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第162回 ポケモン事件、関係者たちは……
いわゆるポケモン事件直後の脚本会議は、会議のメンバーが、憂鬱な顔を見せあうだけだった。
「この事態に関して、制作側やTV局の見解や対処を一貫したいので、マスコミ関係から取材があっても、個人的なコメントは一切言わないように」という、事件の翌日に電話があった内容の確認と、書きかけの脚本はとりあえずストップする……これも、脚本家の方たちにはすでに連絡がされていた。
だが、脚本ができ上がっていて、絵コンテ、作画など制作が途中のものもある。
アニメの脚本の決定稿ができてから、アニメ自体の作品の完成まで、3ヶ月から4ヶ月はかかるのである。
これらの作品は、すでに制作進行途中で、いろいろな人の手を煩わしているし、その人たちの生活、それなりの費用もかかっているから、いきなり中止するわけにもいかない。
そんな作品の処理は、アニメ制作担当のプロデューサーが、「僕らがなんとかするから、脚本サイドは気にしないでもいい……」と言ってくれたような気もするが、なんだかその会議では、みんなが起きてしまった事件に茫然としていたようで、僕の記憶としては定かではない。
ともかく『ポケモン』の放映中止は決定していた。
その脚本会議の時点では、当時作りかけの作品が完成したとしても、放映できないのである。
TV以外の他の方法で公開できるかどうかもまるで分からないが、それでも作りかけのものは一応完成させることになったようである。
いずれにしろ、事件は起こってしまった。
いまさら何を言ったところで、とりかえしがつかない。
事件の原因はまだはっきりしていないし、被害状況も正確には分からない。
脚本会議では、誰もこの事件について何も話したくない気分だったろう。
実際、事件についての発言はほとんどなかった。
だから、この頃『ポケモン』に関わっていた人たちが、それぞれどんな思いでいたかを、僕ははっきりは語れない。
直接その脚本を書いたライターは、事件が起こったずいぶんのちに、「運が悪かったね」とある人から慰められたらしいが、「そんな事言われたって、ちっとも慰めにならない。あの事件に触れられること自体が、僕にとってどんなに苦痛なのか分からないのだろうか?」――そう話す、いつもは温和そうに見える表情は、珍しく険しかった。
この先、アニメ版『ポケモン』がどうなるか分からないが、放送が中止なのだから、その後の脚本会議も中止である。
脚本執筆が再開できるかどうかもその時点では不明だ。
あの事件で重傷の患者がいたという報道はあったが、死者は出ていない。
しかし、事件から数日しか経っていない時点では、後遺症も含めて何が起こるか分からない。
みんなの口が重いのは当然である。
それでも、今後の不安も含めて、ぼやきとも愚痴ともつかぬ言葉は少しだけ漏れても仕方ないだろう。
それまでのアニメ版『ポケモン』は、視聴率も人気も上昇気運にあった。
そんな時、誰も「このままでいい」とは思わないものだ。
より一層の上昇を望む。
その方法の一つとして、『ポケモン』の場合、バトルシーンをより派手にして視聴者の関心を集めようというという上層部からの指示もあったようである。
「バトルシーンを事件を起こした作品より派手にしたら、今以上の被害が出て、とんでもないことになるところだった……」
このセリフは正確ではないが、これに似たようなセリフが、事件を起こした実制作に関わったスタッフを慰めるように、プロデューサーの口からポロリと出た。
アニメ版『ポケモン』の、アニメ実制作の責任者とみなされている総監督の落胆ぶりは気の毒を通り越していた。
彼がため息まじりにつぶやいた冗談とも思えないセリフを僕は忘れられない。
「業務上過失傷害罪で、逮捕されるのかなあ……」
僕は、即座に「それはない」と思ったが、口には出さなかった。
業務上過失傷害罪とは、その業務がやり方を間違えると危険であると本人が分かっていて間違いを起こす場合に成立する罪で、『ポケモン』のアニメが人体に危険だなどと総監督はもちろん誰も思っていなかったのだから業務上過失にはならない。
今まで『ポケモン』のアニメが人体に危険だとは誰も思わなかったから、被害者も告訴しないだろう。
仮に告訴されても裁判で負けるはずがない。
僕は、いろいろな脚本を書いてきたから、それぐらいの法律知識はある。
