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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第137回 放送禁止用語で、ぐったり……

 「平安魔都からくり綺譚」で描かれた、架空の出来事である「宋」と「日本」の戦争が、現在の中国と日本の関係を刺激するから、「宋」の名前を消してくれというラジオ局からのクレームには笑ってすましたものの、本当はかなり僕は参っていた。
 もともとがでたらめな歴史なのだから、「宋」が「どこかの国」でもいっこう構わないのだが、そのことより、ラジオ局からこの種のクレームが出たこと自体が、僕にとっては残念だった。
 なぜなら、僕が脚本を書き始めてから、僕の書いた単語や言葉の表現にクレームが出たのは、この時が初めてだったからだ。
 考えれば、今までこの手のクレームが出なかったのが、大袈裟でなく奇跡的だったといえる。
 多くの方がご存知だと思うが、TV、ラジオには、放送禁止用語や、放送するのに好ましくない表現というものがある。
 もちろんそれは、様々なメディア全般に言える事だ。
 放送できない言葉や表現の基準は、それぞれの放送局によって若干異なるが、どこも似たりよったりで、放送してはいけない言葉を列記して本にしている放送局もある。
 使って抗議を受けそうな言葉や表現は、片っ端から禁止されていく傾向がある。
 それは、今の若い人が思い当たる、○○○とか×××とかで表現される、猥褻な表現の事ではない。
 それらは下品、不謹慎ですまされる場合が多いし、あまり凄いと問題になる場合もあるが、一般常識で、そんな言葉や表現を使った人は軽蔑されるだけである。
 もっとも、この手の問題は、芸術か猥褻か、表現の自由の是非などという論争に発展し、裁判騒ぎになる場合もある。
 この種の言葉や表現は、問答無用に禁止というわけではないし、むしろ、時代のモラルの変化で、どんどん自由になっていく傾向があるような気がする。
 だから、ここで言う禁止されていく言葉や表現は、別の類のものである。
 それはいわゆる「差別用語」とか「差別表現」とかいわれるもので、過去にいろいろなところで問題になった言葉や表現をまとめた本も出版されている。
 主にある特定の職業の呼び方や、体や精神に障害のある人への呼び方、差別的に使われた民族への呼び方(日本人同士の中でも差別は存在する)が多いが、昔は普通に使われていた言葉が多い。
 もちろん、それが差別を意味して使われた場合も多いが、差別を意識しないで一般用語として使われてしまう場合もある。
 なにより困るのは、あまりに普通に使われている言葉なので、何が差別用語で何が禁止用語なのか、今は分らなくなっているものが多いのである。
 で、その言葉を何気なく書いたり喋ったりすると、「お前は差別というものに対する意識が欠けている」と、ひどく怒られるのである。
 実例をここに書きたいが、それを書くと、どこから抗議が来るか分からないし、僕としても「ごめんなさい」とあやまるだけではすまなくなりそうなのでやめておく。
 これは、放送局に限らず、新聞雑誌のマスコミ全般に言えることである。
 表現の自由とはいいながら、活字化された著作物ですら、それらの言葉や表現が出てくる本の場合、「この本には、不適切な言葉や表現が出てきますが、過去に使われた一般的言葉であり、その事実を尊重するため、ご容赦願います」と、ただし書きが書いてある。
 昔の映画などでも、TV放映される時など、台詞の声が消されている時がある。
 目の見えない「座頭市」を呼ぶ時、めく○、とは呼ばずに、「目の不自由な人」と言い換えなければならない。
 差別的な言い方とされている職業の名称(我々が使う言葉の中にも沢山ある)など、言い換えがとても難しい。禁止語言い換えの辞典のようなものがある放送局もある……。
 当たり前だが、人種であれ、職業であれ、身体精神障害であれ「差別」はよくない事だ。
 だが、歴史の教科書では消されているにしろ、昔の日本に差別は確かにあったのである。
 今も様々な形で生きているだろう。
 だからといって、差別問題も含めて、抗議の出てきそうな言葉や表現は、なんでもかんでも消してしまうのは行き過ぎだと思う。
 表現の自由どころか、表現の不自由を広げているようなものだからだ。
 例えば大新聞では、背景に「差別問題」のありそうな出来事は、ほとんど報道されない。それどころか、どこからか抗議が受けそうな記事は、及び腰で、当たり障りがないように書かれている。
 批判するとしても、反撃を受けない事しか批判しない。
 まして、民放などスポンサーと視聴率が命だから、抗議を受けそうな危険は徹底して避けようとする。
 自動車メーカーがスポンサーの番組に、自動車事故はまず出てこない。
 日本の差別に関わりそうな職業に携わる人物の登場するドラマは企画されない。
 TVドラマで描かれる職業は、当たり障りのないものだけである。
 抗議を受けると、放送局だけでなくスポンサーのイメージも悪くなる。
 その分、放送局が抗議を受けそうにない個人や、力の弱い会社や団体や政治家のスキャンダルは執拗に追いかける。
