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第152回 ポケモンの鳴き声は何国語?
ポケモンの鳴き声に字幕を入れた「きょだいポケモンのしま!?」は、僕の知る限り、スタッフ上層部の反対があったわりには、結果的に日本での評判は悪くなかったようだ。
問題は、外国でどうだったかだ。
『ポケモン』のアニメ版は、作られた作品のほとんどが外国で放映されているが、放映されなかった作品がないわけではい。
エピソードの内容が、外国の視聴者に合わない作品は、外されたものもあるようだ。
その代わり、日本で、放映されなかった作品もあるらしい。
例えば、飛行機の中だけで、上映された特別版もあるらしい。
外国で放映されないエピソードの筆頭に、日本語の字幕を入れた「きょだいポケモンのしま!?」があがりそうなものだが、不思議な事に、この作品には英語の題名がつけられている。
ということは、どうやら、外国で放映されたらしいのだが、その反響は、僕には聞こえてこなかった。
「きょだいポケモンのしま!?」が、外国でどういう受け取り方をされたのか、僕としては、当時も今も、是非知りたいのだが、10年も続いている『ポケモン』のエピソードのひとつにすぎない作品の評判など、僕の耳に届くはずもない。
ただ、それ以降、ポケモンの鳴き声に字幕を入れるいうエピソードは作られた気配がないので、外国での評価は「???」で、ポケモンの日本語字幕入りエピソードは難しいという事になったのかもしれない。
という事は、「きょだいポケモンのしま!?」のような字幕エピソードは、『ポケモン』アニメでは、2度と作られない貴重な珍品と呼ぶことはできるかもしれない。
当時はスタッフが外国市場をさほど意識していなかったから作ることができたと言えるかもしれないが、僕自身は、外国でこの日本語字幕がどう受け取らるか、ずいぶん意識して脚本を書いたので、いまだに気になって仕方がない。
その後、外国市場を意識するようになってからは、人間語を喋る能力のあるポケモンが登場しだしたので、ポケモンの鳴き声に字幕を入れる必要も少なくなり、そのせいか、人間語をしゃべらないポケモン同士がどんなコミュニケーションをとっているかという疑問も視聴者の興味から遠くなり、人間ではないポケモンがどんな意思の疎通の仕方をしているかは、うやむやになってしまったようだ。
だから、『ポケモン』アニメの基本目線は、多少人間語を喋る特異なポケモンが登場するものの、人間から見た『ポケモン』世界である。
どんなに暴れるポケモンでも、結局は人間から見れば都合のいい描かれ方になる。
とはいえ、逆に人間目線ではないポケモンの目線から見た『ポケモン』世界を描くのは、かなり難しいし、成功する可能性も薄い。
現在もヒットをしている『ポケモン』アニメに、別の目線を持ちこむ冒険をする必要はないだろう。
続けられる限り、今のままのスタンスで『ポケモン』アニメは作られていいのだと思う。
人間から見た『ポケモン』世界と違う、ポケモンから見た『ポケモン』世界が意味を持つとしたら、シリーズがいよいよ最後になった頃だろうが、そもそも、そんなポケモン視線がこのアニメに必要かどうかも分からない。
いつまで続くか分からない『サザエさん』か『ドラえもん』のようになる可能性の高い、『ポケモン』アニメの終わりを考えるのは余計なことだろう。
しかし、当時、こんなに長寿番組になるとは思っていなかった僕は、終わり方を考えないわけにはいかなかった。
ポケモンと人間のふたつがいる『ポケモン』世界の場合、そのコミュニケーションが大切なテーマになると思ったし、互いに交流できない対立か、互いに生きていける共生かの結論が、いつかは提示されないと、終われない気がしていた。
ポケモンと人間の友情とか仲間意識とか、いろいろな要素を入れてはいるが、『ポケモン』の基本はバトルであることには違いない。
そのバトルも、地球を守るためとか、「水戸黄門」のように正義が悪をこらしめるといういささか単純な大義があるわけでもない。
突き詰めて考えれば、ポケモンを使って主人公が相手に勝つ、という代理戦争的なバトルなのである。
そのバトルの結果が世界を救うなどという見せ方は、あの手この手でできるにしても、主人公が戦いの代理戦争性に気がつかず、延々とバトルに夢中になって、それが毎回のように続くのは、ある意味、大人になりたくない、いわばバトル好きなピーターパンのようなものである。
