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第179回 『ミュウツーの逆襲』クライマックス
このところ、『ポケモン』の映画版『ミュウツーの逆襲』についての話が長く続いている。僕にとっては比較的新しく記憶に残っていることと、それでいながら、すでに過去の作品だから、まるで他人が書いた脚本の作品のように、かなり冷静に見返せること、そして、このコラムをお読みになっている方達の中でも、すでにこの作品を観た方も多いだろうし――この映画の映画館上映時に子供の頃観た方でも、20代にはなっているだろう――、それに、レンタルDVDや、このところやたらと増えた放送媒体で再放送され、僕の関わった作品では、みなさんが観ようと思えば、わりと簡単に観る事のできる作品のひとつだからでもある。
余談だが、全く別のタイプで今もどこかで再放送されているらしい作品に、『まんがはじめて物語』シリーズがあり、『ポケモン』に興味のない年齢の大人の方達から「『はじめて物語』の首藤さんですか? 今、観ていますよ。あれ、色々調べるの大変だったでしょう?」と聞かれ、僕自身が驚いたことがある。
首藤という名前が珍しいから、覚えてもらえているのかもしれない。
あのシリーズの脚本は、子供向けを装いながら、大人の興味も引くつもりで書いたから、現在の大人の目にも通用しているのは、それはそれなりにうれしいが、このコラムをお読みになっている多くの方達には、興味のない作品かもしれない。
なにしろ、『まんがはじめて物語』は、裏番組に、大相撲中継とともに、あの『ガンダム』があったシリーズである。
最高視聴率が28%あったシリーズだが、表向きは子供向け教養アニメだから、『ガンダム』シリーズの視聴者層――いわゆるアニメファン――の視界には届かない作品と思われても仕方ないだろう。
余談はさておき、ここで書かなければならないのは、『ミュウツーの逆襲』のクライマックスのことである。
自己存在を賭けた本物のポケモンとコピーのポケモンの戦いが始まる。
そのバトルを目の当たりにして、ポケモントレーナーは言葉もない。
ただ、呆然と見ているしかない。
ポケモンとコピーポケモンのバトルは、ゲームでも競技でもない、ポケモンと呼ばれる存在同士の戦いで、人間であるポケモントレーナーの意思の通じない戦いだからだ。
このシーンを、僕はその場に居合わせたそれぞれのキャラクターの気持ちになって一気に書いた覚えがあるが、後でそのシーンを見直してみると、かなりキャラクターの色分けがはっきり出ている気がする。
ミュウは、自分のコピーであるミュウツーを無邪気そうに見えながらせせら笑っているのだ。だが、無邪気そうだが、コピーであるミュウツーには負けられない。負けてはならない本物のポケモンである自負がある。
ミュウツーは、ミュウに勝つことが自己存在の証だ。
他のポケモンの本物とコピーのポケモンも同じだ。
バトルに勝った方が、存在する意味がある。
だからこそ、同一種類のポケモンの本物とコピーの戦いになる。
「誰もが(人間も含め)自分とまったく同じものが存在することを認めたがらない」
ポケモンの病院のジョーイ(女医)は、ポケモンの専門家として、感情を抑え、この戦いの説明しかできない。
ロケット団のムサシとコジロウは、その戦いに、自分達の姿を見る。
「この戦いは自分たちの姿を見ているようだ」という2人の台詞は、「自分たちはロケット団だ」といつも大見えな口上で名乗りながら、少しも本来のロケット団になりきれていない、いや、もしかしたら本当はロケット団になる気もない、自分たちの心の葛藤が透けて見える。
自称ロケット団の2人には、むしろ、並みのロケット団ではないという自負さえある(普通のロケット団とは衣装の色も違う)のに、ロケット団を名乗る矛盾があるのだ。
サトシのピカチュウは、野生のピカチュウではない。人間に育てられ、人間とともにいる。つまり本物とは言えない。しかし、とはいえコピーではない。ポケモンとしては、不確かな存在なのだ。
自身が不確かな存在なのに、自分のコピーと戦うことができるだろうか。
自分が不確かゆえに、コピーへの反撃ができない。したくない。サトシのピカチュウがコピーのピカチュウに抵抗しないのは、サトシのピカチュウが持つ性格のやさしさだけではない。自己存在の不確かさもあるのだ。
コピーのポケモンも、無抵抗なサトシのポケモンに不確かなものを感じる。
それは、自身の存在の不確かさでもある。
「なぜ、戦ってくれないのか?」
コピーのピカチュウは、何度も何度も、サトシのポケモンを殴る。
しかし、サトシのピカチュウは応戦しない。ただ、殴られるままだ。
やがて、コピーのピカチュウは殴り続ける自己の不確かな存在が悲しくなってくる。
不確かなものと不確かなものの戦いに意味があるのか?
