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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第17回 
書くことが嫌いな男は、いかにして鉛筆を持つようになったか PART 1

 書く事が嫌いな脚本家、又は、小説家、評論家、エッセイスト、そんな人が、物書きになろうとする。非常識この上ないが、それを気にもしないで「シナリオ研究所」などというところに通いだした僕は、自分の書くことが嫌いだという現実に直面して、いささかあわてた。
 実は、子供のころ……どうして僕は、こうも書くことが嫌いなのだろうと、原因を考えたこともあったのである。
 そして、それなりの結論をだして、納得さえしていたのに、いまさら、脚本家を目指そうなどと考えること自体が迂闊も良いところである。
 僕は、生れながらにして、左利きであった。
 僕が子供の頃は、「左ぎっちょ」等と呼ばれて、左利きはみっともないと言われ、あまり良くは思われなかった。
 だが、僕は、左利きを押し通した。生来のあまのじゃくだったのだ。
 なぜか、両親も、無理に右利きに矯正しようともしなかった。
 右手で箸をもって不器用に不味そうに食事をする僕を見るのがいやだったのか。子供のころに少しだけ習って、すぐ飽きて止めたピアノの練習には、右手だけでなく左手が使えることも必要だと、考えたのかもしれない。
 しかし、僕の左利きは尋常ではなかったらしい。小学校の入学の時、自分の名前を平仮名で書かされたが、僕の名前「しゅどう」の「し」は書けたものの、「たけし」の「し」の字の時は、すこし考え込み、「し」をアルファベットの「J」のように書き……つまり「しゅどうたけJ」と書いて、周りから注意を受けたが「僕は左利きだからこれでいいんです」と平然としていたという伝説(?)が残っている。更に、雨の日、長靴を右と左、逆にはいて、これも注意を受けたが、「僕は左利きだからいいんです」と答え、そのまま学校から家まで帰って、これには、さすがの親もあきれ果てたという話も残っている。
 人と手をつなぐのも左手だったし、物を投げるの叩くのも左、蹴るのも左足だった。
 しかし、当時の現実は、僕の左利きを簡単に許してくれなかった。
 まず、日本語を書くのが、左利きには向いていない。
 縦書きにしろ、横書きにしろ、試してみられるといいが、外国語に比べて明らかに書きにくい。スピードも遅い。字もきれいに書けるとは言えない。
 おまけに、僕の子供のころは、左利き用の道具が少なかった。
 左利き用の野球のグローブなど、ほとんどなかったし、はさみ、包丁、日常生活に必要なものは、右利き用のものばかりだった。
 仕方なく、字を書く時と、野球のボールを投げる時だけは、右手を使うことにした。誰から言われたわけでもなく、自分が不便だからの自主矯正だった。
 やがて、その自主矯正は、僕を、右左両刀遣いに変えていった。
 しかし、今でも、何をするにも左が優先する。箸は左だし、乾杯するときのグラスも気がつけば左手に持っている。殴る。蹴る。物をつかむのも左手だし、蹴るのも左が先……。これは、喧嘩に便利だった……相手は右利きが多いから、いきなり飛び出す僕のサウスポーに、びっくりする……相手がびっくりしたところに一撃食わして、相手が呆然としている間に、「なめるなよ」等と捨てぜりふを残し、本来、喧嘩が強いとはいえない僕は、相手が我に返る前に一目散に逃げる。それが、僕の子供のころの喧嘩のやり方だった。本来なら、予想外の不意打ちで、いささか卑怯な気もするが、幸い、喧嘩相手達には「あいつは、ただ者ではない、何をするか分からないから喧嘩の時は気をつけろ」という評判を受け、以後、僕が、あまり意味のない喧嘩に巻き込まれることは少なくなったし、小学校を北海道の札幌、関西の奈良、東京の渋谷と三度も変わった転校生の僕を、転校生という理由でいじめる奴もいなかった。思い掛けない左利きの効用の一つだと思う。
 余計なことだが、女性とお付き合いするときも左利きで、僕の人生で、さほど多くないガールフレンド達から、「最初は戸惑うわ」と御指摘を受けたこともある。
 なお、何回かの転校が僕に与えた影響については、結構シナリオを述べる上の参考になると思うので、後日、語ることにするが、とりあえずは、左利きだったために、書くことが大嫌いだった僕の話に戻ろう。
 小学校、字が嫌いだから、宿題の絵日記には絵しか書かなかった。
 絵を描くのは左手のクレヨン・クレパスがほとんど……右手は補佐程度でしかなかった。
 やがて、水彩画を描くようになると、右左、両手で筆を使うようになっていた。右手の自主矯正がかなり効果を見せだしてきたのだ。
