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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第193回 『ルギア爆誕』への期待と僕の納得

 『ポケモン』の映画2作目「X爆誕」まで数十年、いろいろな脚本、小説、舞台ミュージカルなどを書いてきた。
 僕自身を客観的な立場において、自分の書いたものを評価したら、出来不出来はあるのは確かだ。
 だが、いろいろの作品の制作状況によって僕なりのテクニックを弄して工夫したものはあるが、基本、自分の感覚が納得できるものしか書いてこなかった。
 いまさら何を言うかと思われるだろうが、しばしばこのコラムに書いたように、僕は書くという行為が、嫌いである。
 僕自身の感覚が納得できないものを書こうとすると、不思議なことに体調が悪くなり、食欲もなくなり、眠れなくなる。
 酒で感覚を鈍らそうとしたり、精神安定剤を飲んでみたり、いろいろ自分の感覚をごまかそうとしたこともあった。
 もっとも、酒の場合、明らかに感覚が鈍るのだが、感覚に迷いが生じたときに、一定方向に感覚を集中できることもあり、ふと新しいアプローチの方法が浮かんだりすることもある。
 しかし、基本、薬物である酒は体を痛めつける。おまけに身体が依存しやすい薬物である。
 依存症になると自分の意志では止められなくなる。
 で、僕はと言えば、どうやら、ぎりぎりの状態のようである。
 依存症であるという医者もいれば、依存症を装っているという医者もいる。
 身体が危なくなると都合よく酒も薬も辞めちゃうのである。
 限度を超えたと体が訴えると自主入院してしまう。
 が、仕事の都合や、気まぐれで、よく飲みだしたりもするから、本質的には依存症なのだろう。
 しかし、身体は僕の気持ちほど都合よくできていないから、身体の調子は悪くなる一方である。
 若いころは体力任せだが、40歳も過ぎるころになると長年の不摂生も手伝って本気で体調が悪くなる。
 最近、アニメ関係の方が若くして亡くなるが、僕は、40歳過ぎのころから、アニメ脚本家の中で誰よりも先に死ぬとうわさされていたらしい。
 それが、生き続けていてなんとなく申し訳ない気に本気で襲われることがある。
 ところで僕は、『X爆誕』以前に、納得できない脚本を一度だけ書いた覚えがある。
 その脚本は、はじめてTV化された「大江戸捜査網」のエピソードである。
 最初にそんな脚本を書いたことは(この作品、実は自分で決定稿までいっていない。2稿目か3稿目で指摘された直しが感覚的に合わなくて放り投げようとしたところを、先輩の脚本家の方が、制作側の要望を組み込んで直してくれた。しかし、僕自身の名は、タイトルに出ていて、僕のデビュー作ということになっている。その直しをいまだに僕は納得できていない。もっとも、僕の脚本どおりに製作されたら、TVドラマの予算、スケジュールの範囲内でできっこないことも確かだった)、ある意味幸運であり、僕の脚本家としてもスタンスを決めたと言っていい。
 以後、僕自身の感覚が納得できないか、書いて納得できそうにない予感のあるものは避けて通るか、自分なりに相手に丁寧にお断りしてきた。
 基本、商業脚本は注文があって書くことになる。
 脚本家は、それが生活の糧になる。
 そこで、自分が納得できないものは書かないなどと言い出したら、生活していけない。
 でもまあ、僕はそれで今までやってこれたのだから、嘘のような話である。
 僕の書くものを面白がるこの世界の方々との出会いが、奇跡的によかったのだろう。
 僕の書くものを否定的に思う人と出会えば、僕自身、書く作業が嫌いなのだから、とっくにこの世界から消えていただろう。
 でも、よくよく考えると、注文で来た仕事の中に、自分の感覚が納得できる部分を見つけて、それを自分で拡大して表現する癖ができていたから、いままで書けてきたに過ぎないのかもしれないとも思う。
 つまり、やりたくないものは断るし、逆に、僕流を了解さえもらえれば、どんな注文がこようが、俺様流にしてしまう自信(過信と言われれば返す言葉はない)がどこかにあったのだろう。
 で、それらの作品の大ヒットを、(こけるのは困るが)さして望んでいないのだから気楽である。
 人はそれぞれ感性が違うと思いたい。
 それが、同じものにどーっと集まる大ヒットという現象は、その作品がどんなにすぐれていてもなんだか、レミングの集団自殺を誘発しているようで怖いのである。