それどころかそもそも自己存在意識に、確かなものがあるのか?
それは、「自己とは何か?」と問い続ける自己存在の不確かさにもつながっていく。
人間の言葉を勉強し話せるようになり、直立できるようになり、人間になりたかったロケット団のニャースは、自己存在について割り切っている。
人間になりそこなって、本来のポケモンにもなりきれないロケット団のニャースは、自己存在というものに何か諦観したものを持っている。
だが、バトルをすれば体が痛い。死ぬかもしれない。それは現実である。
自己存在の証明にそれほどの価値があるのか?
なんとなくロケット団のニャースは、コピーのニャースに空を見上げて言う。
「今夜の月は満月だろな……」
自己存在のための戦いなんてどうでもいいじゃないか。ともかく、戦わなければ、ロケット団のニャースも、コピーのニャースも、傷つかずに一緒にのんびり今夜の月を観る事ができる。
達観諦観わびさびの世界のようなものである。
このフィーリングが、この映画を見た外国の人に分かるかな? と、ふと、僕は思ったが、外国に持っていこうが、そもそも『ミュウツーの逆襲』は日本のアニメである。
どこか、日本らしさを入れておこうとも思っていたので、このシーンは消さなかった。
分かる外国の人にはなんとなく分かるだろう。
僕は、時々、こういうシーンを書くことが好きである。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のOVA「夢にかける橋」という作品で、どこから見てもヨーロッパに見える街の橋で、お盆の精霊流しのシーンがあるのだが、それも、同じフィーリングである。
で、これらの『ポケモン』アニメ常連のキャラクターのリアクションを交えながら、本物のポケモンとコピーポケモンの戦いが続く。
本物のポケモンとコピーのポケモンの勝負はつかず、双方が疲弊し、同士打ちのように次々と倒れていく。
しかし、ミュウとミュウツーの戦いは続く。
この戦いに意味があるのか?
この戦闘シーン、実は英語版と日本版では少し違っている。
画面や吹き替えられた英訳の台詞の意味は同じだが、バックに流れる音楽が違うのだ。
日本版はいかにも戦闘シーンらしい派手な音楽。
意外なことに、英語版はすこし悲しげなスローバラードが流れる。
戦闘の意味のなさを表現するには、英語版の方が直截な音楽かもしれない。
日本版は、そこまで直截な表現は必要ないと考えたか、それとも、戦闘シーンだから派手にしたかったかは、脚本を書いた僕は知らない。
英語版を見たのは、日本語版を見た1年以上後だが、英語版の音楽の使い方を僕は悪くないと思った。
『ポケモン』の総監督の作品で、僕の関わった作品は、音楽の使い方に癖があり、その癖が僕は好きなのだが、英語版に彼が関わったかどうかは知らないが、英語版の音楽の使い方の方が、むしろその総監督らしいのではと思ったのは、僕の気のせいだろうか?
このアニメのクライマックス中のまさにクライマックスは、戦闘が佳境に入った時、主人公のサトシが戦闘を止めさせようとミュウとミュウツーの戦いの間に割って入り、石化して倒れてからの一連のシーンである。
サトシはポケモンを戦わせるポケモントレーナーであり、その頂点であるポケモンマスターになることを目指している少年である。
それが、彼の夢だったはずである。
バトルを否定するのは基本的に矛盾している。
しかし、身をもって戦いを止めに入る。
サトシは理屈が分かるほどの大人ではない。
おそらく彼は、自分の矛盾を意識していない。
自己存在の証明などという問いも分かってはいないだろう。
ただ、無意味で悲惨な戦いを目の当たりにして、体が動いてしまったのだ。
「やめろ!」
意識したのではなく、サトシはそう叫び、体が動いてしまったのだ。
ミュウとミュウツー戦いの間に入って、双方の攻撃を浴びてしまい倒れたサトシは、死ぬのではなく石化して動けなくなってしまう。
ゲームであろうと競技であろうといままでバトルを肯定してきたサトシは、無意識でバトルを否定してしまった。
サトシの行動は矛盾している。だから動けない。しゃべれない。石になるしかない。
「ポケモン」の世界は、ゲームにしろアニメにしろ死を避けるのがお約束だから、このシーンでサトシを死ぬ代わりに石にしたと解釈した方もいるが、脚本を書いた僕にそのつもりはない。
死んだらそれで終わりである。
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のミンキーモモは車に轢かれ死んでしまうが、生き返りはしない。人間の赤ん坊として生まれ変わるのである。
死んだものが生き返るのと生まれ変わるのは違う。
ミンキーモモは魔法で生き返るのを拒否し、人間に生まれ変わり、人間として生きる事を望む。
みんなの祈りで死んだものが生き返るなどという奇跡や神がかりは、僕は好きではない。
