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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第16回 恐怖の20枚シナリオ(Part 5)

 「20枚シナリオ」の修行法にこだわっていると、いつまでたっても、脚本家になる話に進んでいきそうにないので、この話は、今回で打ち止めしようと思う。
 しつこいぐらい断っておくが、僕は「20枚シナリオ修行法」を、間違いだとも、悪いとも言っているのではない。ただ、僕には、向いていないのである。そう思ったから、とっとと、撤退することにしたのだ。
 ここで、まとめておこう。
 最初に、書けと言われた「出会い」をテーマにした20枚シナリオを、他の人たちの書かれた作品を例に取ってみる。
 一番多いのが、偶然の出会いから、いろいろあって、二人は愛し合うようになりました……というストーリーである。
 まず、出会う二人の人物設定が大変である。それぞれ人間には、たとえそれが十歳未満の子供であっても、それぞれの歴史を持っている筈だ。容貌だって様々だ。その説明が20枚では不可能に近い。
 それがないと、偶然に出会っても、互いに関心を持つ根拠がない。
 たがいに関心を持てなければ、「こんにちわ」そして「さようなら」。気の利いたやつなら「またどこがでお会いしましょう」ぐらい付け加えて、それで終わりである。
 そこで、簡単な設定を無理につけようとする。何だか知らないが心に傷を持つ、ちんぴら……なぜか日常生活に疲れたサラリーマン。ともかく心になんだかぽっかり穴の開いた男が皆さんのシナリオには多く登場する。「シナリオ研究所」の生徒が主人公というのは、なぜかほとんどなかった。きっと、「シナリオ研究生」の男というのは、どこか、心に満ち足りたものがあるのか、それとも、偶然に女性と会っても何も起きないと、最初からあきらめているのかもしれない。
 女性はOL(キャリアウーマン)、学生、看護婦、婦人警官……まるでアダルトビデオのようになんでもありである。共通しているのは、どの登場人物も、日常は元気なように見えて、心は、なぜか孤独で、さみしく、人恋しさを胸の奥に秘めている。
 そして、互いに満ち足りない心を、慰めあい、それが愛に変わっていくのである。
 男性が書くシナリオは、女性に慰められるシナリオが多く、女性の書くシナリオは、男を慰めてあげようとする気持ちが愛に変わるというものが多かった。なんとなく、ここいら、脚本家志望者の書くものも女性上位の気がする。
 ともかく、この二人の設定が大変で、結局、どこかの映画やTVドラマで見たパターンの、それも、枚数が少ないから設定さえダイジェスト版になってしまう。
 それが面倒な人は、思い切って設定などなくして、どこにでもいる男女の偶然な出会いにしてみる。本当は、どこにでもいる平凡な人間というのが、描くのに一番難しいのだが、そこは、無視する。
 そして、二人の間にいろいろあって、二人は愛し合うのである。
 さあ、その、いろいろあっての……いろいろが大変である。二人が愛し合うまでのいろいろが20枚で書けますか?
 さらに、当時の時代的な問題もあった。当時の愛は、純愛ではなく身も心もという(つまりベッドシーン)まで行かないと、愛し合うとはいえないという風潮があったのである。
 描写が過激化するヨーロッパ映画の影響、ロマンポルノ(知ってますか?)の勃興……学生運動の激化(つまり、やるところまでやらなければ、そこに真実はないという考え方?)……なども、その理由にあったかもしれない。
 さあ、すごいことになってきた。偶然、出会った男女が、20枚で、ベッドまでたどり着かなければならない。
 しかも、ラブホテルに入るのでは、あまりに即物的であるから、いろいろ工夫する。なぜか、故郷の澄みきった水の流れる小川のほとり……泉や湖……風薫る五月の野原……室内シーンにしたって、静かに小雪が散る庭が障子越しに見える、一枚布団にくるまって……窓辺に降りかかる雨も、豪雨から、小雨まで様々である。月夜の山で、ぽんぽこりんなどというラブシーンもあった。つまり、出会いの20枚シナリオは、ベッドシーンというハッピーエンドで終わるのが、お約束のようなものだったのである。手をつなぐだけなどという純愛シーンで終わったりすると、甘っちょろい、愛はもっと突き詰めて描かなければならない……自己批判せよ……などと言われかねなかった。
 たいして恋愛体験が多くもなさそうな「シナリオ研究生」にとっては、荷が重すぎるといえないこともなかった。
 この手のものを書くのに苦労するなら、街に出て、見ず知らずの女性に片っ端から「お茶しませんか?(古いなあ……)」と声を掛けまくってさそったほうが、20枚シナリオでなく、その日のうちにラブシーン(金銭関係なしで……)を実体験できる可能性の方が高そうである……事実、そんな話は当時よく聞いた……(僕の話ではない)。
 万が一、苦心に苦心を重ね「出会い」という20枚のハッピーエンドシナリオを、奇跡的に上手に書けたにしろ、そこに描かれているのは、パターンの設定で、パターンな登場人物によってパターンな出来事が起こり、めでたしめでたしという、よく書けたシナリオという悪達者な脚本技術を身に付けただけという結果に終わるだけだと思うのである。
 そうでなければ、やっぱりパターンな人間が動き回る、ちょっと意外な設定と結末のショートショートか、気のきいたコントの作者にはなれるかもしれない(?)。
 つまり、登場人物の感情の機微と揺れがうまく描けない20枚シナリオを、シナリオと言っていいものか……それは、単なる設定とあらすじを書いただけの、シナリオとは別種の文章ではないかと思うのである。
 20枚シナリオを六本書いてつなげれば一時間のシナリオになる……という意見もある。だが、ストーリーのテンションやモチベーションが、20枚ごとに収束しがちな20枚シナリオを、並べただけで、一時間分のテンションの盛り上がりをもてるかどうか……誰が考えたって疑問だろう。
 「20枚シナリオ修業」を続けても、僕は、せいぜい、あらすじライターや、プロットライターにしかなれない。こんなことなら、大学受験の勉強でも再開しようかと思いもしたし、まだ、その時間も充分残っている様な気がした。
 「シナリオライターになる!」と宣言したガールフレンドにも、なにしろ彼女自身がシナリオと支那料理の区別もつかない、今のうちなら方針変更をなんとかごまかせそうな気がした。
 だが、その時である。僕は突然気がついたのである。
 なぜ、これほど、20枚シナリオを敬遠したがるのか……嫌いたがるのか。20枚シナリオにどんな欠点があるにしろ、それを続ければシナリオの技術はともかく、書き続けるという根性というか執着心は身に付くはずである。石の上にも○年、桃栗三年、柿八年、人間、何かを努力し続ければ、たとえ、その方面で芽がでなくても、得るものは多いはずである。少なくとも原稿用紙の書き方はうまくなるだろうし、文字だって上手いとは言えなくても味のある字を書けるようにはなる。
 それが、いまだに「20枚シナリオ修業」を間違いだとか悪いとか言いきれない理由の一つでもあるが……そんなことはともかく、僕には、「20枚シナリオ」をやりたがらない別の原因があったのだ。
 我ながら、迂闊この上ないが、僕は、本質的に、文章を書くことが嫌いな人間だったのである。
 人間には、文科系と理科系があるように、文章を書くことが好きな人間と嫌いな人間がいる。これは、理屈などない。生理的なものである。文章を書くことの好きな人間は、人から書けと言われなくとも、日記や作文やおはなしを子供の頃から書く習慣のようなものがある。
 大人になっても、何でもかんでも紙と筆記具があればメモをとる人がいる。
 僕は、その正反対……何かといえばものを書きたがらない種類の人間だった。日記は勿論書いたことはなかったし、学校の作文だってさぼってばかりいた。今でも、書くという行為を好きだとは言えない。
 正論を言えば、僕が、いくら映画が好きだとはいえ、シナリオライターを目指すのが間違いなのである。
 16回も、こんな文章を書いてきて、今更何をと、怒られるかも知れないが、書くことが嫌いな男が、大学受験勉強いやさで、脚本家を目指してしまった。こんな間違いがあっていいのかと自分でも呆れるが、そんな僕が、一応、脚本家として人生のほとんどを過ごそうとしている。
 書くのが嫌いな男が、いかに書くという仕事をやり続けてしまったか、その困りきった男の話……だからこそ、このエッセイのようなものの副題は「誰でもできる脚本家」なのである。
 と、いささか居直ったところで……