 『ミュウツーの逆襲』は海外に通用させたいとは思ったが、大ヒットまでは望んでいなかった。少なくとも僕は、である。
 なんとなく、不気味な気持ちにさえ襲われた。
 ただ、アニメにしろ映画にしろ舞台にしろ集団の力の集結で完成される。
 スタッフ、キャストの情熱と能力の産物である。
 脚本家としてシリーズ構成として、やれるところまではぎりぎりやる気はあるが、でき上がった作品の出来不出来、視聴率、大ヒットするか不発に終わるかに対しては、意外に冷めている。
 僕の感性が納得すればいいのである。
 僕が脚本を書いた作品の出来が悪くても、いちおう怒ったふりはするが、スタッフ、キャストが不調なんだからまあしょうがないないんじゃないの……と、つきはなして見ている節がある。
 もちろん作品の出来がよければ、身勝手ながらうれしいのには違いないが、「よかったね。スタッフ、キャストのおかげです」程度で、有頂天になって喜びはしない。
 しかし、映画『ミュウツーの逆襲』のヒットまでにはいろいろなことがあった。
 僕の預かり知らぬところで、ゲームのアニメ化への危惧があり、さらにピカピカ事件があり、放送中止があり、その末の映画ヒットである。
 ヒットはしたが、アニメ化上層部には『ミュウツーの逆襲』への批判があった。
 重い、暗い、爽快感がない……上層部が望んだ内容でヒットしたわけではない。
 ヒット自体はうれしいだろうが、なんとなく釈然としなかったのかもしれない。
 爽快なアクションアドベンチャーなら、もっとヒットしただろう。
 それに、『ミュウツーの逆襲』は世界で一番ヒットした日本映画ではあるが、日本で一番だったわけではない。
 日本にはとほうもないヒットを記録した国民的アニメがある。
 本当のところはわからないが、御前様には、マルチメディアで子供たちの関心をあおりたてる彼のヒット理論(コミック雑誌で、その実績は確固たるものがある)で、日本の国民的アニメと競い合うことが意識にあったのかもしれない。
 『ポケモン』のヒットは、当然、2作目への期待になる。
 2作目映画の会議には、1作目以上の、さまざまな「ポケモン」関係のプロデューサー格の人々が集まった。
 誰もが2作目の1作目以上のヒットを望んでいたし、御前様は張り切った。
 ピカピカ騒ぎが収まりかけたときから、その兆候は目立っていた。
 1作目のラストには、新しいボールが映って2作目のあることを予告していた。
 予告のためのモンスターボールだった。
 なんじゃ、こりゃ? 僕はびっくりした。
 おそらく、2作目にこのボールから、すごいポケモンがでてくるという期待感をあおったものだろうが、実はこの新しいボールにどんなポケモンが入っているか誰も知らなかった。
 TV版で、主人公はこのボールを持って歩くことになった。
 しかし、スタッフの誰1人、このボールにどんなポケモンが入っているのかは考えていなかった。
 結局、このボール、主人公が持ち歩いただけで、持ち主と思われる人物に返して終わってしまった。
 どんなポケモンが入っていたか、おそらくいまだに誰も知らない。
 1作目のヒットが分かった時に、もう2作目のPRが始まっていた。
 2作目には、1作目を超える視覚的でスペクタクルな見せ場がほしい。
 それが、CGアニメの多用だった。
 国民的アニメにもCGは使われていたが、これ見よがしの使われ方はしていなかった。
 『ポケモン』2作目には見せ場としてのCGを使うべく、CG技術の開発が始まった。
 2作目の舞台は海である。
 しかし、10年以上昔のCG技術では、海、つまり水を表現するのは無理だった。
 実は、それ以前にもCGで水に挑戦したアニメがあった。
『青の6号』というアニメだが、そこに描かれた水はどろりとしたゼラチンのようだった。
 大あらしの荒れた水は、デフォルメしてアニメにしやすいが、ゆったりとした静かな海は、CGでも難しかった。
 それでも『ポケモン』映画2作目はCGを見せ場にしようとした。
 結局、サンプルは作られたが、そのCG画像は海には見えず、没になった。
 それでも、意地になったようにCG技術を研究し、さながらその後の『ポケモン』映画はCG技術の実験場のようになった。
 現在、『ポケモン』映画のCGは日本ではトップクラスだと思う。
 ただ、世界で見れば、CGアニメのトップとして、ピクサーのアニメが君臨している。
