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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第149回 『ポケモン』ちょっとだけリアルにしたら……?

 アニメ版『ポケモン』9話「ポケモンひっしょうマニュアル」は、最初のプロットで脚本化へのゴーサインが出たが、初稿が決定稿になるまで2度ほど修正している。
 修正した部分は、主にポケモン学校の劣等生がいじめられている描写だった。
 初稿では、書いた僕自身も行き過ぎと思うぐらい、いじめの描写が大袈裟だったのである。
 『ポケモン』の脚本会議では、いろいろな意見が出て、脚本の直しが2度3度になるのが普通だったから、僕も、いじめの描写については指摘があるだろうと思い、直さなければならないことを予想して、その分、かなりオーバーに描いた。
 現実には、いじめる側が目に見えるような肉体的なダメージを相手に与えるいじめは少ない。
 けれど、学校のいじめは、先生や大人に露骨に目に見える形でなく、その子を陰で中傷したりのけものにして、心理的なダメージを与える形でしばしば行われる。
 それも、集団による個人へのいじめがほとんどらしい。
 昔は、いかにも乱暴ないじめっ子という個人が目立ったが、大人には気がつかない集団によるこっそりとした陰湿ないじめが増えている。
 集団だから、いじめの張本人がわかりにくい。
 最近では、大人の目に届かない子供の携帯電話のメールによるいじめも多くなっている。
 で、いじめられた側の自殺や引きこもりや、逆切れした暴力などで、いじめが表面化して大人があわてるのだが、その時はもう遅い。
 そもそも現代は、いつのまにか、子供が大人のモラル感などあまりあてにしていない時代のようである。
 なにしろ、大人が集団になって個人を誹謗中傷して、いじめているようなこともある時代である。
 匿名で書き込めるインターネットなど、もちろん正論もあるが、集団によるいじめにか思えない書き込みもあるらしい。   
 大人からしてそうだから、子供は、自分がいじめられていることを人に言わない場合が多い。
 脚本の中にも書いたが、「いじめられていることを人に告げ口しても、それを理由にもっといじめられる」かもしれないのだ。
 何しろ、集団によるいじめである。
 「みんながやるから、私もやろう」で、いじめている本人がいじめを自覚していない場合もある。
 「みんながいじめている奴を自分もいじめないと、今度は自分がいじめられる」と思っていじめに加担する子も多いらしい。
 個人にいじめられるなら逃げようもあるが、学校という枠内にいる以上、集団によるいじめには逃げようもなく、いじめられる側の心理的ダメージは大きい。
 しかも、9話に登場する劣等生の学校は、名門校である。
 親の期待を背負っている以上、学校からも逃げられない。
 おまけに、学校の価値を本人自身も自覚しているから、学校にいたいのである。
 いじめられる心理的ダメージと、名門校にいたいという気持ちを秤にかけると、学校にいたい思いの方が強いのだ。
 そういう劣等生の複雑な心理状態を、アニメの画像やセリフだけで表現するのは難しい。
 となると、実際にいじめられている場面を、ナンセンスなほど大袈裟にして、それを受け入れて耐えている劣等生を描くしかない。
 とはいえ、アニメ版『ポケモン』9話が放映された頃も、いじめはすでに社会問題化していたから、子供向けのアニメである『ポケモン』におけるいじめの場面は、もっとおだやかに描けないかという意見が出るのはもっともである。
 それに、脚本会議では誰も指摘はしなかったが、いじめを強調すると、『ポケモン』という作品自体に関わる問題になりかねない。
 『ポケモン』は、ポケモンを捕まえて、そのポケモンを相手の持っているポケモンと戦わせる、というのが重要な要素のゲームでありアニメである。
 一応、ポケモンは、ゲームのプレーヤーや、アニメの主人公のいいなりになって戦うものの、ポケモン自身が戦いたいかどうかは不明瞭である。
 これが、ポケモンという架空のモンスターでなく実際に存在する動物だったら、動物保護団体あたりから、戦う気のない動物を戦わせるのは、動物虐待、動物いじめのゲームでありアニメである、という難癖に近いクレームが出てくる危惧がある。
 だったら、実際におこなわれている競馬や闘鶏や闘犬は、動物いじめなのか?
 人間がペットにしている犬や猫、動物園にいる動物だって、その動物が好き好んでいるかどうか、本当は分からない。
 そんな事を言い出したら、我々が日常食べている牛や豚については、動物いじめどころの話ではない。
 ともかく『ポケモン』で人間同士のいじめの話を強調すると、どこへ飛び火するか分からずやっかいである。
 『ポケモン』のゲームが上手い作りになっていると僕が感じるのは、なにより、登場するのが実際の動物でなく、ポケモンという架空のモンスターだということだ。
 実在の動物でないから、現実の生臭い問題を回避できる。
