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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第181回 『ミュウツーの逆襲』前夜

 映画『ミュウツーの逆襲』の英語版を見ると、僕の名前が WRITTEN BY TAKESHI SHUDOU とタイトルされていて……WRITTEN といえば作という意味合いが強く、普通の場合は脚本、つまり SCREENPLAY BY だろう。事実、日本語版は、脚本 首藤剛志、である……なんとなく面映ゆい気分にさせられる。
 『ミュウツーの逆襲』のストーリーや台詞を考えたのは、確かに僕であるには違いないのだが、部分では僕が書いていないシーンが入っている。
 『ミュウツーの逆襲』の脚本第1稿は、賛否両論だった。暗くて重く、爽快感がないという否定論には、言い返す言葉がない。
 僕自身、この作品を明るく軽く気分がすっきりする冒険活劇にする気はまるでなかったからだ。
 映画が企画された当初は、明るい冒険活劇という意見もあったが、ミュウツーを主役にすると決まった以上、僕には、ミュウツーの登場する痛快冒険活劇など、考えられなかった。
 『ミュウツーの逆襲』の場合、簡単なプロットも脚本会議の了解を取って書き始めている。
 それでも、でき上がった脚本の暗さ、重さには否定論が出ていたようだ。
 僕に対しては、直接に否定論を言ってはこなかった。否定論で脚本の訂正を求められたら、僕は脚本を丸ごと持って降りてしまうかもしれない、と思われたのかもしれない。僕自身は、それほど過激な脚本家ではないつもりだが、頑固で破滅型だと他の方から思われていた節はある。
 プロデューサーやスポンサーと意見が合わず、作品途中で降りかけたり、事実降りた作品もいくつかあったことも確かだからだ。
 もっとも、そのほとんどが喧嘩ではなく、円満な話し合いの結果による続投や降板だったつもりなのだが(つまり、僕としては、僕の存在がその作品にとってよくないと思う時に、なぜか体調も悪くなり、誰が止めようと降板するわけで、僕の存在がその作品に欠かせないと思えば、なんだかんだと口でごまかしつつも、体調がよくなり続投する)、噂では、僕という脚本家は、怒りだしたり気に入らないことがあると、何をやりだすか分からない脚本家と呼ばれている節があるようだ。
 僕が降りた作品にしろ続けた作品にしろ、関わったことのある作品は、それなりに話題作になったり、ヒット作になっているようだから、降りた作品にしても続けた作品にしても、それらの作品にとっては、結果的にはよかったのではないかと僕は思うことにしている。
 僕の耳には届かなかったが、『ミュウツーの逆襲』の第1稿への否定論は、総監督には届いていたようだ。
 脚本を提出してから数日後、総監督から連絡があり、演出上加えたい部分があるから、脚本をデータにしたフロッピーを貸してくれという。
 総監督も僕も、当時Macを使っていたので、データの互換性に問題はなかった。
 総監督は、脚本の中盤を書き加えた。
 そのシーンが、サトシが、ミュウツーのブラックボールに捕まったピカチュウを助けるアクションシーンである。
 中盤に派手目な活劇シーンを入れ、『ミュウツーの逆襲』の暗さと重さを軽減させようとしたのだろう。
 ただ、そのアクションのために、サトシとピカチュウとの友情と絆が、強調された観はあった。
 クライマックスの涙に、いささかセンチメンタルの度合いが増えた感じがする。
 だからといって、総監督が『ミュウツーの逆襲』のメインテーマを見失ったとは思えない。
 ミュウツーの声に「オペラ座の怪人」の主役であり、シェークスピア劇を自在にこなす、演劇界では有名だがアニメや映画やTV界では無名に近い市村正親氏を推薦したのは、他ならぬ総監督自身だったからだ。
