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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第177回 『ポケモン』バトルを否定していいのか?

 『ポケモン』アニメ映画『ミュウツーの逆襲』のクライマックスは、言うまでもなく「自分とは何か」という自己存在への問いかけに対する本物とコピーの戦いである。
 本物であろうと、コピーであろうと、それぞれ個々にこの世に独自に存在しているいるには違いない。
 他に自分と同じ存在がいるということは、「自分とは何か」という個々の持つ自己存在への問いかけを意味のないものにしてしまう。
 自分と同じものがいないから、「自分とは何か」という自己存在への問いかけと悩みがあり、逆に自己存在への希望も存在する。
 もともと、自分という存在は、自分自身が望んでこの世にあるわけではない。もちろん、たとえば自分の親など、他者から望まれてこの世に生れて存在しているのかもしれないが、自分が望んでこの世に生まれてきたわけではない。
 自分がこの世に存在している事に、自分の選択肢はなく、生き物は生まれてきてしまった。
 しかし、自分がこの世に存在している事実は変えようがない。
 だから、物心つけば、この世に存在する「自分は何か」という自分の存在への問いかけは、大なり小なり誰もが抱く気持ちだろう。
 コピーにとっては、自己が他者と同じ存在であることは耐えられないことであり、本物にとっても、自分と同じものが作られることは許せない。
 自分と同じ互いの存在を認める事は、独自であるはずの自己存在の否定になってしまう。
 自己と同じものがあってはならない。
 同じものとの違いを見つけるには、同じものだからそこに存在するはずもない互いの優劣で納得するしかない。
 コピーの側には、本物そっくりに生み出されたというコンプレックスがある。だから、本物には負けられない。
 本物には、自分がオリジナルだと言う自負がある。だから、コピーに負けるわけにはいかない。
 だから、自己存在を賭けた戦いが始まる。
 バトルゲームが原案の『ポケモン』アニメでは、それがポケモンバトルで表現される。
 だが、そんなバトルに意味があるのだろうか?
 バトルに勝とうが負けようが、自分は存在しているのである。
 バトルの勝敗で「自己存在」の事実は消えはしない。
 「自己存在」の問いかけにとって、バトルの勝敗は表向きの評価でしかない。
 バトルの勝敗で、「自分は何か?」の答えは出ない。
 つまり、自己存在への問いかけにバトルはあまり意味がない。
 人には様々なその人なりの生き方があるが、それは、この世におけるその人のあり方であって、戦いではない。
 人は、戦うために生まれてきたわけではないと思うのだ。
 「人生は戦いだ」という台詞もあるが、ごもっともと思う反面、この感覚は好きになれない。
 「人生が戦い」なんて考えると生きるのに疲れるし、「人生はそれなりに楽しい」と思う方が生きる気力が出ると思うのが僕である。
 バトルゲームは、色々な工夫はなされているものの、最終的にはバトルゲームに勝つことが最終目的である。
 「ポケモン」というゲームは、何百種もいるポケモンを収集するという要素、珍しいポケモンを見つけるという要素、ポケモンを戦わせることによってより強く育てる要素、手に入りにくいポケモンを他のプレイヤーと交換する要素など、様々な楽しみ方ができるよくできたゲームだとは思うが、結局、様々なバトルに勝ってポケモンマスターという頂点を目指すバトルゲームである本質は変わりない。
 別にゲームに限らず、人間はどんなことでも負ける事より勝ちを望むのが本能だろうとは思う。
 人生において、ゲームに限らず、スポーツ、金銭問題、社会的地位、名誉、功績、戦争、何にしろ負けをよしとする人などほとんどいない。
 僕も、どんなことにしろ、負けるより勝つほうが気持ちが悪くない。
 ずいぶん昔から勝ち組、負け組などという言葉があるが、他人から自分を負け組とは言われたくない。
