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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第140回 『ポケモン』を愛してください

 『ポケモン』の打ち合わせに、僕がはじめて出かけていった頃には、すでに『ポケモン』のアニメ化は決まっていた。
 問題は、ゲームである『ポケモン』をどういうふうにアニメ化するかで、すでにそのための会議も何度か行われていた。
 ともかく、その時点で、『ポケモン』について右も左も分らない状態の僕は、『ポケモン』のアニメ化のスタッフに紹介された。
 僕が知っているスタッフは、監督の湯山邦彦氏しかいなかった。
 とりあえず、それまで何度か開かれた会議の議事録を渡されて帰ってきた。
 これにはいささかびっくりした。
 それが、企画書ではなくて、会議の議事録だったからだ。
 それまで、アニメを含めてTV番組や映画の企画書というものは、読んだ事も書いた事もある……というより、実現するしないはともかく、まずどんな番組や作品も企画ありきで始まるから、企画書のない番組や作品はありえないといっていい。
 企画書を書くのは、本来なら、その企画を考えたリ見つけたりしたプロデューサーのはずである。
 だが、放送局のひとつの時間枠を取るために、様々な制作会社や作品関連会社から無数の企画が集まってくる。
 そのプロデューサーの企画が通るとは限らない。
 ひとつの企画が実現する陰には、没になった山のような企画があるだ。
 制作会社や関連会社は、没になろうとなるまいと、放送局とのつながりを保つために、絶えず色々な企画書を出し続ける。
 実際には、番組の放送を決めるのは、放送局だけとは限らず、スポンサー方面や、広告代理店方面等、様々なところで企画を実現させる要素があるから、企画を通すのも簡単ではない。
 そのぶん、当たればめっけもん的に、多くの企画書が提出される。
 当然、企画が足りなくなり、「なんか、いい企画ない?」と、企画を探し回る事になり、だからといって、見つけた企画が必ず通る保証はない。
 で、その企画に対する余程の自信と愛着がないかぎり、企画書を書く時間があるぐらいなら、プロデューサーはその時間を他の企画を見つける事に使い、奔走する。売れそうな小説やコミックなどは、映画化やドラマ化の予定などまるでないのに、色々な制作会社やプロデューサーから、作家や編集部に映像化権の了解を取る連絡がくるという。
 だから、プロデューサーが企画書を書く筆力に自信のない場合もあるが、通るか通らないか分らない企画の場合、とりあえず若手の脚本家やセミプロの脚本家に企画書を依頼する事がある。
 だいたいそんな場合、「この企画が通れば、その脚本はあなたに書いてもらうから……」などという甘い口約束がついている。
 その企画が優れていようといまいと、新米の脚本家が魅力的な企画書を書ける能力があるかどうかは疑問だが、そもそも企画は、企画書の内容だけで通るものでもない。とりあえず企画書が必要である……という性格のものである。
 結果、通るあてもない企画書ばかり書かされて、そのまま消えていく若手脚本家を、僕は、かなり知っている。
 万が一、その企画書が通っても、「その脚本は実績のある脚本家に書いてもらう」という事になって、企画書を書いた若手脚本家がはずされてしまう場合もあるのだ。
 僕も、脚本家もどきの若い頃は、頼まれた企画書をいくつか書いた事がある。
 それらの企画書は、ほとんど実現しなかった。
 で、何となく馬鹿馬鹿しくなって企画書の依頼を受けるのは避けるようになった。
 というか、その頃は、さほど自分が脚本家になる事に執着心もなかったのである。
 執着していたら、企画書ライターを続けて、その量に潰され、今ごろ脚本家としての僕は存在していなかったかもしれない。
 余談だが、そんな大昔に書いた僕の実写ミステリーのオリジナル企画が、十数年以上もして、忘れた頃に、別の脚本家、別のタイトルでドラマ化され放送された事があり、ちょっとした問題になった事もある。
 その企画のプロデューサーは、昔の僕の事を企画書ライターとしてしか見てなくて、とっくの昔に業界から消えていると思い、アニメの脚本を書いていた僕の存在に気がつかなかったらしい。
 そのプロデューサーは「似たような作品はよくある事で……」などと最初はとぼけていたが、昔の僕の企画書の存在を知っている他の人がいた。
 作品がミステリーで、そのなぞ解きがユニークだったから記憶に残っていたのだ。
 なぞ解きが命のミステリーで、そのなぞ解きを書いた企画書が存在して、それが「たまたま似ていまして……」では済まない。
 そのなぞ解きを使った脚本を書いた人は、「俺のアイディアだ」とは言わず、沈黙している。問い詰められれば、プロデューサーから渡された企画書に書いてあって、そのアイディアをプロデューサーが使っていいと言ったから脚本にしただけ……と答えたかもしれない。
