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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第157回 ポケモン予期せぬ出来事―数ヶ月前

 『ポケモン』のあるエピソードを見た子供たちが、原因不明でばたばた倒れた事件。
 1997年の12月中旬に起こった事だから、いつの間にか10年以上昔の出来事になっている。
 10年一昔というが、今となっては、「そう言えば、そういう事件があったな」と、記憶の奥底に沈み込んでいる事件かもしれないし、今の『ポケモン』ファンの中心層と思える小学生は、あの事件が起こった事すら知らないだろう。
 当時の『ポケモン』関係者の中には、あの事件を思い出したくもない人も多いだろう。
 そのエピソードの主役として登場したポケモンは、事件のシンボルとしてその後2度とアニメに登場しなかったし、『ポケモン』全体の歴史から今や抹消されているかに思える。
 今、あの事件の影響が今も強く残っているのが感じられるのは、アニメ番組やDVDのはじめに、「暗いところで見ないようにしましょう」的なテロップが入るのと、視覚的に刺激的な表現効果が減っている事だ。
 それは明らかに『ポケモン』事件以後から始まった対策のひとつで、視聴者の注意を喚起し、刺激的表現効果が少なくなるのはいい事だと思う。
 とはいえ、あの事件は、被害を受けた方達にとってはもちろん大変な事だし、TV時代が(インターネットも含む映像時代にとっても)抱える問題を考える上で、今でもとても重大な事件だと思う。
 けれど、『ポケモン』のアニメがその責任を背負い込んで、一時バッシングとも言える非難の集中攻撃を受けたのは、僕個人としては腑に落ちなかった。
 あの事件は、アニメのスタッフにとって突発的に起こって、ほとんど誰も予想していなかった事だったと思う。
 僕にとっても、それは同じだ。
 だから、あの事件が起こる『ポケモン』のエピソードが放送がされた時とそれ以後の事は、その時点を語る時に書く事にする。
 といっても、僕が書いたポケモンのアニメ「ディグダがいっぱい」が31話で、事件が起きたエピソードが38話だから、それほど間があいているわけではない。
 つまり、少なくとも僕にとって『ポケモン』のアニメがヒットしている事が実感できて何となくうれしくて、同時にそのプレッシャーを感じていたのは、ほんの数ヶ月である。
 その頃、小説とロケット団のテーマ曲と映画化の話が、目の前にあった。
 文字がいっぱいの小説を小学生の低学年が読むのはつらい。
 かといって、中学生、高校生、もしかしたら子供に読み聞かせるために大人が読むかもしれない小説のテーマが、いかにも子供対象の幼稚な内容でも困る。
 自分の子供が夢中になっている『ポケモン』が、いかにも子供だましな内容だと思われるのもつらい。
 僕が『ポケモン』のアニメ用に考えた『ポケモン』の世界観は、かなり対象年齢が上の世界観だった。
 子供が楽しめて、大人の読者に馬鹿にされない小説……そんな小説とはどんなものか、ずいぶん考えた。
 で、ふたつの文体を考えた。
 小学生の低学年は、小説を読まない。
 マンガとアニメである。
 しかし、平易な文章は学校で習う。
 親に読んでもらい、それを聞かせてもらう事もあるかもしれない。
 で、平易で耳で聞いて分かりやすい表現を心がけた。
 幼児向けの絵本には、優れたものが多い。
 優れた絵本は、子供よりむしろ大人が大切にしているものも少なくない。
 だが、『ポケモン』のゲームとアニメの対象年齢は、絵本を喜ぶほど小さくはない。
 ポケモンのキャラクターグッズを喜ぶ幼児は多いだろうが、ストーリーまで楽しむ事のできる年齢ではない。
 つまり、『ポケモン』の小説の対象は、親に読んでもらってストーリーが理解できる年齢以上にした。
 かといって、大人が読んでつまらなければ、子供に読んでやるにも身が入らない。
 そこで、登場する大人……とくに主人公の母親を丁寧に描いた。
 小説に登場する他の人物像も、大人がいろいろな形で共感できるように心がけた。
 だが、小説ともなれば、中高生以上の年齢も対象になる。
 そこで、もうひとつの大人っぽい文体を考えた。
 これが一苦労だった。
 『ポケモン』の小説には、各章に付録の文章がついている。
 「お急ぎの方は、次の章をお読みください。ただし、ここには、今までだれも知らなくて、これから役に立つかもしれない情報が書かれているかもしれません」
 付録の文章には、『ポケモン』世界を知るための、ゲームにもアニメにも描かれていない参考資料を書いた。
 つまり『ポケモン』の世界観の説明である。
 もちろん、『ポケモン』の世界は虚構である。
 だが、完全に虚構にはしなかった。
 旧約聖書の天地創造を元にしたり、ダーウィンの進化論をネタにしたり、動物行動学を意識したり、「生命潮流」のライアル・ワトソンを持ち出したり、現実に思い当たる事柄をひねった虚構にした。
 原典を知っている人は笑えるはずだし、誰もが笑えるように、一部の人しか知らないようなマニアックな知識は入れなかった。
 少なくとも、それは子供が大人になるまでに出会うだろう知識のパロディだった。
 小説の3部では、アインシュタインの相対性理論や、オイラーの公式まで持ち出そうとしたが、そもそも『ポケモン』の小説は2部までしか出ていないから、実現していない。
 小説の3部が出ていない理由は、このコラムでその頃の事を書く回になったら語るつもりだ。
 いずれにしろ、これらの付録は『ポケモン』世界を知るための参考文献だから、文体も本文とは変えた。
 各章の付録をつなぎ合わせた結論は、結局『ポケモン』は、人間の理解を超えた生き物という身も蓋もないないものだが、付録はかなりの量になり、数少ない大人の読者や『ポケモン』マニアからは、本文より付録のほうが面白いと、からかいまじりに言われ、僕としては痛しかゆしだった。
