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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第178回 『ポケモン』映画版は自分が納得できるもので……

 映画版『ミュウツーの逆襲』のクライマックスをどう描いたらいいか、小田原の海を見ながら出した結論は、やはり自分が納得できるクライマックスをそのまま書こう、というものだった。
 物書きとしてはあるまじきことだし、言ってはならないことかもしれないが、僕は書くことが苦手である。
 自分の中にある何かを誰かに表現したい気持ちはあるが、その手段に文章を書くという行為を使うのが、どうも好きになれないのだ。
 子供の頃からそうだし、実は、ものを書く事でしか食べる糧がなくなってしまった今でも、その気持ちは消えない。
 文という表現手段が、自分をしっかり表現できると思えないのだ。
 僕の文章表現能力不足といっていいのだが、自分の思ったこと、感じたことを、しっかりと伝える単語や文章を見つけられないのだ。
 だから、自分の書いたものを読み返した時に、自分の表現したいこと……ここで言っている表現とは、相手に対するメッセージとは違うもの種類のもので、自分自身の感性を伝える種類のもののことである……が自分でくっきりと書けているとは思えないし、まして他人に伝わるかどうか自信がない。
 いつも消化不良の感じがある。
 突然、妙なことを書きだすが、異性を口説くということは、ある意味、自己表現をして、相手に好感を持ってもらうことである。
 若い頃、ラブレターで女の子を口説く自信はまったくなかったが、恥ずかしながら、直接相手と会ったり電話で声で話し合ったりしたら相手を口説ける自信が、僕にはあった。今となっては遠い昔の自信過剰ではあるが……。
 バカなことを書いてしまったが、ようするに自分を表現したいなら、その表現手段としては、相手に様々な誤解を生むだろうが、それでも相手の反応が返ってくる会話という行為の方がいいし、体を動かして行動する方がいいし、絵や音楽などの相手の感性に直接訴えかける文章とは別の表現行為――つまり相手の文章読解力に頼らない表現、これは僕自身の文章表現能力に自信が持てないから言えることである――の方が、自己表現としては優れていると今でも思っている。
 極端に聞こえるかもしれないが、自己表現方法なら、曖昧な文章より、はっきりと事物を表現できる世界共通というか人類共通の言語と言える数式の方が表現方法として優れているとすら思っている。
 だから、表現することで生きていくとしたら、文章ではない、絵や彫刻や音楽の芸術、体を使うバレエなどの舞踏、自分の味覚が相手に伝わる調理、でなければ、そんな表現方法とまったく逆に思えるが、世界共通の事物の真理を追求する様々な分野の科学の方が、文章書きより表現者として適していると子供のころから思っていた。
 僕が子供の頃、大人になったらなりたかったのは、まず科学者であり、次に画家であり、音楽家だった。
 自分の自己表現ということなら、よくも悪くも国や地方自治体を動かす政治家のほうが、物書き業よりましだと思っていた。
 そんな僕が、なぜか物書きになってしまった。
 それも、僕個人の自己表現でなく、多くの人の自己表現が集合して作られる、映像や演劇関係の物書きである。
 時々ガス抜き風に、1人の自己表現らしき小説やエッセイ風のものを書くが、それにしても、出版社や編集者が関わっている。
 まして、自己表現手段としての文章は、僕としては苦手な書くという行為が伴わざるを得ない。
 僕にとっては悪夢のような状況である。
 なぜこんなことになってしまったのか、この不幸(?)については語ると長くなるので、ここではなくいつか書こうと思っているが、ともかく僕はそんな物書きである。
 要するに、物書きにはなりたくてなったんじゃないのである。
 だからこそ、なおさら、客観的に見れば書いたものの出来不出来はあるだろうが、少しだけでも自分で納得できるものしか書きたくない。
 いつしか、自分が納得できる部分がないものを書こうとすると、書く前に体調がおかしくなるようになってしまった。
 大袈裟に聞こえるかもしれないが、僕にとって、自分が納得できないものを書くことは、命がけの行為になってしまう。
 脚本に限って言えば、僕には、原作のある作品の脚本が少ない。
 原作のよしあし、僕がその原作が好きか嫌いかは関係なく、僕の自己表現として、その原作の映像化が僕に納得できるかどうかが問題なのである。
 そもそも、原作は原作そのものの力で存在している。
 映像化すれば、原作とは違うものにならざるを得ない。
 それを、その原作を好きな読者である僕が、納得できるだろうか?