 結局、その放映作品が僕の書いた企画書の盗作だ、と騒ぎになっても困るので、「こういう事はよくある事で……ギャラを払うだけでも珍しい事で」等と言いながら、プロデューサーは原作料にあたる金額をしぶしぶ僕に出して、示談になった。
 「よくある事」じゃ困ると思うのだが、いずれにしろ、僕が脚本家と言われるようになったのは、企画書ライターから出発したわけではない。
 たまたますでに通っていた企画があって、それに、「首藤剛志」という変なライターがいるから脚本を書かせてみよう……と、プロデューサーが思いついたところから始まっている。
 「あの脚本家、変なものを書くかもよ」と、先輩の脚本家が、知りあいのプロデューサーや監督に紹介してくださった場合もある。
 ある企画が通ったが、「首藤剛志」にやらせたら変なもの(?)になるかもしれない……それって、面白いかも……で、依頼がくるから、ずるずる続いて物書きを続けてきた。
 お子様向き舞台ミュージカルにしても、普通のお子様向きにしたくないという気持ちがプロデューサーにあるから、自分のミュージカルが子供に受けようとは思わない……つまり、観客対象を子供に限定しない僕に書かせてみようという事になる。
 小説にしても、変なものを書く「首藤剛志」に小説を書かせるという企画が通ったから、「内容は任せるから、ともかく小説を書いてくれ」という感じで具体化した小説もある。
 つまり、僕から企画案や企画書を提出したものは、ほとんどないのである。
 TV局にしろ、広告代理店にしろ、制作会社にしろ、その作品のプロデューサーの御指名を受けたから……監督の推薦の場合もある……なぜか、他の脚本家の方達からの推薦はわずかである……つまり御指名を受けたからこそ、「僕流、つまり、僕が原作、原案のような作品になってもかまいませんね」と僕は言える訳である。
 プロデューサーにしても監督にしても、僕が変なもの(?)を書くと分かっていて指名、推薦したのだから、風変わりな作品ができてもしょうがないや、面白ければいいや、なのである。
 僕の関わった作品は視聴率のいい作品もあるが、悪い作品でも、なんだかカルトな人気が出てしまう。
 で、なぜか、寿命が長いものが多い。
 関連商品の売れ行きで、スポンサーから指図がきた事があるが、プロデューサーや、監督から苦情や批判がきた記憶はほとんどなかった。……ただし、個性的というか、自分流のやり方がベストな監督(それはけっして悪い事ではなく、その作品が、見る人に受け入れられれば、映像作家、監督、として評価が高いし、僕が感心する作品も少なくない)は、僕の脚本はいらないし、それどころか邪魔だろうと思う。実際、過去には、制作会社等の意向で、そういう監督の方達とやりかけた作品もあったが、案の定、潰れた。その監督の方達とお会いすると、僕もほとんど瞬間的に「この監督、違うな」と思うし、監督の方も「この脚本家、駄目だ」と思ったに違いない……。
 それはともかく、プロデューサーや監督の了解ずくの依頼「この作品、やってくれ」がなければ、僕の脚本は力を発揮できないのである。
 ところが、僕の側から、「その作品をやらしてください」と言いだしたら、その作品に関わるプロデューサーや監督やその他もろもろの人達の感性や意向を尊重しなければならなくなる。
 僕のやりたい事と、その人達の感性や意向が一致すればいいが、違ってしまった場合は脚本を書く僕は地獄である。
 喧嘩にもならない。
 「やらしてください」と言ったのは僕だから、その人達の感性や意向に従うのは当然だからである。
 だから、僕が思うような方向に行かないように感じられる企画は、前もって企画書を読んだ時点で避けるような感覚が身についてしまった。
 企画書は、ある意味、作品が何のために作られるかの方向性を書いたものである。
 本来、プロデューサーは、企画を立てる時、その作品の方向性を明確に持っているはずである。
 そして、そのプロデューサーが本当に作りたい作品なら、企画書を自分で書くだろう。
 企画書ライターに代筆などさせないはずだし、もし企画書を書く筆力がプロデューサーにない場合、徹底的に企画書ライターと企画書の内容を練るはずである。
 そんな作品の方向性を書くしんどい作業は、ライターを消耗させる。
 企画書を書く事は、ライターにとって、自分の方向性を閉じこめた、所詮プロデューサーの代筆業だからだ。
 ただでさえ書く作業の嫌いな僕は、そんな消耗はしたくない。
 今の僕が、企画書らしいものを書くとしたら、企画がほとんど通ったもののシリーズ構成案だ――つまり、ストーリーとか登場人物の設定、アニメとしてどう表現するかである。
 長々と企画書について書きすぎたかもしれないが、脚本家にとって大切な事だと思い、この機会に書いておいた。
 『ポケモン』の場合、企画書どころか、企画はすでに通り、アニメ化も決まっていた。
 そして、ゲームをどうアニメ化するかも、何回か会議されているのである。
 しかも議事録まである。
 僕にはそれまで経験のない事だった。
 『ポケモン』のアニメ化がしっかりとした制作姿勢で作られようとしている事がよくわかる。
