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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第198回 『ルギア爆誕』ロケット団を目立たせたかったのはいいけれど……

 連休で1回、コラムをお休みしたので、いささか繰り返しになるが、『ポケモン』の『ミュウツーの逆襲』が「自分とは何か?」の問いかけがテーマだとしたら、『ルギア爆誕』は、登場するそれぞれが強烈に自己主張しながら、それが世界に生きるものの共存につながる、というちょっと聞いただけでは矛盾したテーマだ、という話から。
 共存という言葉を聞けば、誰もが、お互いを気遣って仲よくやっていこうというソフトなイメージを抱くだろう。
 しかし、共存するために相手を気遣ってこの世界にひとつしかない自分の存在を相手のために押し殺して生きるのが、本当の共存と言えるのだろうか?
 それぞれが自分の存在を主張しつつ、互いがこの世界でそれぞれ生きている。
 それが、僕は共存ではないかと思うのだ。
 極端な言い方に聞こえるが、自分があるがままの形で存在して、自分勝手な生き方をして、それでいながら他人もあるがままに生きている。
 何かと何かがある世界に共存しているということは、そういうことだと思うのだ。
 で、そんなことは不可能である。
 世界に誰ひとり、同じ人間……同じ存在の生き物はいない。
 それが自己主張をすれば、他の自己主張とぶつかる。
 そして弱い自己主張(自己存在)が負ける。
 弱い存在は消えていく。
 いささか、人間を対象にしたような表現になったが、弱い存在が消えていくのは、生物の世界でも同じである。
 さまざまな環境に適合(自己存在を主張する)することができなくなった生物は絶滅する。
 変化する環境に適合するために生物は進化するというが――いわゆるアバウトに説明した進化論――進化した生物は、元の生物の系列は継いでいるが、元の生物そのものではない。
 元の生物は、絶滅するか、仮に生き延びることができたとしても、それは極めて限られた環境の中でのみで、他の生物と共存しているとはいえないだろう。
 今、地球では1日に1種類の割合で生物が絶滅しているという。
 数十年前は、4日に1種類の割合だったそうである。
 絶滅生物は、どんどん増えている。
 変わりつつある地球の環境と共存できなくなったのだ。
 絶滅が急ペースになっているのは、人間が地球の環境を変えているのが原因のひとつであると言われている。
 その人間にしろ、日本人の普通の食生活で生きていこうとしたら、地球が許容できる人間の数は30億人だそうで、地球の人間の数はとっくに、その数の倍を通り過ぎている。今、人間の半分は飢餓状態にある。
 地球上での強者である存在の人間はネズミ算的に増えているから、そのうち自分たちが変えた環境と共存できなくなり、滅亡するだろう。
 環境破壊に警鐘を鳴らしても無駄である。
 自己存在を主張する人間という生物は、本来、人間に適したはずの環境を破壊しながら増え続ける。
 そして、絶滅する。
 今や日本の家庭に1個はあってもおかしくないほどたくさんあるといわれる地球上に存在する核兵器を爆発させなくても、人類は滅びる。
 余談だが、人類が保有する核の数には驚いた。広島・長崎から70年も経っていない。人間は最低限生きていくために必要のないものを作りすぎる性格があるようだ。
 もっとも、核兵器を使わなければ、人類が絶滅するのは、計算によると僕や孫の代とかかわりのない、ずーっと先のことだそうである。
 まだまだ人類には時間はある。
 それに人類が滅びたからといって、地球の生物が滅びるわけでもないそうだ。
 地球は過去、とんでもない規模の生物の大絶滅を少なくとも2度、経験しているそうで、それでもどっこい地球はびくともしない。
 その規模は、人類の絶滅などとは桁が違う大絶滅なのだそうである。
 人類という生物の種類の発生から滅亡までの期間は、たとえば恐竜が栄え絶滅した期間に比べたら、ほんのちょっとの時間にすぎないことになるらしい。
 なんだか、話が大風呂敷を広げて脱線気味になってきたが、つまり、自己存在を主張したがる人間という生物には、土台からして「共存」などという言葉は絵に描いた餅――意味のない言葉だという気もするのである。