 最近、建築偽装や食品偽装が問題になっているが、それが悪いことには違いないにしろ、標的にされているは氷山の一角で、その会社の力(政治かマスコミに対する力)が中途半端だからだと思う。
 個人単位や力の弱い会社の反論や抗議はマスコミ関係の会社にたいした影響がないから、非難しやすいのである。
 だが、大集団や大物の抗議は怖いから、「宗教団体」や「差別抗議団体」の報道は矛先が鈍る。見て見ないふりをする。
 放送局や新聞が取り上げる大きな事件は、その報道自体が大きな抗議を受けるようなものは避けて通っているのだ。
 NHKも同じである。
 国民からお金を払ってもらって放送しているから、視聴率を無視できないし、国民の一部から抗議を受けそうな番組は放送しない。
 皆さんに愛されるNHKでなければならないからだ。
 国民の皆さんから選ばれている政治家への批判など、しないほうが無難である。
 NHKにしろ、民放にしろ、できるだけ事なかれで視聴率を取れれば、それがベストなのである。
 そのためには、なるたけ抗議を受けない番組が望ましい。
 抗議を受けない言葉や表現で番組を作りたい。
 だから、どんどん使ってはいけない言葉や表現が増えていく
 で、アニメの場合、制作者はほとんどそのことに無関心だった。
 アニメの舞台が、現実とは違う架空の世界がほとんどだったからだ。
 身体障害者といっても、それが「どろろ」では、抗議をするほうが無茶である。……それでも抗議はあったらしい。
 普通の人間扱いされないといっても、「サイボーグ」や「ヴァンパイア」に差別意識を感じる人はいないだろう。
 それに、アニメは、子供や動物が主役である場合が多いから、森や野原や子供の遊び場、学校が舞台で、大人の職業がなかなか入り込まない。
 アニメのテーマが親の職業になることがないのである。
 せいぜい出てきても、『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』のサラリーマンぐらいである。『ちびまる子ちゃん』の家の職業も、問題にはならないだろう。
 ただし、『サザエさん』では、あるエピソードで、悪徳タクシー会社の名前に、差別抗議団体が意識している言葉を、制作側が誰も気づかずつけてしまって、後で大騒ぎになったそうである。……人気番組だけに、目をつけられてしまったのだろう。その後、放送局も制作会社も、『サザエさん』で使われる言葉に、すごく神経質になったという。
 その他のアニメ、スポーツを扱ったアニメも、職業的差別はない。
 少女アニメの場合、フラワーショップ、ペットショップ……みんな無難である。
 SFアニメ戦争アニメでも、軍人と民間人ぐらいの差しかない。
 人種差別も気になることがない。
 正義と悪の戦いがほとんどだし、違う人種が出てくるといっても相手が宇宙人じゃ現実の差別意識とは別物である。
 要するに、アニメの脚本を書く人に、放送禁止用語や禁止表現を気にする必要は、あまりなかったのである。
 ……もっとも今は違う。某TV局は、女の子のスカートがめくれ、中が見えるとか、ヌードを連想させるシーンは絶対駄目。他の局も、アニメで使われる単語や表現にうるさくなっているようだ。
 僕の場合は、「平安魔都からくり綺譚」で受けた表現の規制は、ただごとではなく感じた。
 僕は、『まんが世界昔ばなし』という番組を、3年間書いてきた。
 民話や昔話は、放送禁止用語と禁止表現がないと、なりたたない話であふれている。
 言い方を変えれば、禁止用語の宝庫である。
 例えば有名な「こ○とのく○やさん」を、「身長が小さく生まれた人の靴製造加工業者さん」では、お伽話にもファンタジーにも思えないだろう。
 僕は、以前のコラムに書いたように、かなり自由に『世界昔ばなし』を書いた。
 当時も、放送禁止用語については知っていたし、放送局の作った本も持っていた。
 だが、僕は、自分の書きたい作品に、奇形や差別をテーマとして出さなかったし、それに関係する言葉を書く気もなかったから、誰からもクレームをつけられなかった。
 ただし、それはたまたまそうなっただけの話である。
 『まんがはじめて物語』も、数多く登場する発明家の生きた時代、出身やその親の職業を出す気がなかったから書かなかったが、基本的に歴史を扱うものである以上、僕がその気になれば、当然、放送禁止用語を使わざるを得なかっただろう。
 放送禁止用語は、僕に言わせれば人間の歴史上にあった言葉を消すことを意味していた。
 それは脚本に関わらずものを書く人間にとって、表現の自由を規制するということでもある。
 僕は、表現の自由が規制された世界で、自分としては、好き勝手な事を書いていたつもりになっていたのである。
 そんな自分が、何だか嫌になり、書くという行為が面倒くさくなった。
 今さら言うのも馬鹿げているが、元々、僕は書く事が好きではないのだ。
 「平安魔都からくり綺譚」を書き、アフレコが終わった時点で、さしあたって締め切りの決まった次の作品はなかった。
 『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の3部の企画、『戦国魔神 ゴーショーグン』の最終回……その他、色々、書きたいものはあったが、期限が決まってはいなかった。