 と同時に、『ポケモン』のアニメ化に多くの関係者が多大な関心を持っている事も分かった。
 なにしろ、その会議に出席していない人にも、会議がどのように進んでいるかわかるようになっているのである。
 誰が会議で何を発言したかもわかるのである。
 「議事録の内容は秘密にしておいてくれ」と言われた覚えはないので、それが関係者以外極秘の議事録かどうかは知らない。
 ともかく、議事録があるという事は、会議の内容を知りたい人が多いと言う事である。
 つまりその議事録には書かれなければならない必要性があるという事だ。
 要するに『ポケモン』のアニメの内容は、喫茶店の隅っこでちょこちょこと決められるような事ではなく、とても大きなプロジェクトの重要な要素である事は確かだった。
 何だか凄いところに首を突っ込んだ気がした。
 さらに僕がびっくりしたのは、誰が書いたのかは知らないが、『ポケモン』スタッフへのメッセージがある事だった。
 その内容は、スタッフはまず『ポケモン』のゲームをやってください、そして『ポケモン』を愛してください、だった。
 「愛してください」。それは、僕が脚本を書き始めてから何十年経つか知らないが、一度も書いた事のないテンションの高い台詞だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 2人のそれぞれオリジナルな人間が、互いに違うオリジナルなよさに気がつく。
 そして、他の人にはない相手のオリジナルな部分が好きになってくる。
 相手を好意的に見ているのだから、それは当然の成り行きである。
 お互いが、他人とは違うオリジナルなよい部分が気になってしょうがない。
 そして、よりよく相手のオリジナルな部分を観察しようとして接近する。
 つまり、オリジナルとオリジナルが引かれあうのである。
 こういうのを、普通、恋愛のはじまりと言うのかもしれない。
 それは、男女でも、同性同士でも、同じである。
 恋愛と友情の違いはなにか? などと言う問いがあるが、要するに一般的に言えば相手が異性か同性かの違いしかないと思うし、もっと心理学的な表現をすれば、その接近の感情の中にエロスがあるかないかの違いでしかない。……人間にとってそのエロスが重要じゃないのか? とつっこまれれば確かに重要なのだが、個人のオリジナリティについて語る場所にエロスを持ち込むとややこしくなるし、テーマから外れていく一方な気がする。
 男女の間で友情が成立するかなどという問いも、接近への思いが人それぞれ互いに違うから、それぞれの男女間でエロス的(?)な引かれ方をしなければ、男女間でも友情という互いの引かれ方、つまりエロス抜きの互いの引かれ方もあると思う。
 ついでだが、動物としての人間は、種族保存のため、オスとメスが引かれあうという本能があるというが、ここでそんな生物学を持ちだすのも場違いだろう。誰も彼もが、本能だけで生きているわけではないと思うし、近づいてくる相手が感じの悪い異性(同性でも)だったら、あなたは嫌悪を感じ逃げ出すだろうから。
 話が脱線気味だが、オリジナルとオリジナルの引かれあいを、恋愛と呼ぼうと友情と呼ぼうと、オリジナルである人とオリジナルである人同志が、互いのよい部分の違いを意識し、互いをよりよく知ろうと接近する事は大事である。
 こういう質問がある。
 「作家になるにはどうすればいいですか?」
 短絡的に答える作家先生は、こう言うかもしれない。
 「恋愛をいっぱいしなさい」
 つまり、自分以外の他者のそれぞれが持つオリジナルないい部分を、いっぱい知りなさい、という事である。
 街に出て相手構わず片っ端からナンパしろ、という意味ではないのは言うまでもない。
 もっとも、片っ端からナンパに成功する人がいるとしたら、それはそれで凄い事である。
 つまり、自分の持つ好感度を、見ず知らずの相手にたいした時間もかけずに表現(アッピール)できているという事にもなるからだ。
 同時に、片っ端からナンパできるという事は、相手のオリジナルないい部分を瞬時に見抜き、それを適切な言葉で相手に表現できているのかもしれない。
 そうでもなければ、相手だって簡単にナンパされる気になりはしないだろう。
 相手を口説くというのは、自分のオリジナリティを上手に言葉で表現でき、相手のオリジナルないい部分を適切な言葉で表現して相手の気持をくすぐり、その気にさせる事でもある。
 上手い脚本を書ける人は、その気になれば、ナンパがかなり上手い人なのかもしれない。
 少なくとも、いい脚本の気の利いた台詞が書ける人は、他人の知らない裏では何をやっているかは知らないが、誰かと話している時、相手から嫌われる事は少ないようだ。
 ただし、口で話している時のストーリーはやたら面白いのに、脚本に書いてもらうと全然面白くない脚本家がいる事も確かだ。


   つづく
 


■第141回へ続く

(08.03.12)

 
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