 ただし余談だが、昔『ポケモン』アニメを書いているある脚本家から「僕たち、脚本家の勝ち組ですね」と言われたのはさすがにびっくりしたが……。
 要するに『ポケモン』アニメがヒットして、二次著作権収入が普通の脚本家以上であることを意味しているのだろうが、脚本を含め、いわゆる人の作る創作物に、出来のよしあしはあっても、勝ち負けで評価するのは僕にはとても違和感がある。
 創作作品を、金銭的儲けで優劣をつけるのは、何となく気持ちが悪いのである。
 スポーツや、将棋や囲碁などのゲーム、人の票を集める選挙、極端な言い方だが喧嘩や戦争など、露骨に勝敗が決まるものに勝ち負け評価をするのはなんとなく分かるが、創作物、科学的研究などで○○賞をとったから勝ったという人がたまにいるが、どうも僕にはそんな感覚にはついていけない。
 毎年、いろいろな創作物にベストテンが発表されるが、それは、ある一部分の人たちの作品評価の平均であって……そんなものに順位をつけるのも僕には違和感がある……作品の出来と勝ち負けとは異質のものだと思うのだ。
 話をもとに戻すが、バトルに勝つ事を最終目的にする多くのゲームに、苦情を言っている訳ではない。
 何かに勝ちたいという感覚は、人間の本能のひとつだし、その本能を上手にくすぐるゲームなら優れているゲーム作品だと思う。
 だが、優れたゲームだとしても、近年のゲームは、僕のようなゲームに対して古い感覚の人間にはどうもピンとこない。
 それは、負けてもリセットが利く事、やり直しが楽にできる事である。
 つまり、負けがプレーヤーのダメージになかなかならない。
 気分的にちょっと悔しいだけである。
 基本的に、昔のゲームは囲碁、将棋、麻雀などなど、負けたからといってやり直しはできない。
 負けてしつこくやりなおしを要求する人は人間性を疑われ嫌われる傾向があった。
 違法にしろ、こっそり勝敗にお金を賭けたりする場合が多いから、負けたプレーヤーのダメージも大きい。
 子供のゲーム、メンコですら、負けるとメンコを取られたりする。
 昔のゲームには、多かれ少なかれプレーヤーのリスクがかかっていたのである。
 言い方に語弊があるが、国家のリスクのかかったゲーム、戦争には金がかかるし、なにより大量の死者がでる。もっとも、なんだかんだと理屈をつけて、所詮は金もうけのための戦争がほとんどだが……。
 だが、最近のバトルゲームは、負ければリセットでき、プレーヤーのリスクが少ない。
 その分、ゲーム表現は過激になり、暴力、殺戮が横行する。
 さらに、萌え系などという新種の性的要素を加えたものもある。
 それが現実で起きてもしも失敗したら、簡単にリセットできないことばかりだ。
 しかし、何をしようと、それがプレーヤーにリスクのないゲームだから許されている傾向がある。
 『ポケモン』はその点の表現の配慮がなされていて、バトルをしてもキャラクターは死にはいたらないし、キャラクターが傷ついても回復できるようにできている。
 『ポケモン』キャラクターも愛嬌のあるものが多い。
 ピカチュウなど、その中のメインスターであることは言うまでもない。
 ゲームのバトルルールも色々工夫されている。
 ゲームに詳しい人達に言わせれば、とてもよくできたゲームとして評価が高かった。
 それでも、バトルゲームである本質は変わらない。
 戦うのはゲームの中のキャラクターであり、プレーヤーにリスクはほとんどない。
 プレーヤーはバトルに使うキャラクターを考え、戦う技を選び、そこには色々工夫やテクニックが必要だが、あくまで、戦うのはゲームのキャラクターであり、そのバトルに勝つことによって、プレーヤーのキャリア――ゲーム上での出世――が上がっていく。
 そして、失敗すればリセットできる。
 つまりプレーヤーのリスクが少ない代理戦争ゲームなのである。
 けっして、嫌味で言っているのではないが、自分の思いどおりになる部下を上手に使って、自分のキャリアを上げていく、ある意味、大人にとっても理想的な処世術につながるゲームでもある気がする。
 ビジネス本によくある「人を動かす」出世本や、様々な国作りをした色々な指導者を描いた小説が持っている人心掌握術に対するあこがれをくすぐる部分が、『ポケモン』ゲームにはある気がするのは僕だけだろうか?
