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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第18回
書くことが嫌いな男は、いかにして鉛筆を持つようになったか PART 2

 書くことが嫌いな僕の作文は、書くこと自体が嫌だから、よくある優等生が書くような、世間様が喜ぶような真面目で道徳的ないい子いい子した文章ではなかった。
 自分でもへそ曲がりな考え方だなと思うことを書き、世間様がまともだと考えそうな意見は、あえてひん曲げて書いた。
 本人は文章を書きたくないからそうしたのだが、その作文を読んだ人達は、僕のことを面白い考えをする子だと解釈した。
 僕にとっては、そんな解釈は迷惑だったが、いつの間にか僕は、作文が上手な子ということにされてしまった。
 小学校の時などほんの数本しか書いていないのに、まわりが勝手に、そう決めつけてしまったのである。
 だから、学校の先生も、親達も、僕に作文を書け書けという。
 僕は、書くことが嫌だから余程のことがないと書かない。そのうち作文を書けと言われること自体が、苦痛になっていた。
 どうしても書かなければならないという、進退極まった状態にならなければ作文など書かなかった。
 小学生から高校生まで、そんな進退窮まった状態が、十回ほどあって、そんな時だけ、困り果て、苦痛にあえぎながら作文を書いた。
 例えば、小学校五年生の時に、奈良から東京の渋谷に転校して来てしばらくした頃、渋谷区が主催する作文コンクールがあった。
 テーマは「どのようにしたら今後、渋谷の町は、発展するだろうか」だった。学校の先生は、古都、奈良からの転校生が渋谷の今と未来をどんなふうに考えているかを書かせたかったようだ。ついでに、奈良の国語の先生から作文の上手な子という情報も入っていたらしい。
 僕のクラスの中では、僕一人に作文を書けとの指命が来た。
 いくつもある渋谷の小学校の中の一つの小学校から、コンクールの応募作品を沢山、出すわけにはいかなかったかららしい。
 クラスの子ども達はどう思ったかしらないが、その子供の親達も、僕の親も、その御指名を名誉なことだと思ったらしい。
 僕は、バーやキャバレーの御指名ならともかく、うれしいわけがなかった。
 だが、みんなが書け、書け、とうるさくいう。
 締切が迫ってくると、まだかまだかと、まるで出版社の編集部のように脅し……その人たちは、励ましのつもりだろうが、僕には脅しにしか感じられなかった……を言いだしてきた。
 僕は追いつめられて、苦痛にさいなまされながら書くしかなかった。
 やけくそになって書いたその内容は……渋谷はこのままでいい。ただですら僕たちはベビーブームで子ども達が多く、友達だって充分いるのに、これ以上、町が発展して人が増えたら、遊び場も少なくなるし、騒がしくなるだけだ(現在の渋谷はまさにその通りである)。僕は、作文の最後にこう書いた。渋谷駅前に、忠犬ハチ公の銅像だけがある今のままで(つまり現在から四十年以上昔の渋谷である)、いいと思います。
 渋谷の発展をテーマにしたコンクールに、「発展しなくていい」と書いたのだ。
 僕の内心は、これで、僕に作文を書けという人は、いなくなるぞ……だった。
 ところがである。その作文は、僕の小学校の推薦を受けてコンクールに応募され、渋谷区の小学校の部の最優秀賞をとってしまった。