 しかし後に、本文の方も、国語の教育教材に使われたり、小学校の読書の副読本に使われたらしいから、本来の子供向けの小説という価値もあったようでほっとした。
 最近、この小説を読み返して、ずいぶん苦労して書いたんだなあと、自分でも呆れた。
 この小説、1巻で、アニメのわずか4話分しか消化していないのである。
 しかも、アニメの3話、4話の部分は、アニメとはストーリー展開は同じだが、内容がかなり違っている。
 アニメで使われたセリフは、ロケット団の決まり文句以外、一切使っていない。
 アニメのシリーズ構成をする時、僕には他の脚本家の方の書く話数でも、一応、僕が書けばどうなるかを想定する癖がついている。
 『ポケモン』アニメの1話と2話は、僕が書いた。
 だから、小説のその部分は僕の書いたセリフが出てくる。
 だが、3話、4話は僕が書いた脚本ではない。
 小説に書かれた3話4話分のエピソードは、僕の想定したほうの3話4話を書いた。
 アニメのノベライズなのに、なぜ脚本に書かれたものを使わないのか? という意見もある。
 だが、僕の名前がタイトルされている小説に、他の方の書いた文章を載せていいのか?……という問題もある。
 脚本家の方の本人の了解を取っても、「俺の文章を使いやがって……」というわだかまりが残る事もままあるのである。
 こじれると、著作権の問題にまで波及する。
 逆もある。
 「俺の書いた文章をなぜ載せないんだ。俺の書いた脚本が小説でめちゃくちゃにされた」
 出版社や制作会社に対しては表向きは了解しても、人の気持ちの奥は様々である。
 『ポケモン』や僕が関わった作品では耳にしないが、物書きが集まる酒場では、本音が出て、不満や愚痴や怒りが渦巻く。
 かと思えば、「脚本が決定稿になれば、後はどう料理されようと知らないよ。勝手にしてくれ」と割り切っている人もいる。
 物書きは、本当に人それぞれである。
 僕と関係のない作品の事でも、酒場でそんな話を聞くのは、気分のいい事ではない。
 医者から酒を止められている事もあるが、僕は、脚本家をふくめ物書きとめったに酒を飲まない。
 物書きの不満や愚痴や怒りはかなり執念深く面倒くさいのである。もちろん、人にもよるが……。
 若い時、先輩の脚本家の方達と飲み歩いた時期があり、僕はすっかりこの手の話を聞くのに懲りてしまったのである。
 誤解のないように繰り返すが、『ポケモン』の小説には、そんなトラブルは起こらなかった。
 ただ、ロケット団のセリフ「やな感じー」は、声優の方達が考えたものであり、ご本人達の了解を取り、後書きにそれを記しておいた。
 ともかく、『ポケモン』の小説の1巻は、普通のいわゆるアニメのノベライズ小説とは違ったものができ上がり、評判も悪くなかった。
 もっとも、書いた本人に向かって悪口を言う人も少ないとは思うが……。
 けれどやはり、活字満載の小説、漢字に振り仮名もない「ポケモン」は、ゲームやアニメや他のグッズほどヒットせず、売行きは大昔書いた「戦国魔神ゴーショーグン」の小説より、少し低かった。
 もっとも、「ゴーショーグン」当時の編集者の方に言わせると、「時代が違う。『ゴーショーグン』の小説が売れ過ぎたんだ」と笑われた。
 いずれにしろ、『ポケモン』の小説が変な小説である事は確かである。
 3巻目の出る予定はないが、僕なりの『ポケモン』世界観はある程度分かるので、このコラムの読者層で、お暇な方ならどうぞと、お勧めしようと思ったが、amazon.co.jpで見たら、1、2巻とも文庫本で古本なのに、送料を入れると一番安くて1冊2000円近くて驚いた。
 みなさんに2000円出してまで読んでくれとは言えないし、小田原市立図書館にある事は確かだが、そこらの図書館にあるとも思えない。
 10年以上昔の本だからもう絶版だろうし、どこかで見かけたら読んでくださいと言うしかない。
 なお、こっそり言えば、何のミスかしらないが1巻の初版本は、終わり付近の文章が数行抜けていて、当時、出版社は、全部を刷り直したと言っていた。
 もし、あなたの手にした『ポケモン』小説の1巻の終わり付近の文章が抜けていて意味不明瞭なら、それこそ希少本である。
 実は、今現在関わっている新作アニメの監督さんの娘さんが、1巻を持っていて、2巻目がなかなか手に入らないというので、僕の手持ちの2巻目を贈呈したのだが、娘さんが読みたがっている『ポケモン』の小説がどんなものか、その監督は1巻を読んでみたそうだ。
 で、僕に言った。
 「終わりの方が少し飛んでるけど、文章、抜けていません?」
 監督の娘さんが持っていた『ポケモン』の第1巻は、まさにその希少本だったのである。
 小説の1巻は、あの事件の以前に出版された。
 僕は、小説を書き終えてすぐ、ロケット団のテーマ曲の作詞に取りかかった。
 そのテーマ曲「ロケット団よ永遠に」のCMが初めて流されたのが38話、あの事件が起きたエピソードの中だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 前回、超短編シナリオのワンシーンを、ふたつ載せて、それをシナリオの見本として使うのはひどすぎると書いた。
 どこがひどいのか……いろいろな意見が電話で来た。
 意外と、脚本を書いた事のある人や、現在脚本を書いている人が多いのに驚いた。
 本気にしろ、冷やかしにしろ、シナリオの学校を覗いた経験のある人たちだ。
 そんな人たちのそれぞれが指摘する部分が、それぞれ違うのが面白いと言えば面白かった。
 だが、それぞれの意見を総合すると、ワンシーンの1行1行が全部変で、結局やっぱり、シーン全部が変なシナリオという事になる。
 シナリオは、柱とト書きとセリフでできている。
 前回の例でいえば