 現代の複雑な子供の世界にあっても、自分の思いどおりに動いてくれる友人というのは、理想的な存在だろう。
 しかもそれは、1人だけでできるゲームである。
 子供たち同士の話題にはなるだろうが、それが人間としての付き合いに発展するかどうかは僕には疑問である。
 ゲームクリエーターは、『ポケモン』に通信機能を持たせ、ゲームによる子供たちのコミュニケーションを促進させようとしている意図を表明しているが、通話量やメール交信量がいくら多くても所詮は一方通行で、それが生身の人間同士のふれあいとは言い切れない、現代の携帯電話の異常な普及と同じような気がしないでもない。
 だが、現代のゲームとしては、『ポケモン』のこの構図はよくできている。
 どの道、ゲームはゲームなのである。
 かつて、僕の小説が、ファミコンゲーム化されたことがある。
 ゲームクリエーターの方達は、僕の意見を尊重し参考にしつつ、小説のストーリーどおりとても熱心にゲーム化してくださった。
 よくできたゲームだといってよかったし、僕も感謝した。
 しかし、小説のストーリーには忠実でも、小説のテーマはすっとんでいて、結局、バトルがメインのゲームになっていた。
 バトルに明け暮れ、いつも死を覚悟し、むしろ死にたがっているかに見える主人公が、やがてバトルを否定し、生きようとを決心するのを最終テーマにした小説が、ゲームになるとバトルの面白さが中心になってしまう。
 死にたがっている主人公が、バトルに負けて死んでも、ゲームではリセットで生き返ってしまうのだからどうしようもない。
 僕はゲームを批判しているのではない。ゲームとは、どんな形をとってもバトルであり勝負の勝ちが快感になる媒体なのだ。
 ゲームは、本来、戦いが好きな人間の本質を突いて、戦いを疑似体験させる優れた媒体だと思う。
 ただし最近の過激でリアルな表現のバトルゲームは、子供や幼い大人への影響が気になりはするが……。
 で、映画『ミュウツーの逆襲』は、アニメでありゲームではない。
 ゲームにおけるポケモンは、色々な特徴があり、愛着度はプレーヤーにとってそれぞれあるにせよ、基本はバトルゲームの駒である。
 その駒が、プレーヤーの意思を無視して、「自分とは何か」などと考え出しては困るのだ。
 駒はルールにのっとってプレーヤーの思いどおりに動いてくれなくては困る。
 ゲームの駒に自己存在を意識されて勝手に動かれては、ゲームにならない。
 『ミュウツーの逆襲』は、ミュウツーの「自分とは何か」の問いから始まり、コピーと本物の差別――ゲームのポケモンには、それぞれ能力の差はあっても、ポケモン同士に差別意識はない――を問い、ついには、ポケモン同士のコピーと本物の自己存在を賭けた戦いになる。
 それは種類の違うポケモンの戦いではなく、見た目は同じ同種のポケモン同士の戦いである。
 ゲームのプレーヤーからしたら、同じ特徴をもった駒同士の戦いである。
 ゲームのプレーヤーにとっては、分かりにくいバトルである。
 アニメ上では戦っているが、ゲームとしてはほとんどありえないバトルである。
 アニメの中で、ゲームのプレーヤーの位置にいるのは、主人公のサトシを含め、戦いを見つめるトレーナー達である。
 いつもは、自分の手持ちのポケモンに戦いの指示は出すものの、表現は悪いが、ポケモンの戦いを高みの見物している連中だ。
 それが『ミュウツーの逆襲』では、自己存在のために戦うポケモンたちを見て、言葉も出ない。
 『ミュウツーの逆襲』でポケモン達は、トレーナー達の指示を超えて、ポケモン自身の自己存在のための戦いをしているからだ。
 やがて、それは、ポケモンバトルの否定につながっていく。
 僕がそれに気がついたのはこの脚本を書いている途中だった。
 『ミュウツーの逆襲』のプロット自体は簡単なもので、ポケモン最強のミュウツーが、サトシやピカチュウと戦う話……程度しか書いていない。
 詳しいストーリーは、まず、ミュウツーとはどんなポケモンなのかを考えつつ、脚本を書きながら考えたといっていい。
 だが、このストーリー展開は下手をすれば、いや、下手をしなくてもゲームの「ポケモン」の本質を否定してしまう事になる。
 『ポケモン』のアニメ化に最初から僕が関わっていたならともかく、僕にシリーズ構成の依頼があったのは、アニメ化が決定した後である。
 以前もこのコラムに書いたが、僕が参加する以前に、『ポケモン』をどうアニメ化するか、ああでもないこうでもないと様々な意見が出ていて、その議事録が文章化されていた。
 しかも、そのほとんどが「もっと面白いアニメ化の方法があるはずだ」という理由で否定されていた。
 そもそも、ゲームサイドには、アニメ化自体を懸念する声もあった。
 アニメがこければ、ゲームも影響を受けて寿命が短くなる危険があるからだ。
 そこに、ポケモンバトルを否定するようなストーリーを書いていいのか。
 幸いにして、僕がシリーズ構成したTVアニメ版に、ゲームサイドの方達は好感を持ってくれた。
