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第212回 プロットはあっさり通った『結晶塔の帝王』
『結晶塔の帝王』のプロットは、DVDなどを観ていただけると分かるが、父1人娘1人で暮らしていた家族から、ポケモン研究家の父親が行方不明になり、代わりにアンノーンという不思議なポケモンが発見され娘の元に届けられる。
アンノーンはなんだかわけの分からないポケモン(アルファベットの集合体のようである)だ。
だが、このわけの分からないポケモンという部分が、かえって僕にとってはありがたかった。
この『結晶塔の帝王』におけるアンノーンを、両親のいなくなったミーという1人の孤独な少女に、彼女だけの理想を実現する夢のパワーを与える存在とすることができたからである。
アンノーンの力で父親役である「エンテイ」が現れ、架空の母としてサトシのママを誘拐する。少女が望むことは全て実現されていく。こうして、アンノーンが生み出す夢により不在になった父と母を手に入れ現実を遮断し、閉じられた世界で自分の望む世界で生きようとするミーだったが、ママの救助にやってきたサトシら現実の存在と対決することになり、最終的には架空の父親役「エンテイ」の存在をかけたアンノーンとの戦いで「夢の世界」と決別することができ、アンノーンの力は再封印されることになる。
このプロットは「自分の生きている世界は何なのか」という幻の映画第3弾に、娘にとって父親という存在はなんなのか、さらに自分が父親の場合、自分は娘にとって何なのかということを、前面に押し出したものだった。
このプロットは、あっけなくOKになった。
ミーを現実の世界にもどすために架空の存在である「エンテイ」が命がけでアンノーンと戦う「自己犠牲」がテーマ……これは観客が感動する、と考えたのか、御前様が賛成し(彼も子供の父親だった)、脚本会議に参加したみなさんも同意した。
「自己犠牲」という聞こえのいい言葉が僕は嫌いである。
引きこもったミーを現実世界に戻すために、エンテイが命がけで取った行動は「自己犠牲」ではなく、父親が娘にできることをやった行動ではなかったのか?
つまり、エンテイのとった行動は「自己犠牲」ではなく、架空の父役として現れたエンテイの「自己満足」なのである。
エンテイは、アンノーンによってこの世界に出現した、ミーの父親役である。
ミーの理想の父親としてミーの願いをかなえる役である。
だが、ミーの願いをかなえるための存在だけでいいのか?
エンテイは、ミーの架空の父親として、それで納得できるのか。
エンテイは、本当の父親としての存在を選んだ。
それは「自分とは何か?」を自問自答した末の答えだろう。
これは「自己犠牲」ではなくむしろ「自己満足」であると思う。
さらに、エンテイは、アンノーンが出現させたポケモンである。
エンテイがアンノーンに戦いを挑むのは、ミーの父親として存在するために、自分を生みだした親と戦うことにもなる。
ミーの親としての戦う相手が、自分を出現させた親なのである。
これが、「自己犠牲」なのだろうか?
しかし、プロットがOKになり、脚本のゴーサインが出た以上、こんなことを言いだすのは、会議に出席したみなさんの気持ちを混乱させるだけの時間の浪費である。
『結晶塔の帝王』が自己犠牲をテーマにしたアクション満載の感動編になると、みんなが思っているのならそれでいいのだ。
脚本は、序盤はスムーズに書きあがっていった。
両親をなくし――父親は行方不明なのだが――ミーが自分の世界にひきこもって見る夢の世界は、彼女自身にとっては輝いている。
アンノーンの力によって、より強固に輝いている。まるで結晶した世界である。
結晶世界は、バラードの有名なSF小説の「結晶世界」にインスパイアされたことをここで言っておきたい。
その小説と『結晶塔の帝王』のストーリーはまるで違うが、そのイメージについては、いつか映像で表現してみたかった。「結晶世界」は、ストーリーはあってないようなもので、イメージを文章化したような、逆にいえばその文章をイメージ化するのは難しい、特異な小説なのだ。
しかし、結晶化し、ミーが引きこもる夢の世界は、アンノーンの力もあってどんどん外部にも広がっていく。
最初は、ミーだけの孤立した世界だったのが、全世界へと広がっていきそうになる。
このままだと、世界中が結晶世界になってしまう。
