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第172回 コピーとオリジナルの「自分とは何?」
『ミュウツーの逆襲』において、「自分とは何か」に迷い続けるミュウツーにとって、最も大きな問題は、自分が幻のポケモンと呼ばれるミュウの遺伝子から作られたコピーだという事実である。
ミュウツーは「ポケモン」のゲーム上では、遺伝子ポケモンとして、分類されている。
ゲームのクリエーターが、どういうつもりでミュウツーを遺伝子ポケモンという名称で分類したのかは分からない。
ゲーム内で最強のポケモンとして設定されているのだが、それがなぜ、当時話題になっていた遺伝子問題と関わりがあるのか明らかな答えはない。
「ポケモン」のゲームの中にはミュウはいないことになっている。
ゲームの開発当初、ミュウというポケモンが存在し、デザインもされてゲームにプログラミングされていたらしいのだが、何らかの理由で没になった。
僕の推測にすぎないが、最強のポケモンとしては、ミュウのデザインは、かわいらしさはあるが、とても強そうには見えない。
だから、ミュウの代わりに、いかにも強そうな別のポケモンがデザインされて、ゲームに登場することになった……ということだろう。くどいが、これは僕の推察にすぎない。
少なくとも、ゲームのクリエーターからの説明は、それ以上の詳しいものではなかった。
しかし、一応、ミュウという名のポケモンができていた以上、同じ名前にするのは気になるので、ミュウツーという名前にした。
ところが、没にして消したつもりのミュウがゲームのプログラミングのバグ(製造上の間違い)として残り、修正しきれずゲームのプレーヤーの操作のやり方次第で、何かの拍子にゲームに姿を現すこともあるという。
しかし、バグによって登場するポケモンで、修正して消したつもりのポケモンだから、普通は現れない。
けれど、それがかえってゲームのファンの間で評判になり、ミュウは文字どおり「幻のポケモン」になった。
本来、ゲームにとってバグは欠陥のはずである。
クリエーターとしては、見つかってほしくないもののはずである。
ところが「ポケモン」の場合、皮肉なことだが、噂になった幻のミュウ(つまりバグで発生したポケモン)を見つけたいファンが、大勢増えてくる結果になった。
しかし、本来、いないはずのポケモンである。
完成したゲームに新たに加えるわけにもいかない。
そこで、「幻のポケモン」というミュウの位置づけはそのままにして、ミュウツーをミュウの遺伝子で作られたポケモンという事にした。
ミュウの遺伝子から生まれたポケモンがミュウツーなら、当然、姿かたちが似ているはずだが、「ポケモン」のミュウとミュウツーの姿は、ほとんど似ていない。
つまり、遺伝子によるミュウとミュウツーの関係は、ゲームクリエーター側の苦しい言い訳に聞こえるのだが、『ポケモン』のアニメ版の制作サイドの僕としては、ゲームクリエーター側の説明は、ちょっと納得がいかないところもある。
そもそも、バグはプログラミングの欠陥のはずである。
徹底して排除されるべきものである。
それが、残ってしまい、ゲームの欠陥にならずに、かえってゲームの人気を上げる結果になった。
で、僕はふと思うのである。
本当にミュウは、バグだったのだろうか?
意識的にバグという事にして、実はゲームの人気を上げる隠し玉として、もとから設定されていたものだったのではないか?