 それでも、アニメの設定の時は、「ポケモンは何を食べて生きているのだろう?」「ポケモンしかいない『ポケモン』の世界の人間は、何を食べているのだろう?」というのがスタッフの話題になって……ゲームにはないが、アニメには食事シーンが出てくる時もあるので……結局、ポケモンは、ポケモンフードなるものを食べていることになった。
 主人公のサトシの道づれ、タケシは、しょっちゅう料理を作っているが、何がその材料かはうやむやである。
 いずれにしろ、9話でやりたいことは『ポケモン』の世界に少しだけ現実のリアリティを入れることだった。
 だが、それを子供の現実の世界で起こっているいじめの問題だけにする気はなかった。
 いじめはいけないとアニメで説教したって、現実に起こっていることはどうしようもない。
 かえって、いじめを助長するかもしれない。
 それに、いじめをメインテーマにすると、どう描いても、視聴者に嫌な後味が残る。
 だから、ずいぶん、いじめをやさしい表現に直し、それが決定稿になったが、それでもそうとうナンセンスで大袈裟ないじめ方になった。
 決定稿を読んだ方たちには、いじめの陰惨さより、ギャグ的なおかしさが勝ったようだ。
 で、僕がこの脚本でやりたかったのは、「学校で一所懸命勉強したことは、現実の役に立つのか?」の疑問だ。
 その疑問を描くことが、9話のエピソードにリアリティを与えると思った。
 『ポケモン』の世界の名門校は、ポケモンの知識を学ぶ場所である。
 バトルの勝ち方、ルールを学ぶ場所である。
 知識では名門校の優等生にとても勝ち目のない主人公とピカチュウは、追い詰められた末、ポケモンの得意技や経験値など無視した殴る蹴るの出鱈目で、優等生に勝つ。
 どんなに知識があっても、実戦では勝てないこともあるのだ。
 現実は、学校の成績だけでは通用しないこともある。
 学校の成績が全ての価値を決めるわけではない……。
 ルールや得意技などにこだわらず、無茶苦茶でも現実では勝てる時もある。
 そして、その結果を見ていた悪役のロケット団は、「そうよ、勝てばいいのよ。何をやっても」と、学校に乗り込んでくる。
 ところが「悪い奴にはルールなんか関係ない」と、本来のバトルは1対1がルールなのに、学校の生徒たちから総攻撃を受ける。
 で、ボロボロに負けたロケット団は、「ポケモンのルールは守りましょーう」と、悲鳴をあげながら逃げて行くのである。
 このエピソードの、ルール無視、得意技無視について、脚本会議で異論はでなかった。
 そのまま、アニメ化され、完成品を見たゲーム関係の方たちも、「こういうエピソードがあってもいい」という感想だったそうである。
 ゲームにはない学校が出てきたことについて了解してくれたという意味なのかもしれない。
 だが……。
 「ポケモンのアニメって、こんなエピソードがOKなほど自由なの?」
 このエピソードを見てびっくりしたのは、アニメ版『ポケモン』の制作には関係のないアニメ制作者や脚本家や大人の視聴者だった。
 9話のように、誇張されてはいても現実的なテーマを持ち込んだアニメ版『ポケモン』は、それまでなかった。
 しかし、その人達が驚いたのは、そのことではなかった。
 アニメはゲームにリンクしているはずである。
 ゲームはルールがあり、登場するポケモンには、それぞれの技や特性がある。
 それを、基にしてプレーヤーはゲームをする。
 何種類も出ている『ポケモン』攻略本もそれらを基準にしている。
 「151」というゲームに登場するポケモンを全部暗記できるように、名前を片っぱしから並べた歌も出ていた。
 つまり、『ポケモン』の学校が教えるような知識である。
 「ポケモンひっしょうマニュアル」は、そんな知識は役に立たないよ……と言っているようなエピソードに見えたのである。
 ゲームのルールを知り、ポケモンの名前を覚えることを否定するような、いわば『ポケモン』プロジェクト全体に喧嘩を売っているようなエピソードが、こともあろうに、製作体制ががちがちに堅そうな『ポケモン』のアニメの中でできたことが、その人たちには信じられないようだった。
 プロットの段階で、スタッフの誰かからそれを指摘され止めてくれと言われたら、この脚本は土台から崩れる。
 しかし、誰もそれを言わないでくれた。
 ポケモン学校についてのエピソードなら、他にいくらでも考えつくだろう。
 でも、それらの脚本に「ポケモンひっしょうマニュアル」のようなエピソードは、影も形もないに違いない。
 僕が、この作品の脚本のプロットを、他のアニメ版『ポケモン』と比べてぶっ飛んでいるというのは、そういう意味である。
 しかも、その脚本を書いたのが『ポケモン』のシリーズ構成なのである。
 放映後、このエピソードを「『ポケモン』全体から見ると困った作品だ」と言う人は、僕の知る限りいなかった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 スタッフやキャストの方たちから、かけがえのない恋人のように思われるオリジナリティのある脚本を書け……というのは、きれいごとに聞こえるが、事実である。