 で、「共存」などという言葉に疑いを持っている僕が、「共存」について書いた脚本が『ルギア爆誕』なのである。
 人間は、「自己がなんであるか」をあまり考えもせず、自己存在を主張したがる生き物である。
 目立ちがりやな生き物と言ってもいいかもしれない。
 そして、自分の生きている世界の主人公は自分だと感じている。自分が世界の中心なのである。
 なんだか、誤解を招きそうな気がするので言いづらいのだが、この世界には神や仏という存在(?)がある。
 信じる人の中に、確かに神や仏は存在しているのだろう。
 しかし、その人が死んだら、その人の中の信じる神や仏は存在しているのだろうか。
 その神や仏は、信じる人が生きているから、その人の中に存在しているのではないか?
 つまり、その人が生きているからこそ、その人の世界があるのではないだろうか?
 その人が死んでしまったら、その人の世界は無である。
 他の人の生きている世界など、死んでしまった人にとっては無になってしまう。
 で、アニメ版の『ポケモン』の世界である。
 主人公は、ポケモントレーナーの少年とピカチュウということになっている。
 しかし、そんなことは誰が決めたのだろう。
 『ポケモン』の世界の登場人物にとって、生きているのがアニメ版『ポケモン』の世界ならば、その世界の主人公は自分であるはずなのである。
 ロケット団トリオにとって、アニメ版『ポケモン』の主役は自分達なのである。正確に言えば、ムサシ、コジロウ、ニャースそれぞれが自分が主役と思っている。
 いや、他の登場人物にとっても、アニメ版『ポケモン』の主役は、登場人物それぞれご本人のはずである。
 ところがアニメ版『ポケモン』の描き方はどう見てもそうはなっていない。
 描き手の視点が、主人公をポケモントレーナーのサトシとピカチュウにしている。
 これはけしからんではないか、話が違うではないか。
 そう僕に詰め寄る急先鋒が、ロケット団トリオである。
 ごもっともである。
 TV版アニメは、このコラムの『ポケモン』についての最初の頃に書いたように、少年の時代に持っていた心への回帰――つまり、「スタンド・バイ・ミー」を描くつもりだった。
 だから、主人公がサトシという少年という描き手の視点でもよかった。。
 しかし、アニメ映画まで、その調子でやられたら、他の登場人物の立つ瀬がない。
 アニメ『ポケモン』の主人公は、登場人物それぞれに権利がある。
 だから『ミューツーの逆襲』のテーマと主人公は、ミュウツーである。
 ちなみにゲーム「ポケモン」の主人公は、ゲームをするプレーヤーだろう。
 で、『ルギア爆誕』は、アニメ版でご本人たちは主人公のつもりでいたが、描き方の待遇が悪いロケット団が、こんどこそ私たちが主役だ、と僕の前にしゃしゃり出てきた。
 僕もそうしてやりたい。
 しかし、アニメ版でやられ役に甘んじていたロケット団トリオが主役だと、『ポケモン』のスピンオフ映画のようになってしまう。
 つまり、正統(?)『ポケモン』映画としては、ロケット団トリオの主役は無理がある。
 それでも、ロケット団トリオを主役級として目立たせたい気持ちは大いにある。
 だが、ただ目立つだけでは作品の中で浮いてしまう。
 TV版で主役クラスのサトシたちやピカチュウが脇に回ってへこんでしまうのも困る。
 だが、ロケット団トリオを作品のテーマの中で浮かずに目立たす方法がないわけではない。
 『ポケモン』世界は、サトシのためにあるわけではない。
 登場人物すべてが「ポケモン」の世界にいる。
 要するに、登場人物やポケモン、すべてが主役の作品にすればいい。
 その主役たちの中で、目立つ主役がロケット団トリオであれば、ロケット団トリオだけが主役の作品にはならない。
 要するに、『ルギア爆誕』を、主役クラスの個性的で魅力的な登場人物で埋め尽くせばいいのである。
 もちろん、TVアニメ版の主役サトシたちにも、いつものステロタイプの主人公と違った面を見せて、魅力的な登場人物として主役を演じてもらう。
 いつもとちょっと違うなという感じで、いかにも主役というタイプから、他の登場人物と同じような主役クラスに降りてきてもらおうと思ったのだ。
 そこまで考えて、プロット上の登場人物たちを見直してみた。
 それぞれ、自己主張の強い、悪い意味でなく自己中心的な登場人物にしたかった。