 だが、逆に、アニメ化を企画し奔走した方は、不満もあったようだ。
 もっと、派手で活劇調の正統冒険TVアニメを期待していたようだった。
 間接的だが、時々、不満の声も聞こえていた。
 だから、せっかく得たゲームサイドの好感を『ミュウツーの逆襲』でぶち壊したら、プロデューサーサイドは、全部反対派になってしまう。
 おそらく企画時にあっただろうすったもんだのあげく、シリーズ構成に僕の名前を出したのは総監督だろう。
 まず最初に総監督から僕に電話で打診があり、その後、製作サイドからシリーズ構成の依頼があったことからでも、それは明らかだ。
 プロデューサーサイドに反感を買うような脚本を書けば、総監督にまで迷惑がかかる。
 だが、クライマックスシーンの描き方次第で、ポケモンバトルの否定は回避できる。
 どうすべきか。僕としては珍しく、一日だけ、小田原の海を見つめながら考えた。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 実は、ここでは、僕の知る実写監督のアニメ観について書いていくつもりだった。
 だが、このコラム、脚本に興味のある方、現在、脚本を書いている方も読んでいらっしゃるらしいので、割と緊急にお知らせしたいほうがいいと思い、違う事を書く。
 先日、日本脚本家連盟でアニメ脚本家の懇談会が開かれた。
 出席する予定だったが、予約していた病院の通院日と重なり、さらに診察時間が大幅に遅れたために、懇談会に出席できなかった。
 昨年、緊急医療を受けた僕としては、病院の診察時間の遅れに文句は言えない。
 で、懇親会の内容を出席した脚本家の方達の何人かからうかがったのだが、今は、病院をキャンセルしてでも懇親会に出席したほうがよかったと思っている。
 テーマは脚本家の著作権についてであり、僕の話題も出たらしいからだ。
 なんでも、最近、アニメ制作会社から若手の脚本家の方に、脚本買い取り契約書を書かせようという動きがあるという。
 言うまでもないが、脚本家の著作権は基本的に守られており、ある一定の期間が過ぎると、再放送の時にはわずかだが著作権料が入ってくる。
 DVD、ビデオなどの二次使用も同様である。
 だが、脚本家が買い取り契約書にサインすると、全て著作権料はなしになってしまう。
 で、今、不景気だからかもしれないが、通常のギャラより数万円上乗せして、買い取り契約書にサインさせて、脚本家から著作権を買い取ろうとしている会社がでてきているらしい。
 正直言って、「脚本家の著作権買い取りはダメ」は30年以上昔に解決したつもりの僕としては、今頃その話が出てくるのかと、いささかびっくりである。
 僕としては、21世紀にもなって、この日本に、脚本買い取り契約書なるものが存在すること自体が信じられない。
 何をいまさらと、いささかうんざりもしている。
 で、これから、アニメ脚本家の著作権について、僕が経験し知っているかぎりのことを、何回かに分けて書いてみようと思う。
 結論から先に言うと、あなたが脚本家なら、買い取り契約書にサインするのはあなたの勝手だが、シリーズ構成としての僕なら、そんな方の脚本はあまり信用できない。
 自分が本来持っている著作権を売り渡す人の脚本は、期待できないからだ。
 買い取ろうとする製作会社もどうかと思う。
 著作権を売ってしまうような脚本を、脚本家が真面目に書くとは思えないからだ。
 安かろう悪かろうの脚本では、ろくなアニメはできず、結局、損をするのは製作会社である。
 事情を知らずに、「買い取り契約書」を書いてしまった脚本家の方は、今後、「買い取り契約書」を断ることをお勧めする。
 なぜ、出席してもいない懇談会に僕の名前が出たのかというと、脚本家として特例なぐらい著作権の恩恵を受けている脚本家だと思われているかららしい。
 事実、30年以上昔の作品の著作権料が、いまだに、入ってきている事は確かである。
 だが、僕だけでなく、昔の作品の著作権収入で、3階建ての家を建てた脚本家を数人、僕は知っている。
 下世話だが、金銭的な話のほうが分かりやすいから書くが、あなたがまともな脚本を書ける脚本家なら、著作権を持っている方が、売り渡すより何倍も得である。
 もしかしたら何十倍も……。
 特にアニメは息が長い。海外にも売れる。僕が20代に書いたアニメが、今もどこかで放送されている。
 僕の書いた魔女っ子アニメなど、ビデオ、VHD、LD、DVD、Blu-ray、再放送、海外放映、みんな二次使用料が入ってくるのである。
 とりあえず、「著作権買い取り」にサインしないほうがいいですよ……と、ご忠告申し上げて、次回から、アニメ脚本著作権についてすこし詳しく書いていこうと思う。

   つづく
 


■第178回へ続く

(09.03.18)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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