もっとも、ゲームの製作工程を知らない僕は、ゲームのクリエーターに「ミュウはゲームのバグなんです……」と言われれば、「ああ、そうですか」と頷くよりない。
それに、映画制作の参考用に見せられたゲーム用のシナリオ――これは普通の脚本とは違うものである。ストーリーを追うというより、様々な状況で、色々なゲームプレーヤーのゲームのやり方へのそれぞれの対応を想定して書かれているから、ものすごい分量の脚本になる――には、確かにミュウは登場していなかった。
ゲーム上でミュウツーがミュウとどんな関係にあるかは、「ミュウがミュウツーを生んだ」程度のセリフがある程度で、はっきりとはしていない。いささか、後づけっぽい説明である。
ミュウツーの遺伝子ポケモンという分類のされ方も、なんとなくとってつけたような気もする。
確かに、当時の科学の最大の話題は、遺伝子の解明と遺伝子操作であった。
『ポケモン』の10年ほど前に、『まんがはじめて物語』シリーズで、遺伝子操作をテーマにした回があったが、その脚本を書いたのは僕である。
その時、遺伝子と遺伝子操作の可能性について、それに関わる文献を読み、専門の学者たちの話を聞き、かなり徹底して調べたから、たぶん今でも、その分野について日本の脚本家の中で一番詳しいのは僕かもしれない。
子供向けに遺伝子と遺伝子操作について語るのに一番興味を引くだろうテーマは、遺伝子操作の可能性である。
遺伝子操作による農作物、食用生物の改良によって、飢餓世界をを救う事ができるかもしれない……などなど、子供ばかりか大人の好奇心を引くテーマが遺伝子操作には様々に内包されているが、なにより気になるのは、遺伝子操作によって自分のコピー人間ができるだろうか? である。
自分のコピー人間ができれば、コピーに学校に行って勉強してもらい、自分はその間遊んでいられる。
自分のそっくりさんが、自分のやるべきことを代行をしてくれる話は、SF小説でも、コメディでもマンガでもよく扱われるテーマである。
その多くは、面白おかしく楽しく、そして真実が分かった時のあわてぶりが滑稽に、または皮肉っぽく描かれる場合が多い。
昔は、自分のコピーがいることのイメージで遊べることができた。
しかし、遺伝子操作の成功例やより高度の可能性が高まるにつれ、子供たちにとって、自分のコピーはイメージの遊びではすまなくなった。
自分と同じクローン人間が生み出される未来が見えだしてきたのだ。
似ているといっても、双子や三つ子ではない。
彼らは、彼女たちは、たまたま、同じ両親の間で同時に生まれただけで、親が同じだから似てはいるだろうが、互いのコピーではない。
人間は、ひとりひとり別々のはずである。世界に誰ひとり同じ人間はいない。
それがその人の存在価値である、
そんな人間は、自分のコピーを許容できるだろうか?
映画『ミュウツーの逆襲』が作られた頃、世界初のクローン羊が生まれた。確か「ドリー」とかいう名前だった。
遺伝子操作による自分のコピーが存在する未来は、どんどん近づいている。
明らかに、人間、特に子供たちの潜在意識の中にある自分のコピーへの感覚は、お気楽なものから、得体のしれない不気味なものに変わってきた。
クローンに対する恐怖、クローンが悪役になる描き方の小説やマンガが増えてきた。
簡単にいってしまえば、それまでは、自分のやりたくないことを、代役のコピー(クローン)にやってもらえると思っていたものが、自分のコピーが、自分の代わりになって、自分の恋人を奪ってしまうかもしれないのだ。
これは困る。
そこで、コピーと自分との違いは何かが大切になる……オリジナル自体がコピーとは違う「自分とは何か」「自己存在」を自分に問わざるをえなくなる。
「自分とは何か?」と、ミュウの遺伝子から作られたミュウツーは「自己存在」に悩む。
そのテーマは、人間にとって不変だと思うが、ミュウツーの「自分とは何か?」は観る者からは分かりやすい。
「自分とは何か?」を考えるきっかけが「自分が望みもしないのに作られ、それが他の生物のコピーである」からだ。
ミュウツーの悩みは、描きやすい。
たとえば、「フランケンシュタイン」という人造人間を作りだした人間と、その怪物を描いたシェリーの原作は、恐怖小説ではない。怪物はインテリであり、人間に作られた「自分の自己存在の意味」を問い続ける。
余談だが、怪物を作りだしてしまった「フランケンシュタイン博士」の心情も描かれている作品である。
生命を作り出すのは神の所業だったはずなのに、それをやってしまった人間と、作られた人間の「自己存在」の葛藤を描いた小説である。
そして、結局、メインテーマは「自分とは何か?」である。
コピー側の気持ちは分かりやすい。
またまた余談だが、人を褒める時に、ボーイフレンドやガールフレンドに「あなた、タレントの誰に似ている、アイドルの誰に似ている」というのがある。
言う方は、好感をこめて言っているつもりだろうが、言われた方はうれしいのだろうか?