 だが、文章を書くのは右手だった。書くのが嫌いだから、作文はさぼりにさぼって、小学校から高校まで十本たらずしか書いていない。
 それなのに、いや、それゆえにか、ここに大きな誤解が発生するのである。
 書くのが嫌いな僕が、いやいや書くのだから、まともな内容を書くはずがない。せっかくだから、人が考えそうなことと違うことを書く。
 今日はお天気で気持ちがよかったとか、遠足や運動会や誕生日が楽しかったとか、何なく学校や家族や、世間様にこびたような正論(というか……ありきたりのこと)は、書くのがもったいなかった。
 いやいや書くのであるあるから、思ったことを書かないと損だと思った。遠足なんて、ぞろぞろ同じ道を歩き同じ景色を見て、どこが面白い……。僕は一人で、自分の好きな道を歩きたい。運動会で、一等になろうが、ビリになろうが、たかが小学校……何の価値があるのだ。疲れるだけではないか。誕生日は、どんどん大人に近づいていくということだが、やがて老人になって、死んでしまう道への一区切りに過ぎない。
 そんな、世の中を斜に構えて見た文章が多かった。
 今、思えば生意気でいやなガキだと思うが、それが、意外と、当時の先生達に受けたのである。
 戦後の民主主義教育に飢えていた先生達には、画一的な考えをいやがるような僕の文章が新鮮に見えたのかもしれない。
 本当は、書くのが嫌で、ひねくれたことを書いていたに過ぎないのだが、読んでくれた人が勘違いしてくれたのである。
 で、首藤剛志という子は、面白い文章を書く子だということになってしまった。そして、ここが大事なところだが、賞状とかカップとか、副賞とか、見返り品をくれた。
 それは、転校した他の学校でも同じだった。
 だからといって、書くことが嫌いな僕は、宿題の作文はさぼったし、夏休み恒例の読書感想文なんか忘れましたですましたし、余程、先生や家族から書け書けといわれなければ文章なんてご免だった。
 僕は、両手を使い、様々な色を使え、描く対象を自由にデフォルメできる絵を描くほうが好きだったし(小学生だと図工か……)、字の代わりに数字を使う算数や、いろいろなものを観察して考える理科の方に興味があった。
 特に絵を描くことは、賞状とかカップの見返りは何もなかったが、先生や周りの評価も低くなかったし、将来は画家か、それが駄目なら、数学や科学を専門分野にする仕事をしたいと思っていた。
 実は、その気持ちは(今更遅いが……)今も残っているらしく、本屋へ行くと、本の内容を理解もできないのにその種の専門書を買ってしまう癖がある。
 話を、文章を書くことに戻そう。
 中学、高校に進むに連れて、僕の文章書き嫌い度は、進んでいった。
 原因は、難しい漢字の登場である。
 恥ずかしい話だが、国語の漢字のテストで、満点なんぞ取ったことはない。それどころか10点満点の3点か4点である。国語のテストで漢字の問題が占める割合は10点程度であるから、僕は国語のテストで90点以上、取ったことがない。文法にも自信がないから、点数はさらに下になる。
 なぜ、日本にしか通用しない漢字や、文法を勉強しなければならないのか? と、日本の教育を呪ったことも一度や二度ではない。
 そんな僕でも、国語の成績がさほど悪くなかったのは、読解力問題に書いた変な解答のせいである。
 正解を書いたわけではない。ただ、点数に×とか△をもらったときに、必ず、教師のところへテスト用紙を持っていって、テスト業者が決めた正解はあるかもしれないが、僕のような答えがあってもいいのではないかと、クレームをつけるのである。
 文章なんてものは、読む人それぞれに解釈の違いがあって当然である。
 教師は、僕のクレームに困って、結局、正解か、最低でも△にしてくれる。国語のテストで読解力試験は、かなりの比重を占めるから、漢字以外の僕の国語の点数は落ちない。間違いの分かりやすい文法も、あくまで、文章の法則である以上、法則には例外がある。例外を指摘すれば、国語の文法など穴だらけである。まして、文法の乱れがうるさく言われだしたここ数十年は、乱れの方を正解にしてしまえばいいのである。
 ただし、これは、交渉相手の教師がいる場合に、限られる。
 高校、大学受験のように、問答無用に採点してしまう試験では、僕の教師との直接交渉は通用しない。
 正解が一つしかない問題など、少なくとも国語にはありえないと思っている僕などには、一つの正解を無理やり覚え込もうとする受験勉強は、時間の無駄としか思えないのだが、それはともかく、書くことが嫌いな僕が、シナリオライターになろうと血迷ったのには、小中高を通して。十本も書かなかった作文に対する僕の大いなる思い上がりといえる誤解があったのである。