 お金になる脚本や小説を書いていない作家は、無職と同じである。
 それまで『まんが世界昔ばなし』から、20数年、脚本や小説や舞台ミュージカルを書き続け、仕事が途切れたことがなかった。
 ここらで無職になって、自分の書いたものと自分を見つめ直してみるのもいいかな? と思った。
 で、その後2週間、無職だった。
 僕としては、1年ぐらい無職でいるつもりだった。
 だが、無職は2週間ほどで終わってしまった。
 あるゲームのアニメ化の話が、舞い込んできのである。
 それが『ポケットモンスター』だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 自分が世界で1人しかいないオリジナルだという意識を持てば、次に、他の人達もそれぞれ、オリジナルだという事に気がつくはずだ。
 普通、自分が他の誰でもない自分1人だと思えば、自分と他人という分け方をするが、その他人のそれぞれが違うと考えよう。
 人は自分に対して、他の人間達を、あいつらとか、こいつらとか、そいつらとか、集団として色分けしがちである。
 例えば、アメリカ人のやつらはとか、フランス人のやつらはとか、国別や民族、宗教別に色分けしてしまう。
 サラリーマンは、商売人は、芸能人は……など職業別に色分けする場合もあるだろう。
 もっと身近だと、あの学校のやつらはとか、あのクラスのやつらはとか、あのグループのやつらとかに色分けしがちなのだ。
 確かに、人間は1人では生きて行けない社会性のある生き物だから、集団になって行動しがちだ。
 その集団に、それぞれ特徴がある事も確かだ。
 しかし今は、あいつらも1人ひとり違う、こいつらも1人ひとり違う個人だと思うようにするのだ。
 難しいことではない。
 例えば、あなたの恋人の事を考えてみよう。
 あなたにとって、その人はかけがえのない1人のはずだ。
 恋人なんていないという人は、作ればいいのである。
 作ればいいと簡単に言うけれど、そんなの無理だという人は、片思いでもいい。
 もちろんそれは、同性でもいいし、親友でもいい。
 けれど、年ごろになれば誰にでも恋人と呼べる人ができると思うのだけれど……くどいようだが、それが同性でもかまわない。
 ただし、それが会ったこともないアイドルやインターネットのメールの相手とか絵に描いたアニメのキャラクターなどというのは止めてほしい。
 彼ら、彼女ら(?)があなたに見せている姿は、文章や2次元の映像でしかなく、あなたの中にいる恋人は、あなたが妄想でふくらませた虚像に過ぎない。
 おまけに、他の人が作り上げた虚像も、情報としてあなたの中にはいってくる。
 虚像は、さらに大きな虚像に膨れ上がっていく。
 虚像は、あなたがその人と会って、見て、つきあって感じる実体とは違う。
 あくまで恋人は、片思いだとしても、実体として生きている人間にしてほしい。
 恋人は何人もいるぜと豪語する人は、とりあえず、一番愛している人を選んでほしい。
 恋人に順番なんかつけられないという人は、多分嘘をついている。
 よく考えてほしい。知らず知らずのうちに、あなたの中に順番はついている。
 一番大切な人がいるはずである。
 つまり誰でも、他人の中の1人を、集団としてではなく、1人の個人として見つめる能力(?)を持っているはずなのだ。
 その能力(?)があるということは、相手が恋人でなくても、あいつらこいつらの中の1人ひとりの違いを、見分けることのできる観察力があるということだ。
 あなたは恋人の事を、他の誰よりも知りたいと思うだろう。
 その気持ちは、恋人を観察したいという事を意味する。
 しかも、好意的にである。
 恋は盲目などという言葉があるが、あれは嘘だと思った方がいい。
 恋人に夢中になるということは、盲目になっているわけではなく、たった1人の恋人の、他の人との違いを、好意的に見つけ出そうとする……もしくは、すでに見つけ出しているということなのだ。
 で、ここで、恋人についてはひとまず置いておいておく。
 本当に好きな恋人がいるそんなあなたなら、恋人でない他人の中にいるある人を、好意的にじっくりと観察すれば、その人の他の人との違いを見つけ出すことができるはずだ。
 あなたはオリジナルである。
 そして他人の中にあなたとは別のオリジナルな人を見つけることができた。
 それは、逆に言えば、あなたがオリジナルである証拠にもなる。
 あなたが書く脚本にオリジナリティがあるかどうかは、あなた自身がオリジナルである自信を持つ事、それはとりもなおさず他の人の中にオリジナリティを見つける事ができるかという事にかかっている。
 つまり、まず大切なのは、他人の中の1人をよく観察して、その人のオリジナリティを見つけ出すことなのだ。
 それができたら、また他の人を観察してみよう。その人にも、その人なりのオリジナリティがあるはずである。
 様々な人の持つオリジナリティに気がつく事が、より、あなたのオリジナリティを強固なものにしていくはずである。

   つづく
 


■第138回へ続く

(08.02.20)

 
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