しかし、そんな事を僕がその場で口に出しても何の慰めにもならない。
かえって、「首藤はシリーズ構成だからそんなことを平気で言えるんだよ。脚本の文章を読んで倒れる人間はいないからな」と、思われかねない。
要するに、罪になるとかならないとかではなく、自分が総監督であるアニメ版『ポケモン』を見た人が倒れたことがショックなのだ。
それは僕も同じである。
アニメの土台になる脚本の責任者は僕なのである。
『ポケモン』のアニメに関わった人なら、大なり小なり、だれでもそんな気持ちになっていただろう。
全体が陰鬱な気分で脚本会議は終わり、別れ際に僕は総監督に言った。
「しょうがないよ」
総監督は黙っていた。
僕は、総監督を励ますつもりで(もちろん、僕自身を慰める気持ちもあって)思わず口に出したのだが、総監督がどう受け取ったかは分からない。
今の僕は、その時は何も言わず黙っていればよかった……と悔やんでいる。
その後、しばらくの間、当然だが脚本会議はなかった。
マスコミは、一部を除いて、アニメの『ポケモン』を見ていた人が倒れたという事実だけで、『ポケモン』を非難する側に回った。
アニメを見たこともない、ゲームをしたこともない人も、『ポケモン』の名前だけで、なんだかんだと『ポケモン』を批判した。
いわゆる『ポケモン』バッシングである。
以下に書くことは僕が伝聞した事とマスコミで報道されたことをもとにしている。
本当の事実とは、ニュアンスが違うかもしれない。
しかし、この事件は『ポケモン』に関わった人の立ち位置から、ニュアンスがそれぞれ違って見えるだろう。
これから先は僕から見たあの事件だということを前もってお断りしておく。
『ポケモン』バッシングは、かなり無責任で、根拠のはっきりしないものが多かった気がする。
『ポケモン』の名前がつくものは、ほとんど悪く言われた。
本当に聞こえてこなければいけないのは、直接の被害者の声のはずなのに、それはほとんど聞こえてこないで、「ポケモン事件」より、『ポケモン』ブームに対する批判がやたら聞こえた。
『ポケモン』を放送したTV局は、マスコミへの謝罪と事件の原因究明に大わらわだった。
もちろん、被害者への見舞いはきちんとしたという。
『ポケモン』のゲームを制作したゲーム会社も大慌てだったろう。
ゲーム制作側としては、恐れていたことが突然、起こったのである。
少なくとも1年半以上続き、さらに続いていく可能性が充分あったアニメ版『ポケモン』が、こんな不測の事態で中止になったとなれば、ゲームもただではすまない。
ただちに「ゲームとアニメの『ポケモン』は違う表現形態です。アニメの事件はゲームとは関係ありません」というようなメッセージを用意した。
だが、そんな事をしても、アニメのマイナスイメージをゲームがもろにかぶることは、だれの目にも明らかである。
もともと、ゲームの「ポケモン」のアニメ化を、ゲーム制作の担当者すべてが納得していたわけではないと思う。
アニメがヒットしなかった場合、その巻き添えを食ってゲームの人気が足を引っ張られ、ゲームの出来の本来の実力を発揮できず、ゲーム人気の寿命が短くなることもある。
アニメ化が不人気で、ゲームの売れ行きが鈍った前例はそれまでもいくつもあったのである。
これは、ゲームに限らず、コミックにも言える事で、連載がすでに終わったコミックならともかく、人気があり連載中のコミックの場合、アニメの出来次第で、コミックの人気が落ち連載が終わってしまう場合もある。
だから、人気コミックがアニメ化される時、コミックを連載している雑誌の編集部は、とても神経質になる。
上手くいけば、アニメもコミックも人気が出て、お互いめでたしめでたしだが、下手をすれば、アニメにコミック人気が足をすくわれる時もある。
原作ファンからクレームがつくことも多い。
見慣れたキャラクターに声がつき動きがつくから、ファンの持っていたイメージが壊されるのである。
まして、脚本でストーリーを変えたりすると、必ずファンの反発がくる。
人気コミックのアニメ化は、アニメ側はコミックの人気が頼りなのだが、原作側にとってはなにやかにやとかなりリスクが大きいのだ。
これが、コミックの実写ドラマ化や実写映画化だとコミックのキャラクターを生身の人間が演じるのだから、多少、ストーリーやイメージが変わっても、視聴者や観客もその違いを分かっているので、原作のファンもその気で見るから、コミックの人気が落ちるリスクは小さい。