 それでもまだ、上層部の、『ミュウツーの逆襲』の持つ暗さ重さへの否定論はぬぐいきれてはいなかったようだ。
 だが、そんな時、TV『ポケモン』のいわゆるピカピカ事件が起こった。
 映画どころか、TV番組の存亡、「ポケモン」のゲームの人気にも影響を与えかねない大事件だった。
 上層部としては、映画に関わっている余裕などない異常事態だったろう。
 まず、事件の翌週からTV放映が中止された。
 本来、『ミュウツーの逆襲』は、TVとリンクされるはずだった。
 つまり、TVの『ポケモン』の中でミュウツーは紹介されているはずだったのである。
 映画『ミュウツーの逆襲』の脚本も、ミュウツーは、すでに観客が知っているポケモンとして描かれていた。
 今、DVDなどに残る『ミュウツーの逆襲』のメインタイトル部分から始まるように脚本は書かれていたのだ。
 TVの『ポケモン』が、再開されるかどうかも分からない。
 しかし、上層部……特に御前様とあだ名される方は……TVの再開と映画の上映を確信していたらしく、映画の制作にストップをかけなかった。
 だが、『ポケモン』のTV放映再開が決まらない現状で、TV放映でミュウツーの存在、さらに伝説のポケモン、ミュウのいることを観客に知ってもらうのは無理である。
 さらに言えば、海外に持っていくというもくろみのある『ミュウツーの逆襲』をTV放映とリンクさせることに、僕はもともと賛成ではなかった。
 海外では、日本と同じペースでTV版が放映されているわけではない。
 放映開始時期も違うはずである。
 TVを見ていないと映画が理解できないのは困るのだ。ゲームを知らないと映画が分からないのも困る。
 『ポケモン』のファーストムービーは、TVを見ていない、ゲームも知らない人にも通用する映画でありたかった。
 そして現実に、映画の中でミュウツーの存在を説明せざるを得なくなった。
 TV放映が再開されても、ミュウツーが登場するエピソードまで放映が届かないのだ。
 だが、ただミュウツーのことを説明するだけでは、本編前のダイジェストにしかならない。
 それは映画ではない。
 ミュウツーの説明が、一本の映画の一部として機能していなければならない。
 そのためにメインタイトル前に、テーマをぶちこむ奇手を使う事にした。
 うれしいことに、そのテーマを語れる役者を総監督が用意してくれていた。
 シェークスピアの劇作を表現できる役者だ。市村正親氏である。
 シェークスピアの劇は、(世界の他の著名な劇作家の作品もそうだが)それこそ世界中の言語で翻訳される。日本でも、何人もの方が違う単語で訳している。
 しかし、言葉は違っても、その台詞が「何を言おうとしている」のかは分かる。
 喋っている台詞の意味がストレートなのだ。
 だから、どこの国の人にも理解でき、「感動」――この単語、少し日本では安っぽく使われ過ぎている。「自分の心が揺れる」という表現が近いと思う――もできるのである。
 テーマがストレートというのは、別にシェークスピアだけではない。ギリシャ悲喜劇だってそうだろうし、僕が偉そうに例を引くまでもなく、皆さんが学校の教科書で習うような文学作品、演劇作品のほとんどがそれにあてはまるだろう。
 僕個人は、ストレートな表現や台詞は照れくさいと思うタイプである。
 自分の脚本や小説を読み返してみても、どこか、素直じゃないと思う。
 しかし、『ミュウツーの逆襲』のメインタイトル前は、ストレートにやってみた。
 その必要があると思った。
 せっかく、ピカチュウを救おうとするサトシという、爽快感を狙って書き加えられた中盤のアクションを、また暗く重く引き戻したように思えるファーストシーンになったかもしれない。
 僕は、「自己存在への問いかけ」や「生きることって何?」というテーマが、暗いとも重いとも爽快感がないとも思ってはいないのだが……。