 ピクサーと仲がいいと噂されている国民的アニメは、CGは使っているかもしれないが手描きアニメで海を表現した。
 魚の女の子の登場する国民的アニメは、CGアニメ全盛の今、内容はともかく手書きの海が逆に斬新だった。
 『ポケモン』映画2作目の上層部は、2作目は監督と脚本家にまかすと言いつつも、張り切っていた。
 いつの間にか、本編と別に予告編も作られていたようだ。
 その予告編を僕は見ていないが、おそらくプロットを基にして作られたのだろう。
 このコラムの読者から、本編にないシーンが予告篇にあるという指摘があったが、アニメは絵コンテで上映時間が決まるから、実写映画のように余ったシーンが作られることはない。余ったシーンが出るほど時間的にも経済的にも余裕がないのが普通である。
 絵コンテは、脚本が決定稿になってから作られる。
 だから、本編にないシーンのある予告編があるとしたら、脚本が完成する前に作られたPR用としか考えられない。
 そんなやる気満々、期待度大の中で、『X爆誕』は作られようとしていた。
 しかも、そのXは、僕が映画用に考えたポケモンである。あとで、作られたゲームに出ているのを知って、少し驚いた。
 言い出しっぺの僕が、脚本を書き始めた途中で、その性別に納得できないのは、あきらかに自分の判断ミスである。
 しかも、大勢の集まる会議で決めたことだ。宣伝もGOしている。いまさら、Xを女性にはできない。
 自分の納得をとって感性を優先した脚本を書いても、クレームがつき、直しを要求されるだろう。
 酒と薬をがぶ飲みして死にたくなった。
 ところで、このコラムのため、『ルギア爆誕』を見直してみた。
 僕の感性が衰えたのかもしれないが、Xがオスかメスかはさほど気にならなかった。
 僕が追い詰められて、窮余の策、とっておきの、僕にとって『ポケモン』アニメで最も大切にしていたレギュラーが、かなりしっかり、テーマを支えてくれている気がした。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 脚本家の著作権の買い取りは、雪崩のように続いているようだ。
 不景気になって、アニメのDVDの売り上げも減ってきている。
 今、TV放送だけで、アニメの製作費はペイできない。
 DVDの売り上げが目当てでアニメを作っているアニメ会社も多い。
 それどころか、DVD宣伝用として、放送料をアニメ制作会社からとる放送局もあるらしい。
 DVDの売り上げが支えで、その売り上げが減っているとすると、DVDのアニメのクオリティの高いものが生き残ることになる。
 アニメを作るのは、情熱と熱意と能力である。
 アニメが売れるのは、キャラクターの魅力だという説もあるが、それを描き動かすのは人間である。
 制作会社の待遇が悪いと、その人間が逃げていく。
 昔『ポケモン』のシリーズ構成をしていたころ、メンバーの脚本家が僕に言った。
 「『ポケモン』ほど脚本家に待遇のいい仕事場はないですよ」
 で、当時、アニメコミックというのがあった。
 アニメでやっているエピソードをそのフイルムを使ってコミックのようにした本だ。
 エピソードのストーリーも台詞も脚本のものを使っている。
 当時、その種の本で,脚本家に著作権料が支払われたという話は聞かなかった。
 シリーズ構成として、プロデューサーに打診した。
 「アニメコミックの著作権はどうなっているんですか?」
 すぐに、各脚本家に著作権料が払われるようになった。
 外国で放送、上映された『ポケモン』アニメの著作権も、最初から支払われ続けている。
 脚本家に対して待遇のいいところは、他の部署のアニメ制作のスタッフに対する待遇もいいはずだと思う。
 ポケモンの脚本メンバーは、他の作品のシリーズ構成もできるプロぞろいである。
 僕はここで『ポケモン』アニメの内容を批評しようとは思わない。
 ただ、その脚本スタッフは、始まって10年以上しても、『ポケモン』を辞めた人はいないようだ。
 僕は、スタッフがボロボロ辞めていく会社を知っている。
 『ポケモン』は、多少の浮き沈みがあるだろうが、これからも続くと思う。
 スタッフへの待遇がいいからだろう。
 待遇がよければスタッフは離れない。
 スタッフの離れないアニメは、ある程度のクオリティは保障される。

   つづく
 


■第194回へ続く

(09.08.05)

 
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