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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第180回 ポケモンの涙とミュウツーの記憶抹消

 『ミュウツーの逆襲』のクライマックスで、ポケモンのバトルを止めようとしたサトシは、ミュウとミュウツーの戦いの間に割って入り、両方の攻撃を体に受けて倒れ、石になってしまう。
 人間が、ポケモンのバトルを止めさせようとすることなど、ありえない。
 まして、サトシはポケモンをゲットし、戦わせるポケモントレーナーなのだ。
 それまで戦っていたポケモン達は、戦いを止め、倒れたサトシを見つめる。
 サトシのピカチュウは電撃でサトシの息を吹き返させようとするが効果はない。
 ピカチュウの目から涙が落ちる。
 ピカチュウの涙だけでは、どうにもならない。
 ピカチュウの涙のわけは、前回も書いたが、単に友人であり飼い主であるサトシを失ったからだけではない。
 余計なことかもしれないが、動物の多くは涙腺を持っているが、それは目を保護する機能であり、喜怒哀楽、つまり感情に左右されて涙を流すのは人間だけだといわれている。
 なんでも、同じ人間の流す涙でも、人間の感情によって流される涙は、目の機能として出てくる涙より、タンパク質が濃いそうである。
 その理由は、今のところ分かっていないそうだ。
 僕も、子供の頃、動物が好きだったので身近な動物を観察していたが、動物は、痛みで涙を流すことはあるかもしれないが、感情で涙を流すことはないと思っている。
 コミックやアニメなどで擬人化されている動物を見て、我々は動物の涙を見慣れているが、僕自身は、動物に感情による涙はないと常識的に考えている。
 まして、僕はいわゆる「お涙ちょうだい」シーンは、苦手である。
 だから、僕の脚本で涙を流すシーンや、まして号泣シーンはほとんどない。そんなシーンがあるとすれば、よほど涙が必要な場合だけである。
 だが、『ミュウツーの逆襲』では、ピカチュウの涙につられるようにポケモン達の涙が大量に流される。
 僕としては、どうしても必要だから「涙」を書いたつもりである。
 つまり、ポケモンは、感情によって涙を流せる、人間に近い生き物なのである。
 もともと、ゲームのために作られた架空の生き物だから、現実の生き物とは違う。
 現実の生き物と人間との間に位置する生き物と僕は考える事にしていた。
 だから、ポケモンという生き物をアニメで描くときに、当初、人間とは違うそれぞれの価値観や感性を持たせかったのだが、視聴者に分かりにくくなるので止めた経緯がある。
 『ミュウツーの逆襲』の場合、「自分とは何か?」「自己存在の証明」「差別」などを意識するとなると、ポケモンは、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」ではないが、人間――それも近代の――にかなり近い。
 もっとも、そんな難しそうな哲学的なことを言い出して、その答えが「ともかく、生きているんだからいいんじゃない」では、肩すかしかもしれないが……。
 ところで、『ポケモン』アニメは、バトルや育成や収集を中心にしているゲームには出てこない描写が必要になることが多い。
 例えば、食事。
 生き物がポケモンと人間しかいない世界で、人間やポケモン達は何を食べているのか?
 メインキャラクターのタケシは料理が得意だが、いったい何を料理しているのか?
 アニメ化当初、かなりスタッフの間で問題になったのだが、結局ポケモンが人間に飼われている時は「ポケモンフーズ」や木の実を食べ、人間はうやむや、野生のポケモンは不明ということになった。
 正直な話、視聴者からそこを突かれるとつらいところである。
 今、僕の関わっていない、放映されているTV版や映画版で食物問題がどうなっているかは知らない。
 で、涙である。
 『ミュウツーの逆襲』で、ポケモン達が流す涙とは、どういう意味の涙なのか?
 サトシのピカチュウの必死さにもらい泣きしたわけではあるまい。
 自分は戦いの道具として使われているのに、その主人の石化に涙するなど……ピカチュウさん、あんた、ポケモンとして、おかしいんじゃないの?……と思うのが普通ではないか?