 それぞれが自分勝手な人物だ。
 だが、彼らや彼女たちはプロット上では、ただ単なるストーリー進行を助ける登場人物でしかない。
 書いた僕自身が、登場人物の人間像や個性まで、それほど考えていなかった。
 この作品の基本キャラクターであるX(ルギア)と、コレクターのジラルダンまでは、プロットを書く前から意識していたが、他の登場人物は、脚本を書いていればそのうち何とか動いてくれるだろうと思っていたのだ。
 だが、他の登場人物に主役級の個性を持たせようとしたら、それは簡単なことではなかった。
 それぞれの登場人物が経験した、映画には描かれないがそれぞれが生きてきた人生を考えなければならないからだ。
 その人生が生み出したそれぞれの性格……。それによって、それぞれの行動も、それぞれの台詞も変わってくる。
 とんでもないことになったと思った。
 この作品では、出番は少なくても、登場人物はそれぞれ主役なのである。
 キャラクターがかぶってはならない。
 もとはと言えば、ロケット団トリオを目立たせようとしたことからはじまったのだが、僕にとっては、とても大変なことだった。
 登場人物たちの生まれから、おいたちまで知っていて、僕自身の中でリアリティのある人間として存在させておかなければならなかったからだ。
 そして、その人物たちは、それぞれが違う人間であり、それぞれの自己存在を主張する人間でなければならなかった。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 いろいろ寄り道はしたものの、脚本家の著作権について、僕なりの意見を書いてきたつもりである。
 最近「アマルフィ」という日本映画に脚本家の名前がないということが問題になった。
 あるTV局の何十周年記念の織田裕二主演のサスペンス大作である。
 かなりヒットしているらしい。
 見どころは、ローマ観光とサラ・ブライトマンが唄う歌(この映画の主題歌ではない。この歌手の有名な持ち歌である。マイケル・ジャクソンで言えば「スリラー」のような感じの有名な歌である)。それしかない。
 綿密に計画されたような誘拐もテロも、実は誘拐された女の子がたまたま美術館のトイレにいったことから始まり……トイレに行かなかったらどうするんだろう。
 誘拐犯が身代金を交渉する場所は、ローマの観光地ばかり、観光客が多いから犯人が目立たないというつもりだろうが、そのぶん、私服の警官がまぎれこんでいる危険性も高く、まともな誘拐犯ならそんな場所を選ばない。
 僕はローマに行ったことがあるが、この映画の観光地の地理感はめちゃくちゃ。
 言いだすときりがないが、脚本(そんなものがあればだが)のすべてが、いきあたりばったりである。
 製作側の説明は、「実際に撮影の都合で、脚本のとおりにならなかった部分があり、脚本を書いた方が、名前を載せるのを辞退した」とのこと。
 ほんとうかな?
 僕も、脚本をめちゃくちゃに映像化されて、「脚本の名前を消してくれ」と言ったことがある。
 ところが、脚本家連盟は「ペンネームでもいいから脚本の名前はいれておいてください」という。
 映画の重要な収入源にDVDなどの二次使用がある。
 脚本家の名前がないと、二次使用の際の著作権料が取れないというのである。
 で、「却反内蔵」(きゃくほんないぞう)のようなふざけたペンネームをつけようとした(実際は、もっと作品の題名を皮肉ったペンネームにしたが……)。
 だから、どんなに脚本が変えられたとしても脚本にペンネームもない映画など、いまどきないはずなのだが……。
 どうなっているのだろう。
 いずれにしろ、莫大な制作費をかけた映画に脚本がないなんて、製作側も脚本家も、何を考えているのだろう。
 こういう映画を作る方も変だが、脚本を書いて名前の掲示を辞退した(ほんとうかどうかはわからないが)脚本家も、脚本軽視、または無視の姿勢があることは疑いがない。
 映像作品には脚本が重要であるとはもう言わない。
 ただ、こんな話を聞くと、呆れて、なんとなくすこしだけ脚本家という仕事がいやらしく感じた。

   つづく
 


■第199回へ続く

(09.09.30)

 
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