 僕のようなタイプは、その原作を好きになればなるほど、映像と原作の違いが気になる。
 他人の原作を脚本化すれば、そこには、僕の自己表現が入ってしまう。
 原作と僕の自己表現がまざりあった妙なものができ上がってしまう。
 僕は、それが気持ちが悪いのである。
 それを書いていると、体調がおかしくなる。
 もちろん、僕が、その原作が大好きで、リスペクトを込めて原作どおりに映像化したくなる作品があるかもしれないが……今のところ、そこまで僕がその気になる原作と出会っていない。もし、そんなことがあるにしても、その映像化には僕の自己表現が入ってしまうだろう。
 だから基本的に、原作を尊重しろと言われたり、僕自身が原作を尊重したかったりするものの脚本はお断りしていた。
 そのうち、原作を尊重しなければならない作品の依頼もこなくなった。
 僕にとってはそれでいいのである。
 僕の脚本には、原作のあるものも確かにある。
 だがそれは、原作者が、原作と映像の違いが分かっていて、僕の自己表現が入っていいと了解しているものに限られる。
 なおかつ、僕の自己表現がその原作の映像化に必要だと僕自身が納得できるものに限られる。
 だから、原作のあるものの脚本化の依頼が来たときは、その原作自体も読まずに、まず最初に断り、それでも僕のシリーズ構成と脚本が必要だ、と依頼者が繰り返し依頼してきたものだけを脚本化の対象にしていた。
 しかし、依頼してくるのは、映像化する制作会社のプロデューサーや放送局のプロデューサーが常だから、原作者と脚本化する僕の中間の位置にいる。
 僕への依頼は、色々な事情があるから、原作者の気持ちが、直接、僕に伝わってくるわけではない。
 そこで僕は、原作者とその原作を出版している出版社の編集長と直接お会いして、「僕が脚本化していいのか?」と、確認をとることにしている。
 その時は、原作を映像化した時にどうなるかの、僕の構想の概略を話している。
 つまり、原作をベースにした僕の自己表現作品になる危険性があってもいいのか? ということの念押しをしているのだ。
 で、その確認と了解を受けたうえで、シリーズ構成や脚本化をすることにしてきた。
 今のところ、原作者や編集長から、難色を示されたことはない。
 原作者が僕の仕事場を訪ねてきてくれて、脚本化を喜んでくれた事もある。
 一度だけ、第1話の脚本を読んだ、ある原作の、原作者でもなく編集長でもなく、原作編集担当の方が、「あまりに原作と違いすぎる」とクレームをつけてきたことがあったが、放映された作品を見て、「あの原作があんなアニメになるとは……原作以上に原作に近くて勉強になりました」と、わざわざ手紙をくださったことがある。
 僕としては、原作をベースにして少しだけ自己表現したつもりだったのだが、それを喜んでくれて僕もうれしかった。
 つまり、原作があろうとなかろうと僕自身が脚本を書くことに納得できなければ、脚本を書かないというか、体調が悪くなって書けなくなるのである。
 だから、僕の書いた脚本は、出来がよかろうと悪かろうと、書く行為自体が嫌いな僕が、少しは納得して書いた脚本である。
 ということは、自分のシリーズ構成した作品、僕の書いた脚本には、僕自身の責任があるし、それを問われれば受けて立つ気持ちでいた。
 そんな姿勢で、長い間、脚本に関わってきていた。
 そこに、ゲームの「ポケモン」のアニメ化である。
 今さら、僕の書いてきた脚本への姿勢は変えられえない。
 それまで続けてきた姿勢を変える事は、今まで僕の書いた脚本のタッチを変節させる事であり、それまで僕の脚本を受け入れてくださっていた方達への裏切りになる。
 様々な工夫を凝らしていても「ポケモン」の基本はバトルゲームである。
 バトルゲームの本質であるバトルを否定していいのか?