むしろ、実写を見て原作のコミックを読んでみたいと思う人も出てくる。
コミックがどう実写化されるか、面白がるファンもいる。
絵のコミック世界と生身の実写世界は違って当たり前だからである。
で、最近、変な動きがある。
コミックが実写化されて、じゅうぶんコミックも実写もヒットしてからアニメ化される。
おおむね、アニメ版は原作コミックのファンから評判が悪いが、その中間に実写化作品があるから、それがコミックとアニメの間の緩衝材になっているのかもしれない。
原作側も、実写化で目いっぱい原作コミックの名前も本も売っているから、アニメで多少イメージダウンしても大丈夫、という気になっているのだろう。
ゲームもコミックと似たようなものである。
だが、『ポケモン』の場合、実写化は無理である。
生身のポケモンなど、どこにもいないのだから……。
ゲームにエピソードやストーリーをつけてTVで放送するには、アニメしかない。
しかし、そのアニメ化が失敗したら、肝心のゲームが足を引っ張られる。
『ポケモン』のアニメ化に、ゲーム側が疑問と不安を持っても当然かもしれない。
だからこそ、アニメ化をもくろんだ『ポケモン』アニメの上層部のプロデューサーの方たちは、ゲームを作っている本社のある京都まで行ってアニメ化を成功させる熱意と誠意を見せ、アニメ化を決めた。
『ポケモン』のアニメ化は、順調にスタートした。
しかし、ゲームを実制作した人たちの間には、まだどこかに不安が残っていたはずである。
だが、その不安も杞憂になりかけていた。
ゲームの売り上げも、以前より好調になっている。
キャラクターグッズの売り上げもいい。
主題歌もイメージソングもヒットしている。
ロケット団など、ゲームではさほど重要視されていないキャラクターにまで人気が出だした。
『ポケモン』のアニメ化は上手くいった……そう思いかけていただろう。
そこに、「ポケモン事件」が起こったのである。
よい子のはずだった『ポケモン』が、ゲームもキャラクターグッズも含めて、あの日の放映の一夜過ぎれば悪い子である。
その日の放映ではロケット団のイメージソング(作詞は僕だった)のCMと、小林幸子さんのエンドタイトルの歌が流れたが、それ1回きりで中止になってしまった。
それでも、ロケット団の歌は、僕の作詞した歌の中で、桁違いと言っていいほどヒットした。
今後も、あんなヒットは少なくとも僕にはないだろう。
音楽関係を仕切っていたプロデューサーの方が言っていた。
「あの事件がなかったら、ロケット団の歌も小林幸子さんの歌も今の倍の数はヒットしたはずだ」
そんなヒット、僕には想像もつかない数だ。
「あの事件がなかったら……だったはず」
そんなぼやきが、当時はいろいろなところから耳に入ってきた。
当時の『ポケモン』は、それだけ上り調子で、さまざまな分野で『ポケモン』に関わる人も増えていて、その分、事件直後の落ち込みが、さまざまな人それぞれに激しかったようだ。
しかし、「あの事件がなかったら……」と言っても、実際に起きてしまったのである。
その後、アニメが再開してからの『ポケモン』のヒットで、「あの事件がなかったら……」のぼやきは、ほとんど聞かれなくなった。
1年半後、被害者が運び込まれた病院に僕自身が入院するまで、僕の中からもあの事件は消えかかっていた。
今、この文章を書いていて、あの事件から10年以上たち、あらためて気になるのは『ポケモン』を作る側のことより、あの事件の被害にあった方たちがどうしているかである。
その声は聞こえてこない。
当時の「あの事件がなかったら……」のぼやきは、「あの話数はなかったことにしてください」になり、「あの事件はなかった」になりかかっている気がする。
僕も思い出したくはないが、ここまで書いてくると、思い出さざるを得ない。
ただし、何度も繰り返すが、それは、アニメ版『ポケモン』を作る事に関わった側の、それも僕に見えた聞こえたものでしかない。
おそらく、アニメ版『ポケモン』の制作に関わった人の中で、気持ちではなく立ち位置として、あの事件で一番窮地に立ったのは、『ポケモン』のアニメ化の仕掛け人……だれかが御前様とあだ名をつけた大プロデューサーだったと思う。