大人になりたくないというピーターパンテーマは、人間にとって普遍的なものと言える。
だから、それが普遍的なテーマとして、延々続いても悪くないだろう。
だが、ここで困るのが、代理戦争の道具になるポケモンの存在である。
ポケモンは生き物であり、人間と価値観は違うかもしれないが、ともかく意思のある存在である。
ポケモンを戦いの道具として使うにしろ、友達として付き合うにしろ、どちらと見なすかは人間の思い込みにすぎない。
けれど、もし、ポケモンが人間の思い通りになりたくないという意思表示をしたら、『ポケモン』の登場人物たちは、ポケモンを簡単にバトルさせられなくなる。それでもバトルさせればポケモン虐待に見えかねないし、視聴者も気楽にポケモンバトルを見ていられなくなる。
ポケモンの鳴き声の意味が分からないからこそ、ポケモンバトルは、後味の悪いものにならないですんでいると思うのだ。
もうひとつ言えることは、自分の言いなりになって戦ってくれるポケモンは、自分の思うように他人が動いてくれない現実の社会に生きている子供たち(大人もだが)にとって、理想的な生き物でもある。
自分にとって忠実に動いてくれる生き物(しかも、それぞれが個性的な容貌や性格や能力を持ち、種類も多い)をバトルさせ、ゲームができる『ポケモン』が、様々な人たちから好まれるのは、よく分かる気がする。
もちろん、それ以外にも『ポケモン』がヒットした要素を数えだすときりがないが……。
いずれにしろ、ポケモンの意思がよく分からないのは、『ポケモン』のアニメ版にとってもゲーム版にとっても、バトルを殺伐とした印象から救っていると思う。
で、それを僕が実感したのも、ポケモンのセリフの字幕を書いたからだった。
少ない字数で、漢字のない単純な分かりやすい内容の字幕だったから、ポケモンの意思が漠然としたものですんだ。
これが複雑な意味のある内容で、「我々ポケモンとはなにか」などというテーマを字幕で論争など始めたら、それまでのどこかのんびりした『ポケモン』の世界観がぶちこわしになっただろう。
「きょだいポケモンのしま!?」以降、『ポケモン』作品としては異色とも言える映画版の第1作の『ミュウツーの逆襲』までは、ニャース以外のポケモンは人間語をしゃべらない。
その『ミュウツーの逆襲』にしても、ミューツーに人間語をしゃべらせるかどうか、かなり考えた記憶はある。
ところで、ポケモンのそれぞれの名称だが、ピカチュウ以外のポケモンは、外国版では別の名前をつけられていた。
そこで、プロデューサーの1人が、奇抜なアイデアを考えた。
ポケモンの鳴き声に字幕をつけるのと似たような発想だと思うのだか、外国版のポケモンと日本版のポケモンが出会って、会話をするシーンがあったら面白いというのである。
同じポケモンでも、日本版と外国版では名前が違うから、鳴き声も違って、そのずれが面白いだろうというのだ。
確かに動物などでは犬の鳴き声は日本語では「ワンワン」と書き、英語では「ヴァウヴァウ」と書く。
ニワトリの鳴き声の日本語は「こけこっこー」で、英語は「クックドゥドゥルドゥ」だったと思う。
しかしそれは、同じ鳴き声をそれぞれの国語でそう書くだけで、犬はどこの国に行っても同じ鳴き声のはずである。
それが、日本人には「ワン、ワン」と聞こえ、英語圏の人には「ヴァウヴァウ」と聞こえたからそう書いただけで、犬が発する鳴き声自体が国によって違うわけではない。
耳に聞こえる鳴き声は同じはずである。
そのプロデューサーの理屈からいえば、日本版のポケモンは日本語の鳴き声を出し、アメリカ版のポケモンは英語の鳴き声をするというわけだ。
となると、ドイツではドイツ語の鳴き声をするポケモンがいて、フランスにはフランス語の鳴き声を知るポケモンがいる事になる。
人間には、日本人とアメリカ人とその他いろいろな外国人がいて、それぞれの国の言葉を話す。
だからポケモンも、例えばフシギダネは日本では「ダネ」と鳴くが、アメリカでは「フシギダネ」は違う呼び名だから、別の鳴き声をする。
つまり、日本語フシギダネと英語フシギダネとフランス語フシギダネとドイツ語フシギダネが出会うと、4ヶ国語のフシギダネの鳴き声が飛び交うことになるというのだ。
そりゃ、面白いかもしれない。
しかし、そんな脚本どう書けばいいのか?