 アニメ作品として、自分の納得できる脚本を書くべきか。
 バトルを否定しないクライマックスを書くことは可能だ。
 両者引き分け、ミュウツーが「今度、戦う時は必ず勝ってやる」と、捨て台詞を残して去ればいいのだ。
 その結末では、バトル自体を否定してはいない。
 バトルが無意味だとは言っていない。
 だが、そのラストでは、僕は納得できない。
 で、いささか考え込んでしまったのだ。
 しかし、僕はミュウツーの自己存在への問いかけを考えるうちに、アニメ版『ポケモン』のシリーズ構成としての自己存在も考えている自分に気がついた。
 アニメ版『ポケモン』は、ゲーム「ポケモン」のクローンとして企画されたのかもしれない。
 だが、アニメとして存在している。
 ゲーム「ポケモン」のクローンアニメなら、シリーズ構成が僕である必要はない。
 僕は、自分が納得しなければ脚本を書かないタイプである。
 それは、業界でも知れ渡っていることだろう。
 それなのに、僕にシリーズ構成の依頼が来た。
 しかも、僕を推薦したのは総監督であるらしい。
 総監督は、別の作品で僕とコンビのように言われている人である。
 僕の作風をよく知っていての推薦である。
 どんな脚本ができるか、およその予想はついているはずである。
 ゲームのクリエーターの方達も、僕の別の作品に好感を持っていてくださっていた。
 それらの作品は、それまでのアニメと比べて、一風変わったアニメだった。
 つまり、僕が僕の納得する脚本を書かなければ、僕がアニメ版「ポケモン」に存在する意味がないのだ。
 だったら、バトルゲームというものの基本を否定することになっても、僕の納得できる脚本を書こう。
 小田原の早川の浜辺に打ち寄せる波を見ながら、僕はそう決めた。
 早川の名は、言うまでもなく、早川という川が海に流れ込んでいるところからついている。
 今でも覚えているが、子供っぽいバカなことが頭をよぎった。海も川も同じ水だ。しかし、同じ水でも、川と海は違う……。
 僕は自分の納得できるクライマックスを書いた。
 書きあがった脚本のクライマックス部分に、総監督は何も言わなかった。
 できあがったアニメ作品のクライマックスは、台詞も含め脚本と変わっていない。
 しかし、この脚本、実は賛否両論だったらしい……あの『ポケモン』ピカピカ事件がなければ、『ミュウツーの逆襲』の内容は違うものになっていたかもしれなかった。
 では、次回、そのクライマックスについて書いてみようと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 前回、アニメ脚本の買い取り問題について、金銭というか、収入面からいきなり書き始めた。
 著作権意識について語るのに、お金の話が手っとり早く、分かりやすいからだ。
 すでに「買い取り契約書」にサインした経験のある方や、「買い取り契約書」を求めたアニメ制作会社にとっては、あまりいい気持ちはしないコラムだったろう。
 現在のアニメ会社の窮状、脚本家の生活の困窮など色々知らないわけではないし、「買い取り契約」が仕方がないという考え方もあるのも分からないわけではない。
 脚本家連盟が「買い取り契約するな」というからしないという脚本家のそれぞれの方達にも、色々問題があることも、ある程度知っているつもりだ。
 僕自身としては、脚本の著作権についていまさらごちゃごちゃ言いたくないし、余計な事を書いて、せっかく仲よくしている制作会社やTV局や代理店の人たちと、喧嘩したくはない。
 早い話が、僕にとって、「著作権買い取り」はそれぞれの脚本家個人のそれぞれにある事情が関わっている、いわば「個人の勝手でしょ」問題である。
