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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第171回 『ポケモン』ミュウツーは世界に通用するか?

 『ポケモン』の「ここはどこ? 自分は何?」、加えれば「自分はなぜ生まれてきたのか」への自分自身への問いかけは、本人が意識的であろうと無意識的であろうと、若いころは誰もが心の中に持っている自問自答だと、少なくとも僕は僕だけの独断と偏見だとしても考え続けていたようだ。
 ようするに「自己存在」への疑問である。
 子どもというものは勝手なもので、僕などはいわゆる中流家庭の長男として生まれたが、今の歳になると、普通の家庭の子供として裕福という意味ではないが、尋常ではない母子愛、父子愛で育てられた事がよく分かったのだが、子供のころはそれが当たり前だと思っていた。
 こんなおじさんになって、それを気がつくのはとても、恥ずかしいが、なにせ僕の子供が40代の時に初めてできたので、子供に対する親の気持ちが、理屈でなくてやっと感性で分かってきたのである。
 僕に対して両親が「自己存在」へ疑問を持つような子に育てたくないと思ったかどうかは知らない。
 しかし、「世界に生まれたたった1人のかけがいのない存在が僕であり、代理になるような他の人間はいない」という育て方はしてくれていたようだ。
 それは、他の僕の妹達にも同じである。
 父は官僚だった。普通の官僚の常識とは変わった事をやって、官僚なのによくやるよと僕も感心する事をするひとだった。
 その息子の僕は、大学もでていない、へんてこな物書きである。父は僕を有名国立大学に入れたかったようだが、なりゆきで、逆らう形になってしまった。
 妹は、現代工芸で、日展の常連……世界的に見たら僕よりずーっと知られているかもしれない。老齢の両親の心配もよくしてくれている。
 次女は、平凡かと思えば、父の意に反して高校時代の恋人と結婚し、夫の勤め先の広島でなにげに子供を連れて歩いていたら、スカウトされて、なんとTVのニュースキャスターに。しばらくして阪神大震災のど真ん中芦屋でボランティアで活躍。2人の子供は学費のかからない有名国立大学を出て、両親を心配する、いまのところ僕の家族の優等生である。
 兄弟の中で、出来の悪いのは、明らかに僕である。
 いずれにしろ、親の希望した子供にはだれもならなかったけれど、「代理になるような他の人物はいない」には今のところなっているようである。
 だから、それが他の家庭も同じだと思っていたから、小中学生の頃、周りにいる子供たちのみんなが「世界に生まれたたった1人のかけがいのない人間だ」と、僕は思っていたようである。
 僕の育った時代もあった。
 戦後第1次ベービーブーム(団塊の世代なんて言い方もある)の最後で、いたるところ子供ばかり、僕の中学校の学年などひとクラス50人で10クラスもあったのである。
 余談だが、今、僕の通っていた渋谷の中学校は、1学年で10数人……一時は10人を切った事もあったそうである。
 みんな平等になどという聞こえはいいがバカな教育改革に重なって、少子化もあり、裕福な家の子は、私立進学有名校に行くようになったからだと言うが、僕らの時代は、子供が公立に行くのが当たり前の時代で、金持ちが大学受験の勉強を楽する私立に行く子は、バカで親の力を頼るいささか軽蔑する対象だった。
 大学は国立であり、早稲田・慶応は一部の学部を除いてアホのいく私大だったのである。
 日大なんて、当時は問題外だった。
 僕らの時代では、公立の日比谷高校は誰もが挑戦したい夢の高校だった。それが、今、東大合格者がわずか1桁から2桁になった事を喜んでいる。
 僕らの世代から言わせてもらえれば唖然である。日比谷高校が東大合格が3桁を切るなど聞いた事もなかった。
 もともと、子供がわんさかいる時代であるから、大学に行く事すら眼中にない人も多かった。
 つまり、大学に行く子もいれば、家業を継ぐ子もいる、本物の拳銃を持っているヤクザ候補生もいる。色々な子供がいたから、それぞれが「世界に生まれたたった1人のかけがいのない人間」だったのだと僕は思うのだ。
 それが、みんなそこそこ裕福に暮らせる時代になった。
 つい、数年前だが……。
 で、かけがいのない人の1人のレベルが、有名大学には入る事が価値観になり、それには金銭なりいろいろな格差が、かけがいのない1人1人の価値観のレベルに影響して、それぞれの持つ独自のレベルをそろって落とす結果になっているのである。
 そして「まあいいかみんなと一緒なら」になってしまう。
 かつては、世界でも優秀だった日本の学力は、世界水準からして見る影もない。
 学力の低下は、他の分野にも影響してくる。
 学力とアニメをつなぐのは無理だと思う人が多いだろう。
 世界の経済状況から見れば、日本は虚像にすぎないにしても金持ちの国になった。アニメも、それにともなって貧乏映像の代名詞だったような表現技術も上がった。
