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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第200回 とうとう200回

 このコラム、最初は1年ほどの連載で終えるつもりでいた。
 それが、皆さんのご好意に甘える形で長々と続き、途中、病気などで、お休みをいただいたものの後1回でいよいよ200回という時に、3週も休載し申し訳ない。
 読んでいただいている方、アニメスタイルのスタッフの方に心からお詫びする。
 休載の理由は体調不良と言えないこともない――事実、行きつけの大学病院から何度か入院を勧められた――けれどその病院、渋谷の仕事場からタクシーで10分の距離にあり、不規則で無理な運動をしなければ通院でも治療は可能。基本の治療は点滴ぐらい。医者も無理に入院を強要しなかった。むしろ、入院していると仕事の資料調べやパソコンの利用に支障をきたすリスクが大きいと僕は自己判断し、今回は入院を辞退した。
 物書きの仕事は机の前でじっとしているように思われるかもしれないが、実は外出し色々な人と出会い取材することが――取材というより様々な人と付き合い、僕なりに相手の個性を理解することが大事だと思っている。
 理解というと硬い感じだが、それは、僕の感性で相手の気持ちが分かる気になるということだ。
 もちろん、これは僕の独断と偏見にすぎないだろうが……。
 長年の習慣で、仕事をする時は、体の限界を感じるまで、何も喉に通らない。
 で、結局、生活が不規則になり、体が消耗し、病院に行くことすら億劫になって、ま、それならそれでいいや、という気になり、今回は、結構、危ないところまでいったようだ。
 年齢のせいか、昔のような無理が利かなくなってきているようなのだ。
 この業界、若くして亡くなる方が多い。
 僕も、例外ではないかもしれない。
 しかし、この歳になっても、自分がやろうとしているものは、ほとんど書いていないのが現状だ。
 他の方が書けるもの、他の方のほうが僕より向いているものは、その方たちに書いていただくのが僕の今までのスタンス。
 僕自身の思い込みに過ぎないのですが、僕でなければ書けないものだけを書こうと思って今までやってきた。
 もっとも、1回だけだが、書こうと思ってスタッフの了解を得たつもりのシリーズのテーマが、主にスタッフの責任というより制作会社のプロデューサーの杜撰さでめちゃめちゃにされたことがあり、あまりに頭にきて、そのいきさつをこのコラムに書いたこともある。ちなみに、その制作会社は、コラムを書いた僕に「商売妨害になることを書くな」と文句をつけてきた唯一の会社だった。……まあ、これは余談。
 ともかく、書けるものは生きているうちにできるだけ書いておこうと、いささか焦っている。
 で、今になって思うのだが、どうやら、僕の脚本の作り方は一般的ではなさそうだ。
 連載開始から4年もたって、アニメ脚本に興味のある方たちの参考になっているのだろうか?
 一般的に商売になる脚本の作り方ではないことを、僕自身も少しだけ自覚している。
 「誰でもなれる脚本家」という題名に偽りはなかったのか?
 大袈裟に言うと、それを考えると眠れなくなり体力と気力が衰え、それでも「なるようになるしかないだばさ」と思いつつ、ぐったりしたのが、今回の休載の理由のひとつのような気もしている。
 しかし、4年も続けたコラムを中途半端に休載し続けるのは、さすがに「ええだば」男の僕としても人間性が疑われてしまう。
 いちおう、僕も人間のはしくれのつもりだから……。