サトシが石化して倒れた後、サトシのピカチュウが何度も何度も電撃で、石化したサトシをもとに戻そうとする。
『ミュウツーの逆襲』で、一番「泣かせどころ」のシーンだそうである。
僕は「泣かせどころ」を意識して書くのは苦手というか嫌いである。
このシーンで、泣いてくださる方が多いのは、脚本家冥利かもしれないが、ここは、いわゆる「泣かせどころ」シーンのつもりで書いたわけではない。
サトシのピカチュウがサトシを石からよみがえらそうと、必死に電撃をサトシに加えるのは、サトシとピカチュウの間に生まれた友情や絆のためだけではない。
サトシのピカチュウは、バトルに対して、無抵抗でいることでしか自分を表現しなかった。
サトシは、バトル肯定の「ポケモン」世界の中で、しかもバトル至上のポケモントレーナーでありながら、バトルを否定してしまった。
バトルに勝つことが価値観である世界を、本人が無意識であるにせよ変えてしまった存在なのである。
自己存在への答えを、潜在意識の中で「戦いを止めさせること」だと見つけて行動してしまった存在がサトシなのだ。
もちろん、サトシ本人は、それを分かってはいないだろうが……。
サトシのピカチュウは、「ポケモン」の世界に、そんなサトシにいてほしかったのだ。
黙って動かない石のままでいてほしくなかったのだ。
しかし、ピカチュウの電撃だけでは、サトシは石からもとのサトシに戻らない。
さらに、他のポケモン達とコピーポケモンの何かが必要だった。
それが、「ポケモンの涙」であり、ミュウツーの心を大きく動かすことにもなる。
さて、この回で、『ミュウツーの逆襲』のクライマックスの話を終えるつもりだったが、もう少し続きそうである。
当然のことだが、ここに書いたことは『ミュウツーの逆襲』を書いた脚本家の、「書いたつもり」をお伝えしただけで、アニメ映画『ミュウツーの逆襲』を観た方の感想を左右したいわけではない。
『ミュウツーの逆襲』を観て、「泣く」も「笑う」も、「つまらない」「くだらない」「時間の無駄」「子供だまし」と思うのも、観た方々次第なのは言うまでもない。
アニメの脚本に興味がある方に、「『ミュウツーの逆襲』というアニメをこんなつもりで書いた脚本家がいた」という一例として良くも悪くも参考にしていただければいいというだけで……そこのところ、よろしくお願いします。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
脚本家の著作権については、個人的にはいろいろ言いたいことがあるのだが、とりあえず、僕の知っている限りの事実を先に書いておく。
アニメ作品において、制作費を出す、放送局、スポンサー、アニメ制作会社、などなどの関係以外……つまり実制作に関わるパートで、著作権による印税(二次使用料)が払われるのは、今のところ、まず音楽、次に脚本、そして日本映画監督協会に加入している監督ないしは演出の一部のようである。
監督・演出の印税が払われるのは限られた人で、製作側との力関係で決まるようだ。
つまり、製作関係が著作権料を払ってでもやってもらいたいと思う監督や演出家ということになりそうだ。
その中で、一番確実なのは音楽関係で、あなたが買い取り契約をせず、JASRACのような印税徴収組織(代理店?)に所属していれば、所属会費を取られる場合があるものの、まず確実に作詞家・作曲家・歌手などに書物における印税に当たるものを徴収し分配してくれる。
もちろん、若干の手数料は取られる。
最近は、JASRACに入っていない場合も、音楽出版社がきっちり払ってくれるのが、慣習のようになっているらしい。
その場合、手数料は取られないこともある。
あなたが、アニメの歌曲を作り、カラオケで誰かがその歌を歌った場合、その1回につき○円が入る。
僕はJASRACに入っていて年に数回、振り込みの報告があるが、報告書の郵送料がもったいないぐらい少額の報告があり――たとえば○円――そんな時は、日本のどこかのカラオケ屋さんで、誰かが僕の作詞した歌を歌ってくださったんだなと思うと同時に、大昔のアニメの挿入歌をよく覚えて歌っていただいてうれしく思う。
すると、ヒットメーカーの作詞・作曲家がどれぐらい収入があるか? ……考えるのはよそう。健康によくない。
音楽関係は、海外もしっかり徴収しているらしく、JASRACの国際賞(外国で一番売れた日本の音楽)は、ここ数十年、ほとんどアニメである。
僕が関係したアニメが国際賞を取ったこともあるが、アニメのオープニングテーマやエンディングテーマはほとんど別の国の歌に差し替えられるから、国際賞を取るといったら、そのアニメのBGMのはずである。……ということは、アニメ本編が海外で放映されているという事だと思うのだが、その国際賞を取った作品の脚本料はいまだ払われていない。
その制作会社に聞いたら、「それはきっと海賊版だよ」と言われたが、海賊版が音楽料だけ払うだろうか?