 ついでだが、今回の話、脚本を書く事と、全く関係がないようでいながら、かなり重要なことを述べているつもりである。
 こんな但し書きをつける僕って、なんて親切なんだろうと自分であきれつつ……

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 最近、何となく納得できない日本の戦争映画を三本見たが、今回は、アニメやコミックを原作にした日本の青春映画を二本見た。
 言うまでもないので言っちゃうが「NANA」と「タッチ」である。
 困ったことに、戦争映画にはぶつぶつ文句を言っていた僕が、なんとなくニコニコしながら見終わってしまったのである。
 真面目に見れば、欠点の多い映画だと思う。
 昔だったら、途中で出てきたかもしれない。
 それが、映画館から出てからも微笑んでいるのだから、最近の僕は変である。
 この感じには、覚えがある。
 数ヶ月前、美少女宇宙戦隊アニメを題材にしたミュージカルの舞台を見たときにも感じたものである。
 今までなら途中で劇場を逃げ出しただろうに、最後まで見てしまったどころか、アニメファンだか美少女ファンだか知らないが、フィナーレで歓声をあげる男性ファン(その回は意外と三十代や四十代風が多かった)と一緒にアンコールまで付き合ってしまったのである。
 ミュージカルの内容や出来など、あまり関係なかった。
 ただ、出演しているぴちぴちとした若い女の子達に、見とれていたとしかいいようがない。
 こんなことは、数年前まであり得なかったことである。「タッチ」や「NANA」も、登場する女の子に、なんとなく見とれていた。
 早い話が、彼女達はかわいいのである。
 かわいさで、僕を二時間、持たせてしまうのである。
 いくら、女の子がかわいいからって二時間、我慢できる男ではなかったはずである。
 遠くで、「首藤剛志もおじさん」になったという声が聞こえるような気がする。
 かわいいという意味ではないが、映画の「電車男」でいい女優だと思った中谷美紀さんが出ている「ケイゾク」という少し昔のTVシリーズも、レンタルDVDで、今、見続けているし、少し内容は違うが、「チャーリーとチョコレート工場」(これは悪い映画ではない)には、なんとなく、はしゃぐでもなく微笑んでしまうし……なんだか、最近の僕は、かなりおめでたい人間になっている気がする。
 今の僕なら、なんでも許してしまう気がするのだ。
 これって、老化現象なのだろうか……。
 ちなみに、今日、誘われているのは、明治座で公演している藤田まことさん主演の芝居で、第2部には歌謡ショーがついている。
 若い女の子の青春映画にニコニコし、団体のおばちゃんが動員される歌謡ショー付きお芝居を見に行く僕って、いったいどんな奴……?
 何かの過渡期なのかもしれない。
 

■第18回へ続く

(05.09.21)

 
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