 ○リビングルーム(朝)……これ、柱。
  キッチンと続きになった広い部屋。……これ、ト書き。
  ベビーベッドの上で首藤剛志(4ヶ月)。火がついたように泣いている。……これもト書である。

 僕が載せたシーンには、まだ、セリフが出てきていない。
 セリフが出てこないうちから、僕からすればひどいシナリオなのだ。
 実は、このシーンには、続いて登場人物が出てきてセリフを言う。
 4ヶ月の赤ん坊の、おじいさんなのだが、この人のセリフがまたひどいので、僕はうんざりして書くのを止めたのである。
 シナリオの基礎として普通最初に教えられるのは、目で見えて、音で聞こえるものだけを文字で書いて表現しろという事である。
 ト書きに美しいとか、汚いという形容詞はできるだけ避けろと言われる。
 誰かが美しいと思うものを、他の誰もが美しいと思うわけではない。
 形容詞は見た者の主観に左右されるからだ。
 人の主観は目に見えないし、表現できない。
 悲しいとかうれしいとかの感情も目に見えないから、涙が出るとか笑い顔などという目に見える表現で書きかえる。
 凝った形容詞や、感情表現、比喩や暗喩、装飾語を考えず、具体的に目に見え、音で聞こえるものだけを書けばいいのだから、シナリオは、簡単な文章ですむ。
 簡単な文章でいいから、シナリオは誰でも書けるはずだという理屈が成立する。
 前回、僕が取り上げた団塊の世代向けのシナリオ教本のようなものは、その理屈が基本になっている。
 それは、どこのシナリオ学校でも教えるだろう脚本の基本らしいから、一応それに従う事にする。
 だとすると、この見本のシナリオだが……。