 しかし、昔は新人気分で、好き勝手やっていたら――今でもそのつもりでいたが――、気がつけば、人からアニメ脚本家のベテランと言われているようだ。
 この世界、前例という言葉がよく使われる。
 「あのベテランがこうだから、あなたもこうしなさい」というやつである。
 僕が脚本家と呼ばれるようになった頃も、よく言われた。
 「あのベテランが、このギャラで買い取りだから、あなたもこれでいいでしょう」である。
 それが、若手にとって有利な前例ならいいが、そんなのはないといっていい。
 「あのベテランのギャラが高くなったから、あなたのギャラも高くしましょう」
 こんな前例はまずない。
 ろくな前例がなく、僕はかなり苦労した。
 で、いろいろ、個人的に前例をひっくり返したら、「首藤剛志は特例であり、前例ではない」と言われているらしい。
 特例と呼ばれるのは、プライドをくすぐられ、悪い気がしないように感じられるかもしれないが、本人はそうでもない。
 特例とは、1人ぼっちに近いということでもある。
 「おじさんはさみしい〜」である。
 脚本に限らずアニメ業界には前例がはびこり、それがますます悪い方向に進んでいるらしい。
 僕は、特例と呼ばれるのも気持ちよくないし、まして悪い前例になりたくない。
 みなさんも、そうでしょう?
 アニメに関わるみんなにとって不利な前例になるより、有利な前例でいたいでしょう?
 前例がひどすぎて、アニメの世界に見切りをつけて、実写や他の世界に行ってしまった脚本家もいる。
 アニメ界にとって、これは才能の流出といえないだろうか?。
 せっかく、ジャパニメーションなどと呼ばれ世界に通用するようになったらしい日本のアニメが、実はこのままだとお先真っ暗に思える。
 不利な前例はアニメ業界全体を落ち込ませる。僕は脚本関係だから、アニメ制作の他のパートについては発言する余裕も資格もないが、少なくともアニメ脚本家の前例は、脚本家にとってよいものであってほしいのだが、先は明るくないようだ。
 けれど、唯一といってもいいぐらい、いい前例がある。
 それがアニメに限らず実写も含めた脚本家の著作権が認められていることである。
 これは、僕が脚本家と呼ばれるようになる前に、先輩の脚本家の方達が努力して、完璧とは呼べないにせよ掴みとってくれた遺産のようなものである。
 僕にとっての実例としての著作権問題は後で述べる事にして、とりあえず書いておく事がある。
 脚本の著作権は、書かれてから50年認められていて、ビデオやDVDなどの2次使用の際は、商品の値段の1.75%である(ただし、それを徴収する、音楽におけるJASRACのような著作権代理店(?)のようなものに手数料を引かれる。日本では日本脚本家連盟と日本シナリオ作家協会のふたつある。……なぜ、ふたつあるのか僕には疑問である。ふたつあるからといって二重取りできるわけではない)。そこを通じて著作権料が脚本家に入ってくるのが普通である。
 小説などの出版物の著作権料(印税)は普通10%だが、脚本家の場合は1.75%……これが高いか安いかは、何とも言えない。小説やエッセイ、他の書物と違い、映像作品は1人で作れるものではないからだ。
 再放送も海外放送も同様に、それなりの著作権料が入ってくる。
 アニメは、これがつもりつもればバカにならない額になる。
 ただし、脚本家が脚本の「買い取り契約書」を交わしているとそれが難しくなる。
 だから、「買い取り契約書」は止めておいた方がいいということになる。
 もう少し詳しいことは、次回で……。

   つづく
 


■第179回へ続く

(09.03.25)

 
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