 事実ではあるが、現実はきびしい。
 「良い脚本から悪い作品が生まれる事があっても、悪い脚本から良い作品は絶対生まれない」等と昔からの常識のように言われているのは、このコラムにも書いた気がする。
 それは、どこの国でも常識らしい。
 アメリカ映画など、面白い脚本(アメリカ好みの面白さだが……)にはびっくりするようなギャラが払われるし、企画が優先している場合、面白い脚本ができるまで、とっかえひっかえ、何人もの脚本家の首が飛ぶ。まあ、それぞれ、それなりのギャラはもらってはいるのだろうが……。あげくのはてに、3人ぐらいの共作で脚本が完成することもある。
 近い例をあげれば、アメリカの「インディ・ジョーンズ」という冒険シリーズの4作目が、ヒットするのが決まっているのに、遅れに遅れたのは、嘘か本当か知らないが製作のジョージ・ルーカスと監督のスティーヴン・スピルバーグと主役のハリソン・フォードの3人が面白いと納得できる脚本が、なかなか出来なかったからだという。
 それぞれの分野で、お山の大将のような3人が、そろって面白いと思う脚本を書くことなど、とうてい不可能な気がするが、それでも、やっと完成したのは、主役のハリソン・フォードが冒険ものを演じるには歳を取り過ぎてきたので、脚本の出来に仕方なく3人が妥協した、という噂もあるらしい。
 まあ、それだけ、脚本が重要視されているということだが……もっとも、映画の製作費も、稼ぐ収益も大きいから、脚本に時間とお金をかけるのは当然であるともいえるが……それなりの脚本を書くのは大変である。
 その点、日本は、映画もそうだが、特にアニメは脚本が重要視されない傾向がある。
 アニメで大切なのは、脚本でも監督でもなく原作コミックとキャラクターだと言いきってしまう制作者もいるぐらいだから、脚本家のギャラは安いし、はっきりいって一部の人を除いて脚本のレベルも高いとはいえない。
 別の言い方をすれば、期待されていない……それだけ楽ともいえる。
 もっとも、TVドラマも俳優優先、映画も儲け優先で企画が決まるから、似たようなものだが。TVドラマなどで演出家より脚本家の名前が目立つのは、週一回のタイトなスケジュールでは、脚本を演出家が吟味して、それなりの個性ある演出をする時間がない……つまり、演出が目立ちにくく、脚本の個性がすんなりドラマに出てくるかららしい。
 それにしても、何より視聴率を稼ぐ俳優あっての企画で、俳優にあわせて脚本が書かれているのが現状らしく、なかなか脚本家の思いどおりに脚本は書けないらしい。
 映画にしろドラマにしろ、脚本家で注目されるのは、かなり個性的で、原作なしで集客力、ないしは視聴率の取れる脚本を書ける人に限られる。
 つまり、面白いオリジナル脚本の書ける人である。
 原作があると、脚本家がどんなに工夫しようと注目されるのは原作者である。
 妙な工夫をすると、「原作を変えやがって……」と、悪口を叩かれるときだけ脚本家の名前が出てきて、踏んだり蹴ったりである。
 制作者や監督さえ、作品の出来が悪いと「脚本が悪いから……」という逃げ口上を使う時がある。
 アニメの場合、その点はいくらかましである。
 実写以上に、いろいろな人の共同作業になり、スケジュールはタイトになりっぱなしだ。
 完成品は、放映したものではなく、DVDで見てくれというものもある。
 あまりのめまぐるしい流れ作業で、誰が何をやったのかわけが分からないうちに、作品ができている場合もあるらしい。
 原作なしのオリジナル脚本でもない限り、脚本家がアニメの責任を問われることはないだろう。
 いつの間にか、完成品は、セリフやシーンどころか脚本のテーマもストーリーも違っている場合もある。
 プロデューサーや監督に読まれた脚本が決定稿になれば、後はどうなろうと、脚本家の知ったことじゃない。
 脚本は印刷製本されず、必要最小部数コピーされるだけの時もある。
 印刷製本されるのは絵コンテをもとにしたアフレコ台本で、脚本とは別物だ。
 アニメを見た人が、脚本についてとやかく言ったってお門違いである。
 でき上がった作品は、脚本とは違う。
 タイトルに脚本家の名前が出ているのは、DVDなどの2次使用の著作権料が入ってくるからである。
 そんな具合に割り切れば、日本のアニメの脚本家は、ギャラも安いが、アニメの作業としては、楽な部類である。
 たまたま、脚本を書いたアニメがヒットしてDVDでも売れれば、著作権料1.75%(その中から、組合に手数料を取られるにしても)が入ってくる。
 あなたが若くて独身だったら、かなり気楽な稼業である。
 でも、あなたが創作者だとしたら、なんだか空しい気がしませんか?
 きれいごとでなく、どんなものを書こうと、あなたのオリジナリティが見える脚本……それがあなたの精神衛生上にもいいと、僕は思うのですが……。


   つづく
 


■第150回へ続く

(08.05.21)

 
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