 落ちるつもりで書いた作文が、賞状とカップと副賞(何だったか忘れたが)を貰ってしまったのである。つまり、その作文にも見返りがあったのだ。
 だからといって、味をしめて、作文が好きになったかというと、逆である。嫌なことをして、ほめられたのだから、ますます嫌になった。
 中学生になってから、僕は全く作文を書かなかった。
 しかし、修学旅行で奈良に行った時(当時、東京の中学校の修学旅行は、奈良・京都が相場だった)小学校時代に奈良にいたことがあるという理由で、またまた作文のコンクールの指名が来た。
 小学校の時のように、書かなければならない状況に追いつめられ、今度こそ、ひんしゅくをかう作文を書いてやろうと思った。
 だからといって、子供のころに好きだった奈良・京都のことを悪くは書きたくない。そこで、一番好きだった奈良の薬師寺のことを書いた。
 余談だが、僕の世代の人たちの中には、薬師寺といえば、お寺をおもしろおかしく説明している愉快なお坊さんのことを覚えている方も多いと思う。このお坊さん、後に、古びてしまった薬師寺を、奈良時代のきらびやかなお寺に復原するという大偉業(賛否はあるものの)をした高田好胤さんというただものではない大人物である。
 この人のお説教は、中学・高校生にも面白過ぎによく分かり、オーバーでなく日本中で評判だった。僕自身も、普通なら写真を撮るのを禁じられている仏像にカメラを向けるのを、「何枚でもかまへん。きれいに撮って差し上げてや」とにこやかに許してくれたりした。普通は、いかめしく一緒にいるだけで足がしびれそうになる僧侶というイメージをぶちやぶったユニークなお坊さんとして、日本史に残っていい人だと思うので、ここに記しておく。こういう人が、脚本家になったら、日本の映画もずいぶん変わったろうに、なんていったら、仏教界から、えろう叱られるかもしれまへんなあ……。
 で、話を僕に戻せば、僕は作文に薬師寺の仏像の感想を書いた。
 薬師寺には、三体の仏像があるが、その右と左の仏像は、立ち姿で、ゆったりと腰をひねっている。
 それが、なんともエロティクなのである。エロティックといって失礼なら官能的なのである。……どっちの表現も失礼か。
 で、僕は書いた。
 仏教という宗教の枠の中で、これだけなまめかしいものを作り上げる仏像の作者は芸術家としてすごい……しかも、そのなまめかしさは、千年以上の歴史を越えて現代の人たちにもとどいてくる。……なんてね。
 ミロのビーナスにエロティシズムを感じるのは、なんとなく分かるが、堅苦しいイメージのある仏像にこんな感想文を書くのは、バチあたりもいいところだと、怒られると思ったら、この作文も誉められ、見返りもあった。
 その他「尊敬する人」というテーマの作文も、ローマの英雄、シーザーを暗殺したブルータスを僕は選んだ。
 シーザーは、世界史を習った人なら誰でも知っている英雄だと思う。
 ついでに「ブルータス、お前もか!」というシーザーの台詞も有名である。心から信頼している人から裏切られたことを知ったシーザーの悲痛な叫びである。
 ここで、ローマの歴史を説明しても、脱線といわれるだけだから、今、一番読みやすいローマの歴史を書いたものとして、塩野七生さんの「ローマ人の物語」という本があることを紹介するにとどめておく。
 この本(といっても、全十数巻もあるが)の中で、女性作者である塩屋さんが、長いローマ歴史の何人もいる偉人の中で、一番の偉人というよりも、一番愛しているとしか思えない、まるで恋人のような描き方をしている人物がシーザーであるが、その人を暗殺しちゃったのがブルータスである。