  つづく


●昨日の私(近況報告)

 「20枚シナリオ」の是非を述べるためには、いちおう、現代の短編映画の知識も必要であろうと思い、参考に、ここ数年のショートショート映画の傑作選をDVDで、数本見た。短編アニメも何本かあった。
 くやしいが、良い作品、面白い作品、うらやましい作品の山盛りである。
 もしかしたら、長編映画や、TVドラマの世界よりショートショート映画の世界の方が、才能が豊潤なのかもしれない……と、思いかねない程である。
 だが、それらの作品の出来ばえにシナリオが、どれほど影響力を持っているかどうかは、よくわからなかった。
 シナリオとはもっと違う、登場人物の描写や、演出力や、作家の感性が、大きくものをいっている様な感想を持った。
 「良いシナリオから悪い映画が生まれることはあっても、悪いシナリオから良い映画が生まれることはない」とは、よく言われ続けてきた台詞だが、良いシナリオなどなくっても、良い作品が生まれることもあるのを見せつけられた気がした。
 なんにしろ、「20枚シナリオ」では、とても作れそうにないショートショート、短編群である。
 余談もいいところだが、「20枚シナリオ」のことを書いていて、いきなり思い出した他人の「20枚シナリオ」があった。
 その作家も、「20枚シナリオ」の面倒くささに苦労して、いささか居直ったのかもしれないが……その人の「出会い」のシナリオは、男と女が出会い、いきなり次のシーンはラブホテルである。
 男女は、裸で抱き合い、互いの体の部分部分を褒めあうのである。
 「ここ、いいよ」「ここ、すてき」頭の髪の先から、足の爪の先まで、互いに、愛撫し、なめまわし、「いい」「すてき」をつぶやき続ける。当時は、現在より、ぼかしやモザイクが厳しい時代だったが、映像ではないシナリオは、そんなことはお構いなしである。20枚分、描ける身体の部分を、全てお互いに褒めてから男はつぶやく。
 「愛しているよ」女も答える。「愛しているわ」……二人は、上向きになって天井を見つめる。「でも、どこかむなしい」男が言う。「私もむなしい」女が答える。しばらく間があって……女がつぶやく。
 「このむなしさを確認しましょう」……男はうなずき、二人は、また抱きあう。
 で、エンド。
 他人様の書いた「20枚シナリオ」だが、一番印象に残っている「20枚シナリオ」である。でも、これ、シナリオだろうか……?
 その作品の作家の名を、その後、数十年、聞いたことも見たこともない。
 

■第17回へ続く

(05.09.14)

 
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