 まして、このバトルは、ポケモン自身のそれぞれの自己存在を賭けた戦いである。
 いつものポケモントレーナー達の勝敗とは関係のない戦いなのだ。
 そこに人間の、それもポケモントレーナーがしゃしゃり出るのは余計なことである。
 人間がポケモンの戦いを止める……? ミュウツーも驚く。
 だが、それがポケモン達が涙を出して泣くほどのことか?
 それでも、ポケモン達は涙を流す。
 ポケモン達の涙のわけは、何なのか?
 主役のサトシの息を吹きかえらせるためのご都合主義か?
 この映画の観客を感動させるあざとい演出過剰か?
 どう取られても、それは、観客の勝手である。
 ただ、涙嫌いの脚本家としては、この涙には別の意味がある。
 喧嘩なんてものは、結局、互いの自己存在の証明の暴力的な表現である。それが口喧嘩、論争にしても、本質は同じである。
 「自分とは何か」などは、自分で思えばいい事で、それだけで、自分は存在している。
 それがいつしか自己存在を証明したくて、「お前とは違う」「お前より強い」になり――現代なら「お前より名誉を持っている」、いや、なにより「お前より金持ち」が存在を決めるのか?――相手の存在を互いに認め、自分の存在だけをまっとうすれば、喧嘩も、バトルも、さらには戦争もないはずである。
 本来、生き物は、そうやって生きてきた。
 人間に似ている生き物のポケモンも、そこは人間よりも生き物だった。
 野生動物のテリトリーや食をめぐる戦いは、戦いに見えても生きるための最低限の行動で、喧嘩ではない。
 だが、『ミュウツーの逆襲』のポケモン世界の中では、ポケモン同士が本物とコピーの違いで喧嘩している。
 ポケモンという生き物にとって、それは、いつもはあり得ない悲しいことだ。
 人間においても、自分が傷つかないゲームはともかく、喧嘩は楽しいものではない。気分は高揚するが――そこが困ったものだが――喧嘩やバトルは、勝っても負けても悲しい。
 僕だけの感じ方かもしれないが――いや、昔は喧嘩早いと言われた僕ですらそう感じていたのだから、多くの人がそう感じているだろうと思う。
 ともかく、喧嘩やバトルによる自己存在の証明は、空しいし悲しい。
 誰かに止めてほしい。
 それを感じていても、決着がつくまで終わらない。
 そこに、喧嘩とは関係のない第三者が現れる。
 「そんな喧嘩は無駄だ。意味がない。止めろ!」と叫びながら……。
 人間の喧嘩なら、「お前に関係ない喧嘩だろう」と逆切れされて、喧嘩している両者からひどい目にあう者もいるだろうが、ポケモンは人間よりも生き物に近い動物だと僕は仮定していた。
 喧嘩しているポケモンは、喧嘩をやめさせてくれる何かが欲しかった。
 そして、それが思わぬところから現れた。
 それが、そもそもの喧嘩の原因であるポケモンのコピーを作った人間の、それもポケモンを戦わせ勝つことを目指すポケモントレーナーだった。
 戦いを止める者としては矛盾した存在だが、それだけに、貴重で消えてほしくない存在だ。
 だが、サトシはコピーと本物のポケモン同士の存在証明の戦いを止めさせようと飛び出してきて、今、石になってピクリとも動かない。
 存在するはずのない種類の人間がいて、しかし、もう息をしていない。
 「自分たちの戦いでとても大切な存在を失った」
 悲しい……喪失感の悲しさが涙になる。
 ポケモン達の涙は、同情でも憐れみでもない喪失感なのである。
 その涙に、コピーも本物も違いはない。
 そして、そんな涙が集結して喪失したものが蘇る。
 喜びが集結して何かが生まれることもあるが、悲しみが集結して失ったものが息を吹き返すこともある。
 喪失感の悲しみと集結を、アニメとして表現するのに涙が適切であったかどうかは分からない。
 ただ、僕が他に思いつかなかっただけである。
 さらに、バトルフィールドに上空から光が差し込むアニメ表現があるが、演出効果として必要だったのだろう。
 ミュウツーにとってポケモンに涙はないはずのものだった。
 だが、現実に涙を見せつけられるのである。
 そして、その場で涙を流しこそしないが、自分の中にも涙があるはずだと思う。
 コピーのポケモンの流した涙を、同じコピーである自分が持っていないはずはないのだ。
 さらに、たとえ、サトシのように本人に自覚がないかもしれないが、潜在意識の中でバトルを否定する人間のいる事を知った。
 だが、自分はどうか。自己存在を証明するためにバトルを志向しすぎたのではないか。
 自分は存在している。それで、充分ではなかったのか?