例えば、「フシギダネ」の国際会議があって、通訳をポケモン語の分かるニャースがする。
ニャースが話すのは日本語だがら、外国の人にも分かるように、ニャースの日本語を、英語やフランス語やドイツ語で訳す通訳がいる。
国際会議のテーマは「フシギダネのこれからをどうするか?」
世界中のフシギダネ語が飛び交い、それを訳す世界中の言語が飛び交う。
フシギダネの言葉、ひと言が飛び交い、それをそれぞれの国の人間の言葉で訳すだけで、15分ぐらいかかるだろう。
フシギダネの言葉、ふた言で、1話分のエピソード30分が終わる。
こりゃ、脚本家としては楽な脚本かもしれない。
おまけに、実験作として評価されるかもしれない。
と一瞬思ったが、アイデアがあってもストーリーがない。
で、「ポケモンには国境はありません。同じ種類のポケモンが、人間の国ごとに違う鳴き声をするのは不自然……おまけに、ポケモンは進化して、他のポケモンになります。フシギダネは、フシギソウになって、フシギバナになる。そのたびに国によって鳴き声が変わっていたら、ややこしくてわけが分からなくなります」
と言って反対したが(実際、このアイデアは使われなかったが……)、そのプロデューサーは、国によって鳴き声の違うというポケモンのアイデアを実現したかったらしくて、しばらくこだわっていた。
余談だが、ロケット団登場の口上も外国版に当然登場するわけだが、僕の知る『ポケモン』英語版に限っては、上手く英訳されていて、日本語の口上のニュアンスをよく出していたと思う。、
その他にも、脚本会議では、プロデューサーからずいぶん変わったアイデアが飛び出した。
記憶に残っているものに、プロデューサー自身は冗談半分かもしれないが、「ヤドンの一日」というのがある。
ヤドンは、ほとんど動かない鈍感なポケモンである。
その一日をエピソードにしようというのだ。
日が昇り、日が沈むまで、ヤドンは動かないし、何も起こらない。
それをじっと描こうというのである。
じっとしているヤドンは、ハエやカが飛んできても微動だにしない。
ところが、ポケモンには、ハエやカに匹敵するものがいない。
だから、この手のギャグが使えない。
地震が起きても火山が噴火しても、やはり微動だにしないヤドンというのも考えられるが、周囲が大慌てでも、ぴくりともしない存在というのも、ギャグとしてはよくある手で、あまり面白いとは言えない。
動かないことが面白いヤドンを描くのに、他の部分が動いては、面白い効果が出ない。
といって、何も動かないアニメなど、そもそもアニメとして面白くない。
……という結論になって、このアイデアも止める事になった。
ともかく、突然飛び出してくるアイデアは、脚本家の方たちよりも、プロデューサーや監督から出たものの方が面白いものが多かったぐらいだ。
ただし、単発的なアイデアとしての面白さで、いざエピソード化、ストーリー化するとなると、難しいものが多かった。
ちなみに、各話が終わった後、ポケモンの影絵のようなものを見せて「だーれだ」と視聴者に当てさせるコーナーや、ポケモンの奇妙な川柳(書いたのは僕ではない他の脚本家の方だが)のコーナーを考えたのもプロデューサーか監督で、いつの間にか付録として各話についていた。
で、予定としては、割り込んで書いたような17話「きょだいポケモンのしま!?」の後は、20話「ゆうれいポケモンとなつまつり」で、「きょだいポケモンのしま!?」より、アイデアは先にできていたものだった。
他の脚本家の方たちのシナリオがライトなタッチが多かったので、13話の「マサキのとうだい」のように、根はちょっと暗めで、しかも今までのポケモンのエピソードにない、ロマンチックなものを書こうと思った。
僕は、子供の頃、北海道に住んでいた。
、その積丹半島の海に、神威岩という高さ30メートル以上の岩がそそり立っている。
まるで人間が立っているように見える岩で、別名乙女岩とも呼ばれ、昔、ある女性が海に出て行った恋人を待ち続けて、そのまま岩になったという伝説がある。
その岩を僕が見に行った時には、頭の部分にかんざしのように花が咲いていた。
この岩がとても印象的で、いつか何かの素材に使おうと決めていた。
それと、絵に描かれた女性を愛してしまった男の話。
このモチーフは大昔からよくあるが、最近では……といっても30年近く前だが、リチャード・マシスン原作・脚本で映画化された、ヤノット・シュワルツ監督の「ある日どこかで」が有名かもしれない。