 そのわりには、アニメ実制作者のギャラが上がらない不思議な国ではあるが……。
 だが、表現技術はあがっても、アニメ作品全体のレベルはどうなのだろうか?
 「1人1人がかけがいのない人間」のはずが、「みんなと一緒ならいいや」になっていないだろうか。「みんなが見るから僕も見よう」になっていないだろうか。
 アニメ関係の仕事に就きたい人も多くなった。僕の子供の頃は、アニメ(手塚アニメもなく東映動画ぐらいしかなかった)どころか、映画や小説に関わる仕事になりたいなどと言うと、「食えもしない仕事を志すなんておかしいんじゃないの」と変人扱いされた。
 今や、映画学校はいっぱい、アニメ関係志望者は石を投げると当たるぐらいいる。
 そのかわり、若いのにろくに仕事もしないニートやフリーターもいっぱいである。
 アニメも映画もTVも水商売である。世の中不景気になったらアウトである。
 ちなみに、脚本家の銀行における信用度は、キャバレーの店長の次であるという。キャバレーの店長は、すぐ転職するからあてにならない。脚本家の社会的信用度はそんなものである。ついでだが、信用度の高いのは、公務員や医者や弁護士だそうだ。
 僕が、そんな信用度0に近い仕事を、お気楽についたいきさつは、僕らの世代のごく限られた問題だった70年安保の話も含めて、このコラムの『ポケモン』関係の話が終わったら、「首藤剛志というどうでもいい脚本家の作り方」という話でもしてみようと思うが――所詮、首藤剛志なんてどうでもいいよという人には無駄で余計な話だが、普通の脚本家を目指したい方とは、ちょっとは参考になるかもと思っている。あとで考えたら、結構、無茶な苦労をしているのだ。ただ、その時は、本人が気がついていないだけだった。
 さて、『ミュウツーの逆襲』は、この世で「自己存在」を見つけられないで迷い続ける人間(?)の話である。
 自分はこの世に存在していいのか、存在する価値があるのか、が彼の最大の問題である。
 最初、彼に存在理由があるとしたら、その強大な能力をロケット団のために使う事だった。
 ロケット団(その首領のサカキ)にその力を求められたからである。
 しかし、ロケット団(サカキ)に求められても、それは「自己存在」の理由にはならなかった。
 他者に求められる「存在」は、自分の存在の理由にはならなかった。
 ミュウツーは自分が存在する事を、自分が認識したかったのだ。
 自分が存在する事に納得する事は、自分を愛する事になる。
 相手にとって他にかけがいのない存在だから、自分を愛せるのである。
 しかし、ロケット団(サカキ)にとってのミュウツーは、かけがいのない存在ではなく目的のための道具でしかなかった。
 自分を道具としてしか見ないロケット団(サカキ)は、ミュウツーにとって愛せる存在ではない。
 他者を愛する事は、他者を愛する事のできる自分を愛せるという事なのだと僕は思う。
 たとえば、失恋自殺などというものがあるが、それは、相手に失恋した事が理由ではなく、相手に拒まれる事によって、相手を愛する事のできなくなった自分を愛せなくなったからである。
 失恋自殺などと言うのは、「人を愛するという自己存在」を喪失してしまったからだと僕は思うのだ。
 自分に存在する意味がないと思えば答えは簡単である。
 死ねばいいのだ。
 だが、ミュウツーは存在している。彼は自己の存在を否定できなかった。彼は、自分が存在していいのかいけないのか分からなかった。
 つまり「自分とか何か?」である。
 『ミュウツーの逆襲』の、いくつかあるテーマの最大のひとつがこれだった。
 「自分とは何か?」を考える限り、人は自殺しない。
 おそらく、納得できない理不尽な戦いにも参加しないだろう。
 「自分が何か」が分からずに、自分の立場が分からずに、わけのわからない戦いに巻き添えを食うのは嫌なはずである。
 「自分とは何か」の答えを見つけるまで、その人は、事故や病気、不可避な事件に巻き込まれないかぎり、頭がぼけるまで生き続けるだろう。
 なぜなら「自分とは何か」の答えがおそらく見つからないからだ。人は、一生そのテーマを、意識的にも無意識的にも考え続けるだろうからだ。
 『ミュウツーの逆襲』を世界中ででき上がったそのままの形で公開すると言われたから、世界に通用するテーマを考えだそうとした事は確かである。
 しかし、この主題が世界中に通用すると僕が思っていたかというと、ウソである。
 世界中に様々な宗教があり、いろいろな神様がいる。
 「自分とは何か?」という疑問が起こったとしても、「神様がお決めになっている」という宗教圏では、そもそも「自分とは何か」という問いすら口に出てこないだろう。
 僕は、イスラム教、ヒンズー教、その他世界の3分の2を占める宗教について無知だ。
 キリスト教だってろくに知りはしない。
 仏教だって、司馬遼太郎氏の『空海の風景』を(お遍路さんの参考として)最近読んで、目から鱗である。でも、司馬氏の考えが入っているから何とも言えない。