 日本で最初に上映された『ミュウツーの逆襲』は、そういう状態だった。
 現在DVDなどで見る事のできる『ミュウツーの逆襲』はさらにその前に、ミュウツーの生い立ちのようなものが付属している。
 「ミュウツーの誕生」のラジオドラマをダイジェストして映像化したようなものである。
 「ミュウツーの誕生」は、主として映画版のPRとしてラジオ放送されたラジオドラマだった。CD化もされている。
 「ミュウツーの誕生」はクローンとして生まれた人間アイとミュウツーの交流で、『ミュウツーの逆襲』のクライマックスで、分かりにくかったかもしれない「涙」を、実はミュウツーも自ら経験していたという話である。
 そして、幻のポケモン、ミュウを追い求める人間の話でもある。
 僕としては、あくまで『ミュウツーの逆襲』という映画が分かりにくい方達への、補足的サービスラジオドラマのつもりで書いたのだが、「ミュウツーの誕生」のほうが、『ミュウツーの逆襲』より面白いと言われる時もあり、まあ、それもいいかな……と何となく複雑である。
 クローンの少女アイは、『ポケモン』映画3作目の主役的少女ミーにつながるキャラクターである。
 いうまでもなく英語の自分を語る「I, MY, ME」なのだが、「I」という単語は「ME」より存在感が希薄な感じがして「ミュウツーの誕生」の少女の名前をアイにした。
 「ミー」は「アイ」より聞いた感触に自意識の高いものを僕個人は感じている。
 余計なことだが、僕の娘は通常、周りから「ミー」と呼ばれている。
 三穂という名前なのだが、略して「ミー」である。
 「ミュウツーの誕生」では、幻のポケモン・ミュウを追い続けるロケット団のムサシの母親が登場するが、映画版2作目の悪役的コレクター・ジラルダンにつながっていく。
 このラジオドラマの脚本も賛否両論だった。
 暗い、重い、爽快感がないというのである。
 「皆さんの感想はどうでした?」と僕が聞く。
 「賛否両論でして……」
 僕から聞かれたプロデューサーは、そう答えてくれる。
 本人に面と向かって「否定論ばっかりでした」という人は、そう多くはいない。
 だから僕としては、「賛否両論」といわれたら、圧倒的に否定論の方が多かったのだと思うしかない。
 もともと無口な総監督も、『ミュウツーの逆襲』に対して、無口だった記憶がある。
 やがて、でき上がった『ミュウツーの逆襲』の試写会が行われた。
 作った当事者の一員である僕は「……」である。
 ま、当たり前である。
 でき上がった作品を見て、「いいものができた」と胸を張れるのは、よほどの自信家である。
 悪いところばかりが気になり、「こんなはずではなかったのに……」と頭を抱えるのが常である。
 そこに、関係者の感想が聞こえる。
 「賛否両論でした」
 それどころではない。
 「こんな暗い、重い、ろくでもないものを作りやがって……」
 ピカピカ事件の記憶が残っているだけに、その上、こんな重くて暗いものを作れば「ポケモン」の命取りになる。
 それまでは、直接、僕の耳には聞こえてこなかった『ミュウツーの逆襲』の脚本への批判が聞こえ出していた。
 ほめられればうれしい。けなされれば頭にくる。
 人情である。
 でもまあ、僕の場合、ものを書き始めて今まで、書きたいと思えるものしか書いてこなかったのだから、脚本の悪口を言われたって自業自得である。
 もともと『ポケモン』の場合、依頼された脚本である。
 でも、書きたいように書いてしまった。
 もちろん、『ポケモン』というアニメによかれと思って書いたことである。
 依頼者の方達が、できた脚本が気に入らなければ、さっさと身を引く覚悟はできていた。
 どんな作品でもそうだが、自分の書いた作品の評価に対しては、首を洗って待っている。
 首藤の首をとったらどうなる?