 それなのにミュウツーは、自己存在の証明のために、コピーのポケモンを作りだし、幻のポケモンといわれているミュウまで誘い出し、壮絶なバトルを繰り広げてしまった。
 「自分とは何か?」の答えをミュウツーはまだ、見つけだしてはいない。
 しかし、コピーポケモンを作りだして、そのコピーが存在している事は確かだ。
 ミュウツーは、彼らの存在に責任があるのだ。
 コピーの存在自体はいまさら変えようがないのだ。
 今日の戦いは、サトシの思わぬ介入でひとまず終わった。
 しかし、コピーの存在がある以上、また、どこかでいつか戦いが起こるだろう。
 日常的に行われているポケモンバトルに加え、さらにコピーと本物のポケモンバトルが増える。
 その時、サトシのような人間がいるだろうか?
 しかも、サトシは子供であり、意識的に戦いを止めようとしたのかどうかも分からない。
 ミュウツーは、自分を作りだした人間を信じてはいない。ただ、サトシのような人間のいる希望は持てる。
 いつか、コピーをコピーとしてではなく、本当に存在する生き物として認知してくれる日まで、コピーの存在は世の中に知られないほうがいいのかもしれない。
 自己存在を否定するのではなく、コピー達の自己を存在させるためには、コピーという存在の記憶を世の中から消すしかない。
 本物のポケモンであるミュウも幻のポケモンと呼ばれている以上、幻のポケモンでい続けたい。
 こうしてミュウツーは、『ミュウツーの逆襲』で起こった事をなかった事にして、みんなの記憶から消してしまう。
 「ミュウツー、我はここにあり」と言える日まで……。
 もちろん、当時は、そんな続編の作られることは決まっていなかった。
 しかし、ミュウとミュウツーとコピーポケモンの存在を忘れない人もいる。
 それが、この映画を観た観客の方達である。
 ミュウツーの物語は『ミュウツーの逆襲』という映画の中で存在している。
 赤塚不二夫氏ではないが「それでいいのだ」である。
 『ミュウツーの逆襲』の初稿ができた時、まだポケモンのピカピカ事件は起きていなかった。
 この脚本は賛否両論だった。
 特に、製作上層部から否定論が降りかかりそうだった。
 暗い、重い、派手さがない、冒険活劇のわくわくする高揚感がない。
 製作上層部から直しの注文が続々出そうな気配だった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 僕の脚本著作権に対する私見を言う前に、ともかく事実だけを先に書いておこうと思っている。
 僕は日本脚本家連盟に所属しているが、正直な話、小田原に長く仕事場を持っていたことと、昔、脚本の著作権の範囲について、日本脚本家連盟の幹部の方達と若干の意見の食い違いがあった事、体調のよくない事も手伝って、連盟の活動に対して熱心なほうではない。
 僕が関わった作品の中には連盟の手の届かない、または、手の届きにくい契約もあって――それは、脚本家にとって不利な契約ではない――その処理だけでも手間取り、うんざりしていて、他人さまの関わっている不利な契約にまで口出しする余裕がなかった。
 だから、現状のアニメ脚本家の著作権状況を、きっちり把握しているわけではない。
 協同組合日本脚本家連盟は同時に社団法人日本放送作家協会でもあり、会費は両方取られているから、著作権に関してどっちが管理しているか、申しわけないのだが最近まで区別がつかなかった。
 毎月、送られてくる支払明細書を改めてみると「協同組合 日本脚本家連盟」と書かれてあるから、「あ、そうなんだ」ってなもんである。
 日本放送作家協会は、簡単にいえば親睦団体のようなものらしい。