 僕の本意ではないのだけれど、僕の脚本歴で一番一般に知られているアニメは『ポケモン』のようだ。
 僕個人としては他の作品のほうが僕らしさのあるアニメがあると思うのだが、だからといって、『ポケモン』も好きな作品であることには変わりない。
 けれど、僕の書いた脚本でおそらく一番苦労したのは、映画『ポケモン』2作目『ルギア爆誕』だった記憶はある。
 登場人物が自分なりの勝手なことを行動して、それが「共存」につながる。
 それぞれ、「地球の危機が迫ってくる」などとあわてているような台詞を言うのだけれど、自己中心に考えている彼らは、実は心底では「地球の危機」などピンと来ていないのだ。
 なにしろ、自分の世界は自分を中心に動いているのだから……。
 そして、僕も、自分なりに分かる登場人物しか書けないタイプだ。
 実は、僕は僕が分からない人物を『ルギア爆誕』に出してしまった。
 新米の巫女のフルーラのお姉さんである。
 現代っ子フルーラは巫女の仕事をアルバイトのように割り切った面がある。
 しかし、その姉は巫女を仕事として割り切りきれてはいない。
 確かに、彼女は神に仕える巫女である自分を納得してはいない。
 神様という存在を信じ切っているとも思えない。
 彼女は巫女を引退する日を待ち望んでいた。
 でも、引退する日までは、巫女を続けている。
 友人には、現実にはめったにいない女性船長がいる。
 おそらく、女性の船長は、時代の最先端だろう。
 しかも男の船長を凌駕するプロである。
 時代の最先端の女船長と神に仕える巫女とがなぜ互いを認め合える友人になれるのだろう。
 僕のキャラクターのレパートリーに巫女という存在はなかった。
 巫女って何なんだろう。
 当時僕が住んでいた小田原近辺には多くの神社がある。
 巫女をしている女性もかなりいる。
 『ルギア爆誕』の中でこの巫女さんの出番はほとんどない。
 それでも、僕なりの巫女像が必要だった。
 妻には内緒だが、知りうる限りの巫女さんと付き合い、その人生観と神様に対する感性を僕は分かろうと思いった。
 余計なことだけれど、付き合うと言っても、男女関係ではない。そんなことをしたら罰があたりそう……?
 彼女たちは、いつもは普通の女の子だ。
 そりゃそうである。昔の巫女さんではなく現代の巫女さんなのだから。でも、でも、ときどき変わった感性が顔を見せる。
 理解不能の思考をして、なんとなく神がかった事を言い出すのだ。普通の理屈が通用しない感覚を持っている。
 僕にはわけのわからない感性である。
 そして、それを感じた時、ごく身近に意味不明の感覚が顔を見せる女性がいるのに気がついた。
 僕の妻です。彼女は、結婚前には東京の西麻布に住んでいた。東京でも最も現代的な街である。
 でも、ときどき、一般常識では考えられない言動をする。
 たとえば、知人の家の棟上げ式に招かれた時、いきなり周囲がびっくりするような大きな柏手を打ち、長時間、拝むのだ。
 どこから見ても都会人の妻が、ほとんど神がかり状態になるのである。
 なぜこうなるのか?
 実は、妻は、子供のころ故郷の高知の土佐清水にある神社の巫女だったという。
 『ルギア爆誕』には、ほんのワンシーン登場する人物にも、その人なりの履歴があり、自己が現れるように描こうと思った。
 そして、それを俯瞰で見たとき「共存」というテーマが出てくるようにしたかったという話は何度か書いていると思う。
 書いた僕自身、「共存」など信じていなかったにもかかわらずだ。
 こうして、周囲の登場人物を固めたうえで、もっとも活躍させたいロケット団トリオを登場させることにしたのである。
 しかし、ロケット団の活躍の仕方は、とても変わっていたと思う。ただ、かっこいいだけではなかったのである。それについては次回に……。
 ただ、作品全体の出来がよかったかどうか自信はまるでなかった。
 興行成績は『ミュウツーの逆襲』に届かなかったけれど、それでも、世界でヒットした日本映画では2位だったそうだ。
 今思えば、ヒットを義務づけられた『ポケモン』映画にもかかわらず、定番ヒット作品と違い、とても変な作品だったと思う。
 次回で『ルギア爆誕』の話は終えるつもりだ。
 いつの間にか10年前のアニメ映画になってしまった。今の中学生が幼稚園の頃の作品だ。彼らは覚えていてくれるだろうか?

 重ね重ね3週間の長い休載をお詫びする。
 「昨日の私」は今回、お休みさせていただく。近くの公園に行って『ルギア爆誕』のことを、思い出していたほか、何もしていなかったから。

   つづく
 


■第201回へ続く

(09.11.04)

 
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