 中学校の化学の先生から聞かれたことがある。
 答えは「藤しかのこらない。つまり、胴しかのこらない。ただの躯さ」
 気の利いたことを言う化学の先公だと思ったが、確かに、僕から首をとったら、役に立たない汚らわしいモノでしかない。
 「ま、首がなけりゃどうでもいい存在である……ともかく、脚本家としてはやることはやったんだから後はどーでもいいや」
 そんな事を考えていたのを覚えている。
 そして、ポケモン映画第1作『ミュウツーの逆襲』の一般公開の日が来た。
 正直言ってびっくり仰天の結果になった。
 当時を知る人は、記憶に残っているかもしれない。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本家の著作権について、このところ書いている。
 僕は著作権に対して、他の脚本家の方より図抜けて詳しいわけではない。
 ただ、権利は権利として、さほどしつこいわけでもなく主張していたら、いつの間にか、権利にうるさい脚本家の1人にされてしまったようである。
 で、まあ、このコラムを担当させもらっている以上、この際だから、いろいろ知識を仕入れていると、変なことが多すぎる事に気がつく。
 そもそも、山のように出版されている脚本の書き方などという本も、このコラムを書き始めて読み始めたぐらいで……もう100冊以上買って、役に立ちそうな本はほとんどないというのはどういうことなのだろう?
 いわゆる、過去のほんの一時期、シナリオの学校に通った覚えがあるが、脚本を書く上で役に立ったことを教えられた覚えはない。
 ただ、先輩にあたる脚本家や、脚本家になりたい人たちから酒をおごられて(先輩から言えば、僕に酒をたかられて……)、いろいろな人生観を聞かされて勉強になったことは確かである。
 けれど、脚本の書き方を教わった覚えは、正直言ってない。
 でも、脚本家を職業にしている、もしくは目指しているとても素敵な人達と、数は限られるが出会えたことも否定できない。
 ……そんなこんなは、別の機会に書くことにして、脚本家の著作権である。
 今現在、アニメ脚本家の著作権は認められている。
 とはいえ、アニメの製作会社によっては、脚本家の著作権に対して意識が希薄な会社、分かっていてもとぼけている会社、いろいろあるようだ。
 著作権使用料を徴収する徴収組合も、音楽におけるJASRACほど、しっかりしているとは、いいがたい部分もある。
 そんな現実を知らされて、げんなりしてしまう。
 まず、脚本家の立場から考えてみよう。
 あなたが脚本家と呼ばれるようになって、シナリオ組合、脚本家連盟、どちらかに加入したとする。映像が再放送され、DVDになると、まあ、普通は著作権料、ないしは二次使用料が入ってくる。
 アニメは実写と比べて、時代に左右されない(つまり、昔の60年代、70年代の実写は、風俗からしてみても、今に通用しない場合が多いが、アニメに描かれる時代はいつの時代にも通用する可能性がある)。国籍にも左右されない(『サザエさん』のように、いかにも日本を感じさせるものでもない限り、どこの国にでも通用する可能性がある)。
 現実に、僕が書いた30年以上昔のアニメが、どこかの国で放映されていて、わずかな額にしろ、その版権料が、しっかりした制作会社の作った作品なら、僕の手元に入ってくる。
 アニメは、日本の実写映画をはるかに超えて、時代を駆け、国籍を超え、全世界に通用する可能性がある。
 だから、著作権徴収組織には、もっと時代や海外を注視しろといいたいのだが、そもそも、著作権使用料とは、その作品が売れなければ、入ってこないものである。
 となると、脚本家は売れる作品を書けば書くほど金銭的には潤う。
 じゃあ、売れる作品ってなんなの?
 お金を儲けるためなら、売れる作品の脚本を書いたほうがいい。そりゃ、当然の考えである。
 しかし、脚本の著作権問題は、ビデオもない、DVDもない、海外販売もない時代から続いていた。
 ほとんど、儲けなしの時代から続いていたのである。
 演出家や監督は、今も、権利を持っていない方が多い。
 それなのに、なぜ脚本家が権利を主張できるようになったのか?
 僕が、脚本家の著作権を意識するようになった頃、その頃はまだビデオ販売もDVDもなかった。
 自分が脚本を書いたアニメが海外で売れるなど考えてもいなかった。
 それでも、著作権は作家本人が持つべきだと思った。
 つまり、著作権とは、金銭とはあまり関係のないものだったのである。

   つづく
 


■第182回へ続く

(09.04.15)

 
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