今回のコラムの最初にも書いてある「この事態に関して、制作側やTV局の見解や対処を一貫したいので、マスコミ関係から取材があっても、個人的なコメントは一切言わないように」という連絡の、「一貫した見解や対処」を決めなければならない位置にいる人の1人は、この人だったはずだからである。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
先日、渋谷の大きな本屋をうろついていた。
前回、このコラムで、虚構と現実のあいまいな世界観を描くことに固執して、人間がどこにいるのか分からず戦闘シーンだけ見せ場になっているアニメ、と僕が書いた作品を監督した人の本を見つけた。
この監督とは大昔、ある作品で関わったことがあり――僕にとっては制作会社から依頼されたアニメ脚本を書きかけて、つぶれた最初の作品だからよく覚えている――、その監督の本には、僕の名前は出ていないが、当時のことが書いてあり、なつかしかった。
この監督、脚本がプロットの段階で、突然プロデューサーに「このプロットでやるなら、僕は監督を降りる」と言いだした。
どこが悪いのか、会って聞く時間もなかった。
その時点で封切り日が決まっていたアニメ映画で、制作会社としては監督に降りられては、封切りに間に合わない状況だった。
で、僕が降りることになり、その作品は監督のプロットで、脚本なしの絵コンテだけで作られたらしい。
しかし、僕のプロットで、原作者、その原作を載せている出版社、アニメ制作会社から脚本のGOサインが出ていたので、プロデューサーは僕に申し訳ないと思ったのか、レポート用紙数枚のプロットで、まだ書いていない脚本1本分のギャラを払ってくれた。
枚数というか字数で計算すると、僕にとっては最も高い原稿料で、その記録はいまだに破られていない。
その監督の作ったアニメ作品は、僕のプロットに似ていると言えないこともないが、違うといえばかなり違う――そりゃ、そうである。僕のプロットでGOサインが出ているのだから、あんまりかけ離れたプロットは通らない――、何が違うって虚構と現実のあいまいな世界がメインテーマで、そのあいまいさから抜け出ないで作品を終わらすという、僕が絶対書かない作品だった。
そのテーマがあまりに露骨なので、僕は笑っちゃったのだが、原作者とプロデューサーはびっくり仰天したようだ。
そんな原作者やプロデューサーの反応を予知していて、監督としては、命がけ、崖っぷち気分で、自分のやりたい作品を作ったらしい。
そこまで思いつめていたなら、なにも他人の原作でやらなきゃいいのにと僕は思うのだが、その監督は僕とは考え方が違うらしい。
その後、その監督とはお付き合いがないが、僕としては気になるから、その監督の作品はほとんど見ているのだが、この人は何を作っても変わらないのだ。
いつも、虚構と現実をうろうろがテーマのようである。
けれど、僕が思うにその監督のベスト作品は、その崖っぷち気分で作った若いころのアニメ映画である。
初期の作品――本人としては自分が思い通りに作った1作目の映画のつもりらしい――から変わらないというのは、ある意味凄いことである。
しかし、今いる世界が虚構か現実かをうろうろ考えてしまうのは、若い時には魅力的なテーマだが、いいおじさんからおじいさんになって、それがわけわからないとしたら、ボケていると思われかねない。
有名な「胡蝶の夢」は老荘思想の入り口であって、そんな世界をどう生きるかを示さないとタオ(道教)には行きつかないと思うのだけれど……。
もっとも、タオなんか関係ないよと言われれば、ごめんなさいと言うしかない。
ともかく、こういう人が監督として存在しているし、いまのところ、「お魚の女の子」の監督と違って、自己表現のために他人の原作や脚本を必要としているようだから、そんな監督との付き合いも、脚本家としては知っておいて損はないと思う。
だから、ちょっと当時のことを次回にでも書いてみようと思う。
で、僕が本屋が見つけた本だが、虚構と現実の境目のうろうろにこだわるそのおじさん監督が、なんと今の若い人に生き方のようなものを説教しているのである。
かなり面白い。比較するのも変だけれど、『スカイ・クロラ』より僕には楽しめた。
本の題名は「凡人として生きるということ」(幻冬舎新書)、800円ぐらい。
結構売れている本のようです。
本のPRしているのだから、ここに僕が何を書いても怒らないでください。
つづく
■第163回へ続く
(08.11.05)
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