そう言われて喜ぶ人も多いかもしれないが、「冗談じゃない。私は、どこのタレントでもアイドルでもない。私は私よ」と、反発心を持つのではないだろうか?
自分が誰かに似ているとか、誰かのコピーとか言われるのは、うれしいことではないと僕は思う。
いささか極論で、言われるはずもないが、「アインシュタインのように天才だね」と誰かに言われても、僕はうれしくはない。
「僕はアインシュタインじゃない。首藤剛志だ」である。
で、「じゃあ首藤剛志って、何なんだ?」などと言われたら、「僕ってなんだろう」と考え込んでしまうだろう。
さらに「あの人って首藤剛志みたい」と言われたら、「あいつは俺じゃない」と言うだろう。
つまり、コピーは自分がコピーであるがゆえに「自分とは何か?」と悩み、オリジナルはコピーがいればいるほど、やはり「自分とは何か?」を考えてしまう。
だが、「自分とは何か?」を考える時、コピーよりいささか屈折しているのは、オリジナルの方だろう。
オリジナルは本物である。コピーは偽物である。本物が偽物に負けるわけにはいかないのである。
つまり、「コピーに負けない自分を持った自分は何か?」である。
その点、コピーの「自己存在」の確認は、とりあえずの目的がある。
オリジナルに勝つこと。本物以上に本物になった時、少なくとも自己存在を自認できるのだ。
コピーであるミュウツーにとって、本物に勝つことが自己存在の証だった。
ここには、抜けがたい本物へのコンプレックスがある。
自分が人間の都合で生まれてきた道具だからだ。
そして、本物のポケモン自体も、人間にゲットされれば、ポケモンバトルに使われる道具である。
コピーが人間の道具になり下がったオリジナルに勝てば、仮に自らがコピーであろうと本物以上の存在である。
前回も書いたが、ミュウツーは世界を制覇したいなどという野望はない。
最強のポケモンマスターになる気もない。
本物より優秀なコピー……それは本物でもないコピーでもない別の存在になる。
そんな存在になることは、「自分とは何か?」の答えをつかむ手がかりになるとミュウツーは思った。
だが、とりあえずミュウツーは、コピーが本物に勝ることを証明しなければならない。
コピーが本物に勝つ……それは、世の中をひっくり返す一種の革命である。
だが、肝心のミュウツーのオリジナル、ミュウはどこにいるか分からない。
しかし、他のポケモンのコピーが本物を蹂躙すれば、そしてそのコピーポケモンを率いるのがミュウのコピーのミュウツーだとしたら、この世にもしミュウがいれば、自分のコピーのミュウツーの仕業を放置できず出てくるはずである。
ミュウツーは、優秀なポケモントレーナーを招待し、彼らの持つポケモンと彼らの持つポケモンのコピーでバトルを催す。
しかし、コピーの優秀さを示したいために、ミュウツーは、自分にとって矛盾した事をしていることに気がつかなかった。
もともと、彼の「自分とは何か?」の疑問は、自分がミュウのコピーだったことから始まっている。
そのミュウツーが、コピー製造機で、他のポケモンのコピーを次々に生み出してしまう。
種類こそちがえ自分と同じ境遇のコピーポケモンを、作ってしまったのだ。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
昔、実写映画を撮っていた監督がアニメの総監督をしたことがたまにありました。
僕に脚本を教えてくださった先輩の方々もいました。
もっとも、脚本を教えてもらったというより、酒の飲み方(ただし酒乱系)と、普通じゃない人生観を聞かされただけのような気もします。
で、ほとんどの方が――アニメはダメだ、映画にならない。
酔った勢いもあるでしょうが、かなりひどい悪口の連発です。
それぞれの方が自作のことを語っているのですから、本来なら悪口を言われると怒るはずが、自分で自分の作った作品の悪口を言うのですから、尋常じゃありません。