 『ローマ人の物語』という塩屋七生氏の大作も、シーザー(カエサル)とブルータス(カエサル暗殺者)への評価が、僕とはずいぶん違う。
 つまり、『ミュウツーの逆襲』のテーマがどれだけ世界に通用したかは、僕には見当もつかない。
 でも、ルネサンスの起こった欧米なら、少しはご理解いただけるかなと「自分とは何か?」を基調にしたアニメ脚本を書いた。
 日本のアニメ映画など、欧米でしか上映されないと思っていた気持ちもある。
 断っておくが、イスラム圏、ヒンズー圏にも日本人が見て素晴らしい映画がある。
 日本で上映されていないだけである。
 話が古いが、サタジット・レイ監督(インド)の諸作品は素晴らしい。
 日本の映画賞でも、のきなみベストワンになった作品がある。
 いきなり、インドからそんな傑作が生まれるはずはない。
 その作品を生み出す土壌がすでにインドにはあったのである。
 つまり、宗教、民族を超えて世界中で通用する映画は存在するのである。
 『ポケモン』の映画が、日本アニメだからといって、世界に通用しないはずはないのだ。
 『ポケモン』は芸術映画ではない。あくまで、儲け狙いの商業映画である。
 しかし、日本だけでなく、外国にも通用させたいアニメである。
 やれる事は、やっちまえと思った。
 ジブリのアニメは評価は高いが、世界的に大ヒットはしていない。
 実写のヒットは『SHALL WE DANCE』、これもいい映画だ。
 『ミュウツーの逆襲』はそんな日本映画とはタイプの違うものにしようとした。
 ミュウツーはそんな自分を生み出した人間を憎む事で、自分の自己存在を認めようとした。
 「自己存在」に悩み続ける自分を生み出した「人間」を憎む事で、自己存在を証明しようとしたのである。
 ここまでのミュウツーは原爆から生まれた「ゴジラ」に似ているかもしれない、
 「ゴジラ」よりは、すこし悩みが知的かもしれないが……。
 しかし、ミュウツーの存在には、もう一つの要素があった。
 ミュウツーは、ミュウというポケモンの遺伝子から生まれたコピーなのである。
 『ミュウツーの逆襲』には、「自分とは何か?」以外のテーマがある。
 コピーが、本物をやっつける話である。
 日本は欧米のコピーを安く売って儲けている、という非難があった。
 20世紀終わりまで、日本はそう呼ばれても仕方なかったかもしれない。
 しかし、コピーが本物より強かったら、あんたどうする?
 ミュウツーは、けして世界最強のポケモンになろうとしたわけではない。
 ミュウツーは、世界を制覇する野望などもっていない。
 コピーが本物より強い、それが彼の「自己存在」の証明になると思っただけである。
 しかし、物語は彼の思いどおりにはならなかった。
 もう一つのテーマが、ミュウツーの思いをひっくり返すからだ。
 それが、『ポケモン』の制作に関わらなかった人達が、『ポケモン』ってアニメはこんな事までできるの、とあきれられた要素だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 アニメスタイルを読んで、とても面白いと思うのは、脚本、演出関係以外の作画などの方のコラムが読める事です。
 特に、アニメ様のインタビューなど、僕の知らないアニメ制作部門(作画関係)の方達の話も、インタビューの上手さもあるのでしょうが、とても興味深く読ませていただいています。
 これで、録音、声優関係の方達のインタビューが加われば、アニメ制作の全貌が分かる歴史的資料として貴重なものになると思います。
 で、そんな記事の中に、僕が脚本家の卵の頃お付き合いいただいた、実写の監督の関連記事が出てきました。
 浦さんこと浦山監督とか恩地さんとか、もともと実写の監督でアニメの監督をした方達です。
 彼らの評価は、アニメに対して散々でした。もちろんインタビューでは、柔らかい表現でしたが、私的に酒など飲みだしアニメに対して語りだすと、批判の山、ともかくアニメは映画としてなっとらん……です。
 僕の最初に映像化された脚本が「大江戸捜査網」、アニメの脚本を書きだしても、つきあったアニメ制作会社の社長が、アニメの演出を信用せず、監督には実写の人を使っていました。
 僕は、日本の実写映画の限界(カメラ目線、役者の芝居)を感じていましたので、映像などいい加減でもアニメの方が実写よりましと思い、アニメの脚本を書くようになりなしたが、脚本家の仲間には、アニメなんて屑だと言って、アニメ脚本を書くのを恥と思っているような人もいました。
 それが今は、実写映画やドラマまで、脚本がアニメ脚本風になっています。
 正直言ってずさんです。
 どうして、こんな事になったのか考えてみる余地はありそうです。

   つづく
 


■第172回へ続く

(09.01.14)

 
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