 ○リビングルーム(朝)……どこが具体的なのだ? 朝が目に見えるのか? 朝を表現する具体的な何かが必要じゃないのか?
  キッチンと続きになった広い部屋……キッチンと続きになったリビングルームを、広いと思うか狭いと思うかは、作者の主観じゃないのか? 僕は広くても、キッチンと続いているリビングといえば1LDKぐらいの部屋しか思いつかない。
 ようするに、作者は、キッチンからリビングが見通せるような設計の、大きな家のリビングをイメージしているらしい。まあ、それならそれでよしとしよう。しかし、そんなリビングルームにベビーベッドである。
 広い家ならリビングにベビーベットを置くか? ……しかも、火を使うキッチンが続いているリビングである。
 で、赤ん坊が火のついたように泣いている。
 火がついたように泣くという使い古された言葉だが、火がついたようにをどう表現するのか?
 第一、普通赤ん坊は、めそめそ泣いたりしないだろう。泣くときはぎゃーぎゃー泣くはずである。
 火がついたなどという表現があると、この作品の監督か助監督が、このシーンのために赤ん坊のほっぺたでもつねって無理矢理泣かせているのではないか、と余計な心配をしたくなる。
 まだまだ、この3行のシナリオにはつっこみたい事はいろいろある。
 だが、なによりひどいのは、このシーンの主役は誰かという事である。
 それは、明らかに泣いている赤ん坊である。
 赤ん坊が泣いているのである。
 リビングが朝である事より、キッチン続きのリビングを眺めているより、泣いている赤ん坊の方が、大事なはずである。
 その赤ん坊はほったらかしで泣いているのか、それとも誰かが世話をしているのかを先に書くべきである。
 つまり、見えるものを書くのではなく、見せたいものを書くべきなのである。
 たった3行のシナリオらしきものにえらく手間取ってしまった。
 次の見本シナリオは、面倒くさいから最初の部分だけにする。

 ○空き地の隅
  ダンボールに群がる猫。
  剛志、大声で猫を追い払う。

 ○空き地の隅……そう書いた以上、空地を見せなければ隅もまん中もない。多分、画面には俯瞰で空地が写っているのだろう。
 ダンボールに群がる猫は、何匹なの? 数えきれないほど多いの? 数匹なの? その数で、シーンの意味がかなり違ってくるはずである。
 大声で猫を追い払う剛志は、空地のどこにいるの? ダンボールのすぐそば? それとも遠く?
 剛志は、どんな大声を出すの? その大声の内容で剛志の状況や心情が表現できたかもしれないのに……残念だという気にもなれない。

 ついでだから、シナリオ学校の先生が烈火のごとく怒るだろうシナリオのワンシーンを書いておく。
 僕が書いたシーンである。書きながら、自分でもこりゃないなと思いつつ書いた『ミンキーモモ』という魔法少女ものの1シーンである。

 ○空き地
  巨大なUFOが降りてくる。
  日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーンが展開する。
  モモ、呆然。

 この4行である。
 本読みは、みんな「……」で、だが、そのシーンに対して文句は出なかった。
 CGなんかない時代である。
 それでも、監督、演出、絵コンテ、その他のスタッフが、少ない予算と短いスケジュールでがんばった。
 それが、日本のアニメ史上、かつてなかった華麗なシーンかどうかは全く分からないが、それなりのシーンができあがった。
 その後、酒の場で、そのシーンが話題になった。
 「あの場面は参った……」
 「ほんと、困った」
 当時、スタジオジブリがあったなら、こんなぼやきが出たかもしれない。
 「うち、ジブリじゃないんだしさあ……」
 だが、あんな脚本、2度と書くなとは誰も言わなかった。
 みんな、笑っていた。
 この人たち、その後、手書きのCGという奇妙なシーンを、『ミンキーモモ』の中で作って見せてくれた。

   つづく
 


■第158回へ続く

(08.08.20)

 
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