アニメといっても、動きやイメージを見せるアニメやギャグアニメなど様々ですが、実写映画畑の方が総監督をするのですから、基本、ストーリーのある長編アニメ。
つまり、僕らが日常、TVや映画館で見ているアニメです。
実写とアニメは違います。さらに言えば劇映画とTVドラマも違います。
だから、アニメを実写系の監督が作ると、いろいろ監督側から苦情が出る事も分かりますし、その理由もごもっともと思う点が多いのは確かです。
実は、僕の初期のアニメ作品は、実写監督が圧倒的に多かったのです。
例えば、アニメのカメラ目線、動きのでたらめさ……言いたいことは多いのですが、いずれ語ることになると思いますから、今日は、そんな実写監督の1人、恩地日出夫監督のアニメ映画『地球へ…』(1980年……ただしDVDが出ています)を、脚本面から見てみます(実はアニメスタイルのアニメ様から勧められたのです)。
ストーリーは、設定がいささかごたついた『ウォーリー』……つまり、一度捨てた地球へもどろうという骨子の話です。
恩地監督は、若いころは青春映画にすぐれた作品の多い監督で、後年はTVドラマが多いのですが、みずみずしい映像という表現がぴったりの方です。
この方の作品に「昭和元禄 東京196X年」というのがあり、あんまりみずみずしすぎて、当時18歳の僕は「何がなんだかいったい、この映画で何を言いたいんですか?」と暴言をご本人に吐き、顰蹙をかった事がありますが、恩地氏は覚えていないでしょう。
で、青春映画の若い人の動きや表情をみずみずしく描ける監督は、アニメをどうやら全く信じていなかったようです。
というより、監督の要求にアニメが応えられなかったのかもしれません。
すぐれた青春映画は、演技力やセリフを若い役者に期待できないので、動き、微妙な表情をいかにとらえるか、つまり、実写でとらえた映像が勝負のような気がします。
アニメではオーバーな表情はできても、微妙な表情はできません。
アニメは、人間の細かい演技は無理です。
アニメでそれを描こうと思うなら、表情をあらわすのではなく、別の表現方法や動きで観客に分からせるべきでしょう。
恩地監督は、自己の持つ演出方法を、アニメに取り入れようとします。
やたら長い登場人物のカット……登場人物の持つ人間らしさを描くのに適切な映画の手法ですよね。
しかし、アニメのキャラは演技力も若いオーラもないただの動く絵です。
恩地監督は、それを分かっていたのでしょう。
冒頭から、長い主人公たちの会話による状況説明のセリフが続きます。
年がら年中、会話して状況説明しています。
かといって、微妙な感情を表現するセリフもほとんどありません。
そんなセリフはアニメでは無理だと、思ったのでしょう。
ここまで説明セリフの多さが目立つと、意識的だと思います。
脚本は監督も含めて、アニメの脚本家ではありません。
アニメと実写の違いを考慮に入れて、なおかつ脚本の基本である「説明ゼリフを極力書くな」という常道を無視してまで、説明ゼリフをぶつけてくれます。
僕は、説明ゼリフは嫌いです。
しかし、ここまで徹底していると、観て損はないとも思います。
アニメになりそこなった映画というか、映画になりそこったアニメというか。
実写の監督が、アニメで実写の自分流をいかそうとした奮闘ぶりは分かります。
ただし、この映画、今時の脚本家が書いたら、ナレーションで状況説明、会話で心理説明、時々オーバーなアクションを入れ、アニメの派手なクライマックスシーンを入れ、ごくごく普通のアニメ映画になっってしまうかもしれません。
アニメと映画の中間にあるような奇妙な映画です。
脚本がそれをよく表している気がします。
つづく
■第173回へ続く
(09.01.21)
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編集・著作:
スタジオ雄
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