 ブルータスは、シーザーから受けている深い信頼を知っていた。
 全世界的英雄であるシーザーを暗殺したら、自分がどんな悪役呼ばわりされるかも知っていた筈である。
 それでも、自分の信念を貫き通すために、シーザーを殺さなければならなかった。
 人間的には、悩みに悩んだであろう。しかし、彼は、暗殺を決意し実行した。その苦悩と決断に対して、僕は尊敬の念を抱いたのである。
 ……などという作文を書いた。
 ブルータスを尊敬するなどという人は、少なくとも中学生にはいない筈である。
 だから、書いた。
 書くことが嫌いだから、誰も書きそうにないことを書いたともいえる。
 ちなみに、昔も今も、歴史上でも、心から尊敬する……とまで思える人物には、僕は出会えていない。
 で、もって、その作文も評価されて、見返り(賞のようなもの)を貰った。
 つまり、書く行為が嫌いだから、人が普通、目を向けない部分、目をそむける部分(当たり前だと思わない……常識的ではない)を見て、感じて、書く癖がついてしまったのである。……これって、脚本家を目指す人には、結構、参考になることだと思う。
 それはともかくとして、こんな具合に、僕には、めったにしない書くという大嫌いな行為を、たまにした時には、必ず、見返りがあった。
 ここで、自分の中に、誤解が生じる。
 書くことは嫌で嫌でたまらないが、何かを書いたら、必ず見返りがある……これを、思い上がりも甚だしいと説教する人もいるかもしれないが、僕は子供の時から、そうだったからと、居直るしかないのである。
 僕が、もし書くことの好きな人間だったら、色々なコンクールに応募しまくって、賞金稼ぎになっていたかもしれない。
 事実、賞金稼ぎをしまくった結果、気がついたら作家になっていたという方も少なくないと聞く。
 けれど、僕は、くどいぐらいに書くことが嫌いだから、そうはしなかった。したいとも思わなかった。
 しかし、何かを書いたら、見返りがあるという根拠のない自信のようなものだけは、本人も知らないうちに根づいていた。
 だから、軽率に「シナリオ研究所」などに入る気になったのである。
 シナリオを書いたら、何か、見返りがあるのが当然だ。という感覚にしらずしらずになっていたのである。
 ところが、「20枚シナリオ」というものは書いても、何も貰えなかった。「何も貰えない作文」があるという事実に呆然となった。
 修業という名で書かなければならない「20枚シナリオ」では、書いても書いても、何も貰えるはずはない。
 僕は、「シナリオ研究所」で、ほとんど生まれてはじめて、何も貰えない、見返りのない作文に出会ったのである。
 僕は、本当に困ってしまった。
 こうなったら、とっととおさらばするに限る。
 僕は、小学校を三つも変わった転校生である。
 転向には慣れている。
 「シナリオやーめた」
 だが、そう決めようとした時、辺りの天候が、簡単にそうさせてくれない状況になって来たのである。
 その天候状況はいくつかある。
 ひとつは、他に何をするか分からなかったということである。
 前にも書いたが、受験勉強で、大学を目指すのも考えた。
 だが、大学で何をする?
 したいことがない。
 更に、思いもしなかった天候異変が起きていた。
 天候異変、突然の雨の元は、ほんの少し前まで、シナリオを支那料理と勘違いしていたガールフレンドだった。


