安魔都からくり綺譚」のまさにその時代
 超有名陰陽師が登場。その名を安倍晴明(あべのせいめい)という。
○994年 九州からはじまった赤斑瘡(はしか)が猛威をふるう
○995年 政権トップの藤原道隆をはじめ政権トップの座をねらう有力者軒並み死亡。
 棚からぼた餅……政権トップの座は、疫病にやられなかった藤原伊周と藤原道長のふたりのどちらかにしぼられる。かくして、ふたりはライバルとして政権トップをねらう。
○1000年 彰子(しょうし)中宮になる
 当時全盛の藤原道長は自分の娘彰子を、中宮として一条天皇の妃にする。一夫多妻の時代とはいえ、帝に2人の后というのは、初めてであった。この彰子に女房として仕えたのが紫式部である。
 藤原伊周と藤原道長の戦い激化。それは、定子と彰子の戦いであり、清少納言と紫式部の戦いでもあった。でもでも、それはまだまだ「平安魔都からくり綺談」の後の話……。
 なお、この作品に出てくる藤原源光(ふじわらのもとひかる)の名は、消えたのか消されたのか「平安からくり綺談日本史編纂委員会」の資料にも全くみえない。
 「源氏物語」の光源氏のモデルと言う説も定かではない。
 なお、竹姫が、内裏付属帝女学館に入学したのは990年……世紀末まであと10年というある晴れた日のこととされている。
 前年の889年は天変怪異……長雨、洪水……990年も落雷、火災、さらに、未確認情報によれば、大江山が噴火したという説もある。
 いずれにしろ「平安魔都からくり綺譚」の時代には藤原道長も、藤原伊周も、紫式部も清少納言もしっかり青春している頃だったことは確かなようである。
 以上……。

(注意)平安からくり綺譚日本史編纂委員会は、現在も10世紀末を調査中であり、新事実が発見され次第、記録を書き換えるつもりである。
 20世紀に出版された日本の歴史の教科書を発行された年代によって比較してみれば明らかなように、時代の都合によって歴史は書き換えられるものなのである。

 言うまでもなく、現実の歴史とくい違うところがあるのにお気づきだろうが、僕はとりあえずこの年表をもとにして、「平安魔都からくり綺譚」を書いていった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 爆発はともかくとして水と炎はアニメで描く事は難しい。
 それは、アニメでは常識である。
 お金をかけられる映画では、CGなどを使って、色々試されてはいるが、いまだに完璧に表現できた例を僕は知らない。
 それなのにナイアガラの滝でのロボットアクションを、TVサイズのアニメに持ち込もうとしたのは、アニメ脚本家として素人ならともかく、かなりの本数を今までこなした人なら考えられない事だ。
 それなのに、あえてナイアガラの滝を持ってきたのは、サプライズ、サプライズで押す、いままでのコミックやアニメの常とう手段に溺れたとしか思えない。
 ここいらで、滝のアクションを見せれば派手だろう……程度の感覚である。
 全体のストーリーから見れば、何の必然性のないおどかしシーンである。
 必然性がないから、このシーン面倒ですから他の場所に変えます、で、簡単に描き換えられてしまう。
 必然性があれば、僕や監督も、ナイアガラの滝のシーンを何とか実現できないかと他の方法を考えたかもしれない。
 脚本が、絵コンテで変えられずにすむためには、脚本家の書くシナリオのシーンに、監督や演出や絵コンテが口を挟む余裕のない必然性がなければならないのである。
 ただでさえ、このロボットものは、プロデューサーの予定と違い、前作に関わった監督がやっている。
 監督が前作の色を持ち込もうとするのは人情である。
 そして、タイトなスケジュールのせいか、監督は作品を自分の世界の中で作ろうとする。
 絵コンテで、自分の世界に引き込もうとするのは当然かもしれない。
 脚本の段階ではクールだった登場人物が、戦闘シーンになるとやたら熱くなるのも、アクションを得意と自認する監督としては当然の事かもしれない。
 タイトなスケジュールで、僕と監督が充分に話し合えなかったことも、怪作を生んだ原因かもしれない。
 だが、もう1人のシリーズ構成が、漫然と絵コンテで描き換えられて普通なような脚本を書いていたことも確かだ。
 途中でそのことに気がついてか、シリーズ構成から降りると言いだしたが、もう、タイトなスケジュールはそれをゆるさなかった。
 結果、絵コンテが脚本を軽視した形ででき上がっていき、最終回は監督さえ責任のとれない絵コンテができてきた。
 時間的には間に合わない。
 むしろ、あのスケジュールでよく絵が間に合ったと、奇跡に近い感覚さえ僕に持たせる作品になった。
 絵コンテから3日後のアフレコというスケジュールで完成品まで辿り着けるのは、どれほどの人の苦労があったかを考えると慄然とするしかない。
 それができてしまうのが良くも悪くも今の業界ということなのかもしれないが……。
 だが、よく考えれば、脚本が絵コンテで簡単に変えられない出来だったら、こんな混乱は起きなかったはずである。
 つまり、変えられる余地のない脚本ならばよかったのである。
 変えられる余地のない、各シーン、各シーンが必然性のある脚本。
 もうあのロボットもののアニメの事は忘れて、そのことについて考えてみよう。

   つづく
 


■第133回へ続く

(08.01.16)

 
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