 ちなみにある月の明細書の一番上段にある一作品の一脚本を例にとると、DVDのセル版で、市販された本数が書かれ、支払額23,463円から手数料+消費税+源泉徴収税を引いた額が差引支払額20,320円で、ともかく3,143円引かれて僕の取引銀行に振り込まれている。
 これ、たまたま手元にあった明細書をそのまま書いている。
 源泉徴収税は2,346円とあるから、支払額の10パーセントは、少なくとも手数料を取られる前に源泉徴収として納めている訳で、その後、手数料が取られているらしく、そこいらの計算がどうなっているのか、聞けば詳しく答えてくれるだろうが、いちいちそんな面倒くさい事はしたくないので、そのままいただいている。
 実は会員の名前や連絡先を載せた年鑑が毎年一冊送られてきて、使用料規定とか管理委託契約とかがそれに載っているのだが、この種の書類の常で、僕のように頭のよくない人間には読んで分かりやすいものではない。
 年に6、7回、「脚本家ニュース」という新聞のようなものが送られてきて、それには脚本使用許諾という名で、脚本使用料を払ってもらった作品と脚本家の名がずらりと並んでいる。
 年に一度、理事とか監事の選挙がある。
 時々、その人たちの部会が行われている。
 他の加入している脚本家の方の多くも、脚本家連盟に対する知識としてはそんなもんだろう。
 大昔、協同組合日本シナリオ作家協会にも入っていたが、そこも、社団法人シナリオ作家協会などという親睦団体のようなものがくっついていたような記憶がある。
 シナリオ作家組合も、たぶん著作権使用料支払いは脚本家連盟と似たようにしているのだと思う。
 そういえば、年鑑の代わりに手帳が配布されていた。
 手数料のパーセントが脚本家連盟とシナリオ作家組合とでは違うらしいが、自分の所属している日本脚本家連盟の手数料のパーセントも忘れているぐらいだから、シナリオ作家組合が今どうなっているのか、僕が知るわけがない。
 かくのごとくアバウトであるから、僕が書いている事に事実と違いがあれば指摘してください。確認を取ってすぐ訂正します。
 たまに、脚本家連盟とシナリオ作家組合のどちらにはいったらいいのか、と若手の脚本家さんから聞かれる事があるが、「自分で調べて決めてください」と答える事にしている。
 もっとも僕は、現在シナリオ作家組合には入っていないから、そちらの加入の推薦人にはなれない。
 日本脚本家連盟は日本放送作家協会という団体がくっついているぐらいだから、脚本と言っても、ドラマ、アニメだけでなく、バラエティなどの構成作家の方達も入っている。
 当然、人数は日本脚本家連盟のほうが多い。
 日本脚本家連盟と日本シナリオ作家組合が一緒になれば、何事にも効率がいいと思うと以前書いたし、事実、昔、文化庁あたりから、そういうお達しがあったような記憶があるが、今となっては不可能だろう。
 TV脚本と映画脚本は違うなどという長老たちの意地の張り合い以上に、両者それぞれが、雑誌や脚本の本を編集・発行し、それぞれ、脚本家や放送作家を養成する学校を持っていて営利団体の一面がある。
 放送媒体が増えた昨今だし、DVDなどの脚本の二次使用で入る手数料も少なくない。
 それぞれの利害関係がぶつかって、もはや合併など夢のまた夢のような気がする。
 僕が語れる事実はこんなところである。
 で、現在のアニメ脚本家の問題は、著作権に対する意識なのだが、僕と脚本使用料徴収組合との出会いあたりから、いささか私見を含めながら書いていこうと思う。
 どうも、最近、権利をお金に換算している方が多いようで、それってちょっと違うような気がする。

   つづく
 


■第181回へ続く

(09.04.08)

 
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