海賊版が、海外のTV局で放送されるのだろうか?
誤解されると困るので書いておくが、その作品は『ポケモン』ではない。今、『ポケモン』の話題を書いているだけに、コラムの読者に間違えられて迷惑をかけるのは避けたい。
音楽が支払われて脚本がいまだ支払われない場合があるのは、早い話が、音楽関係の代理店(?)と脚本関係の代理店(?)の印税徴収能力の差である。
脚本の場合、個人で制作会社と契約を交わす場合もまれにあるが、代理店(?)に所属するほうが個人が矢面に立つことがあまりなく、苦労が少ない。
個人的な著作権徴収は、うんざりするほど面倒くさい。
世の中、不景気で、払わないで済むものなら、払いたくないのは人情である。
しらばっくれる会社もないわけではない。
もちろん、しっかりしている会社は、こちらが言わなくてもちゃんとしてくれる。
で、代理店と呼ぶと、気を悪くするかもしれないが、日本の場合、それがふたつあり、「日本脚本家連盟」と「日本シナリオ作家協会」である。
その組織に加入するには条件があり、僕が知る限りは2本以上の放映作品がある事、2人の会員の推薦、ギャラが規定以上であることだ。
まあ、人並のアニメ脚本料なら加入できると思うし、それ以下だったら、あなたはプロデューサーからなめられている。
どちらに入ろうと、年会費と手数料は取られる。
ふたつの代理店には手数料のパーセントに差があるらしい。
時々、脚本家の間で手数料が高すぎるだの、あっちの方が安いなどと話題になる。
アニメに限って言うなら――アニメのことしかよく知らないが――、日本脚本家連盟は、日本動画協会と著作権に関しての協約のようなものを交わしているが、日本シナリオ作家協会は、まだ交渉中だそうである。
「日本動画協会」は比較的大手の動画会社の組合のようなものだが、どの会社が加盟しているかは、列記するには多すぎるので、アニメ脚本を書く方は、各々調べてください。インターネットですぐ分かる。
ただ、動画協会に加盟していても、著作権意識の薄いところもあるので、徴収に手間取ることもある。
しっかりしているところはしっかりしているし、ずさんなところはずさんだ。
アニメには直接関係ないが、ふたつの組合のどちらかに入ると、収入に関わらず一定保険料の文藝美術国民健康保険に加入でき、収入の多い人は健康保険料が確実に安くなる。収入の不安定な脚本家という仕事である。めったに来ない収入の多い年など、国民健康保険は仰天するほど高くなるのだ。
なぜ、著作権印税徴収代理店(?)がふたつあるのか?
色々因縁があるらしいが、長老たちの間では、映画はシナリオ、放送は放送作家脚本という差別意識のようなものがあるらしく、なんとなくいがみ合っているような気が僕にはする。
僕には、子供の意地の張り合いのような気がしてならない。
今時、TVと映画に差をつけるのはナンセンスだと思うし、ふたつが一緒になれば、もっと著作権印税徴収能力が大きくなると思うのは僕だけだろうか?
もっと問題だと思うのは、放送を含めた日本の映像業界におけるアニメの地位の低さである。
少なくとも日本では、DVDなどの二次使用、海外から入るべき著作権収入を考えれば、実写よりもアニメの方がずっと多いはずである。
にもかかわらず、日本脚本家連盟にしても、日本シナリオ作家協会にしても、アニメを低く見ている傾向があるような気がする。
このままアニメを低く見続けていると、低い才能しか集まらなくなる。
日本の映像業界で、かなり頼りになっていたはずのアニメだが、100年に一度の不景気でこの先どうなることやら……。
アカデミー外国映画賞の「おくりびと」も結構だけれど、アカデミー短編アニメ賞が日本のアニメだという事もお忘れなく。
つづく
■第180回へ続く
(09.04.01)
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