    つづく


●昨日の私(近況報告)

 数日前まで僕が住んでいた小田原という所は、かまぼこやうめぼしだけでなく、かつて文豪、文人といわれた人達に、由緒のある所である。
 谷崎潤一郎、尾崎一雄、小田原の人に知らないと言ったら怒られる川崎長太郎(知っていますか?)、北原白秋の家もある。
 文学とは関係ないが、二宮尊徳――子供の時は、にのみやきんじろう(薪を背にかついで、本を読んで勉強している少年の銅像)、つまり、よく働き、よく学べ、のシンボル。昔はどこの小学校の校庭にもあった記憶がある――がいたのも、ここである。
 最近では、小田原の漁港……早川が、CMでおなじみになった。
 早川の駅は、日本で一番、海に近いJRの駅として有名(でもないか)である。僕はその早川に十年近く住んでいた。つまり、おそらく日本で一番、海に近い所に住んでいた脚本家は、僕である。
 ま、そんなことはどうでもいいが、小田原の人たちは、北条早雲の小田原城と共に、小田原で活躍、または訪れた文学者と、この地で生まれた文学を誇りにしている。……若い人はともかく、少なくとも年配の方達にとって、小田原は、そういう所である。
 その小田原の文学について考えようという会……正確には、「小田原の文学に光と風を送る会」というところからお呼びがかかり、「アニメの脚本について」というテーマでお話をしてきた。
 なぜ、文学を考える会にアニメの話? と、首をかしげる方も多いと思うが、停滞した感のある日本の文学に新しい風を吹き込むのは、アニメであるという斬新な趣旨が、主催者にあったのである。
 アニメについてお話することは、承諾したものの、よく考えると、頭をかかえてしまった。なにしろ聞いてくださる方達は、明治、大正、昭和の文学の愛好者である。
 このエッセイを読んで下さるような、アニメ愛好者とは、世代が違う。 アニメファン(ないしはオタク)の常識が、普通の人に通用しないように、映画や脚本の世界にとっては常識のような事柄も、文学愛好者にとっては未知の世界である。ましてアニメの世界となると、未知の世界どころか異次元の世界の話に聞こえるだろう。
 文学愛好者(いや、普通の人たち)にとっては、脚本というものの存在すら、よく知らない世界なのだ。
 結局、映画の理論とアニメの歴史を簡単にお話する程度で、アニメどころか、脚本についてさえも御理解いただけたかどうか分からないうちに、時間が終わってしまった。
 またの機会に、続編が必要な気がしている。
 そんなことを考えているうちに、ふと気がついたことがある。
 僕のこのエッセイのようなものには、ハウツーものの一面もある。
 つまり、読んでいただいている方達の中から、プロの脚本家になる方が、一人でも多くでていただくのが理想である。
 僕が、「シナリオ研究所」に通っているころは、プロになるには十年かかるとか、行李(こうり)一杯分……段ボール二箱分ぐらいかな……の素材を持っておけなどと、偉そうなことをいう先生もいたが、今どき、そんなことを真に受けるのは、余程の暇人か、オバカである。
 脚本家を志したら、二、三年でものになるか、あきらめるかしなければ、書くこと以外芸のない脚本家商売だけに、他につぶしがきかない。 脚本修業を十年もやってものにならなかったら、その人の人生、真暗闇である。
 二、三年だったら、脚本家をあきらめても、このアニメやテレビ業界は万年人手不足だから、収入さえ文句を言わなければ、何か仕事が見つかるだろう。そんな業界関係の仕事をしていたら、なにかの拍子で脚本家に転向することもできるかもしれない。事実、そういう脚本家を、僕は何人も知っているし。そんな人たちの数は、まっとうに脚本家を目指して勉強した人よりもずっと多い筈だ。
 ともかく、脚本家志望者は、二、三年で白黒をつけたほうがいい。
 そのためにも……。
 一応プロである僕が、常識だと思っている事、用語などの中で、分からないことがあったら、どんどん聞いて欲しい。
 「プロになりたかったら、そんなことぐらい、自分で調べろ!」
 なんて冷たい事は言わない。
 この僕だって、脚本家になるために必要なことを知るために「脚本家になる方法や技術」などというハウツー本を読んだことはなかったし、今、持っている知識は、人から聞いたこと、自分で経験したことがほとんどである。
 ただ、最低限、知っておいたほうがいい、やっておいたほうがいいことは、エッセイの進み具合(エッセイの中の僕は、まだ、シナリオライターのシの字にもなっていない)とは関係なしに、早めに耳打ちしておくつもりでいる。
 このエッセイが全部終わってから、それを始めると一年か二年、時間が余計にかかってしまうからだ。
 ようするに、今のうちに知っておいて欲しいこと、やっておいて欲しいことが、いくつかあるのである。
 それについては、余談めいたかたちで、エッセイ中や、近況報告の中で、突然出てくるかも知れないので、お読み逃しのないようにお願いしたい。
 もちろん脚本家になるということに興味のない人は、お気楽にどうぞ。……だって、偉そうなことを言っても、脚本家と言う仕事は、収入面でも信用度でもたいした職業ではない。
 例えば、脚本家が銀行からお金を借りるときの信用度は、医者や弁護士が上位で、中小企業のサラリーマンよりずっと下、キャバレーの店長と同程度だそうである。キャバレーの店長は、しょっちゅう店を変わるから、信用度が低い。脚本家の社会的な信用度もその程度……。どんな自由業でも言える事だが、そうとう儲かっている作品に関わっていない限りは、社会的に、偉そうなことを言える職業ではないのである。
 切ない職業なのである。
 

■第19回へ続く

(05.09.28)

 
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