この監督の日本で公開された作品の中で、まともに評価されたのは、僕の知る限りこれ1作だけである。
この映画は、昔写真に写された女性に会うために、念力(?)で、その女性が美しかった時代にタイムトラベルする男の話なのだが、SF映画と呼ぶより、美男美女の純愛ものと言った方がぴったりなロマンチックな作品で、クラシックのラフマニノフと、ジョン・バリーの映画音楽が上手くマッチした、僕から見れば甘美な映画だった。
そして、僕は女性の幽霊と聞けば、怖いものというより悲惨な純愛をイメージしてしまう。
つまり、20話では、ロマンチックとはほど遠い『ポケモン』に、古風な純愛ものを放り込んだらどうなるかを、ちょっと試してみたかったのである。
「ゆうれいポケモンとなつまつり」では、ロマンチックなはずの男役が主人公の道連れのタケシとロケット団のコジロウなので、タッチはドタバタになってしまったが、それでも視聴者にロマンチックな残像のようなものが残れば、上手くいったのではないかと思う。
恋愛ものと『ポケモン』とをつなげてみたエピソードで、僕としてはこっそり実験した脚本だった。
ただ、アニメができ上がった後、このエピソードに登場するゴーストというポケモンは、本物の幽霊とは関係ないポケモンなんですけど……と言われてしまったことを覚えている。
で、この頃、アニメ版『ポケモン』の小説化の話がきた。
そのせいもあってか、僕なりの『ポケモン』のテーマに関わる脚本を書きたくなった。
それが31話「ディグダがいっぱい!」である。
人間の思いどおりにならないポケモンの登場だった。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
前回紹介した方たちの脚本は、上手い下手で言えば、失礼ながら上手い脚本とは言えないかもしれない。
ただし、数十年も昔の脚本だから、今がどうかは知らない。
僕にしても、数十年前だから、脚本の上手い下手を判断できたかどうか怪しいものである。
正直に言うと、今時の世間様から上手いと言われる脚本を読んでも、テクニックはなるほどと思うが、面白いと思えるものはほとんどない。
上手いかもしれないけれど、だからなんなの? ……である。
その、なんなの? の部分に、何かがあれば面白いはずである。
その何かが、その脚本家の個性的な魅力だと思う。
前回紹介した方たちの脚本は、魅力があるのだ。
あれれ? というセリフがあったり、あらまあ? というシーンがある。
他の人には書けないだろうオリジナリティがあるのだ。
それが、他のスタッフのやる気をかきたて、本来の実力を出させる要素になると思うのだ。
前回に準じて『魔法のプリンセス ミンキーモモ』の実例として、もうひとつあげれば、通称空モモの46話「夢のフェナリナーサ」がある。
脚本はこのコラムの
58回の付録
についている。
僕が書いた脚本なので載せていただいたのだが、今になって役に立つと思うと……。
ミンキーモモがトラックにひかれるエピソードとして、当時話題になった話数である。
今、
Yahoo!動画で無料配信している
46話と比べてみれば分かるが、前半部分がすこし脚本と違う。
特にミンキーモモが服を着るシーンは、明らかにアニメの表現が脚本を超えている。
脚本では、あのシーンはとても書けない。
監督、絵コンテ、演出、作画、その他の方たちが頑張ったというよりない。
しかも、前半部分で脚本が表現したいことは、全部描ききっているといっていい。
セリフは、アフレコ現場で、絵のでき上がりに応じて、僕が少し加えた憶えがかすかにある。
こういうのを、脚本を変えてけしからんとは、僕はとても言えない。
演出が脚本といい意味で喧嘩して、より作品がよくなった実例だと思う。
監督やスタッフとしても自慢できるだろうし、脚本家としても満足である。
手前勝手に考えれば、脚本がスタッフを刺激したとも言えるのだから……
つづく
■第153回へ続く
(08.06.11)
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編集・著作:
スタジオ雄
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