しかし、そのことは『結晶塔の帝王』では暗示することにとどめている。
世界中の人たちが、もしかしたら、この世界がとんでもないことになりそうだと不安を感じるにとどめている。
あくまで主テーマは、引きこもった世界からミーを、誰が外に引き出すことができるか、である。
そんな観念的なことを身を張ってできるのは、おそらく父親しかいない……という結論に、強引でもいいから持っていこうとするのが、『結晶塔の帝王』だった。
プロットがOKとなった段階から、スタッフは、ただちに映画化へと行動を始めた。
脚本ができていない時点で、エンテイの声は竹中直人氏に決まった。第1弾のミューツーの声、市村氏からはじまった総監督の通好みの人選である。
竹中氏がエンテイの声をやると聞いて、いささかびびった。
実は、『結晶塔の帝王』の20年ほど前に、スペシャル実写ドラマ「新・翔んだカップル」の脚本を書いた時、脇役だったはずの竹中氏が怪演技をくりひろげ、主役の2人を食うばかりか、主役が竹中直人氏のような印象になってしまったことがあった。
この人の才能はすごい。
この人がエンテイの声になったら、どうなるのだろう。エンテイの一言一言が、強烈な印象に聞こえるだろう。
演技を抑えてと頼んで御本人がそのつもりでやっても、やっぱりそこには竹中直人の個性が出てしまう。
そもそも抑える演技など要求される役なら、だれも彼を配役しないだろう。
『結晶塔の帝王』の架空の父親エンテイが普通の父親とは違う特殊な存在だと、観客に感じさせては困る。
竹中直人氏が父親だったら、一般の父親はかなわないよなあ……とは思われたくない。
なにより、エンテイの胸のうち、娘を持つ一般の父親の心情を持ち込みたいのだ。
その一方で、竹中氏に一般の父親の心に響く効果的な台詞を語ってもらえば、その言葉は、深く観客の中に残るだろう。
それならば脚本の僕にもやりがいがある。
エンテイの台詞は多くはない。
だが、エンテイが時として語る決め台詞がある。
「ミーがそれを望むなら……」
この台詞、竹中氏を意識して書いた台詞である。
ほかにも、プロットがOKになった途端に、スタッフが張り切ったのは、結晶化が進む世界の描写だった。
ミーの住む屋敷には、ドイツのケルンにある大聖堂を意識した。両側のふたつの塔が目立つ巨大な建物である。
若いころ、僕がドイツをさまよった頃、この大聖堂を観て、度肝を抜かれた記憶がある。
そして、ふたつの塔は、虚構の世界のミーと、現実に目覚めるミーを意味するように思えた。
それを総監督に言ったら、次の会議にはケルンの大聖堂の資料を持ってきていた。
この大聖堂が結晶化したイメージを、スタッフと話し合いたかったのだろう。
つまり、みんなやる気満々だった。
『結晶塔の帝王』の序盤は快調に書きあがった。
だが、問題はそれ以後だった。
ミーが引きこもって夢見る世界を描くのは、比較的簡単である。
ポケモン世界においては、ポケモントレーナーになるのが夢のひとつである。
エンテイにさらわれた母親を取り戻すために、結晶塔に入り込んだサトシたちに、年ごろの女の子になったミーがポケモンバトルを挑む。
そこは、アンノーンによって作られたミーの夢の世界だから、現実のポケモン世界に生きるサトシたちが勝てるわけがない。
ここらのバトルシーンは、演出の見せどころであったと思う。
ただ、『結晶塔の帝王』は、「引きこもりの少女を外に連れ出す」ことを描くだけがテーマではない。
もっと大きいのが、娘と父親の関係である。
僕は『結晶塔の帝王』を書き続けるうちに、とても難しい問題にぶつかった。
自分なりに、娘が持つ理想の父親像を考えてみた。
考えることは可能だが、実践できたためしはない。
しかも、僕と娘とは40歳も差がある。
昔の日本映画によくあるのが、娘を嫁にやる父親のシーンである。
花嫁姿の娘に「お父さん、長らくお世話になりました」などと型どおりのことを娘に言われ、父親は何も言えず、ジーンとしてしまう、というシーンだ。
けれど、そんな映画でも、日常での父親と娘のドラマはほとんど描かれない。
だから、父親が娘を大切に思っていたんだろうなということはなんとなく分かるが、詳しくは分からない。
娘を嫁に出す時、父親が抱く喪失感はよく語られるが、娘と40歳も離れた父の持つだろう気持ちと、一般の年齢差を持つ父の気持ちとでは違うだろう。
たとえば、僕の娘が結婚する年ごろになったころ、僕はいいじいさんである。
「どこの馬の骨ともしれない男に、娘を取られた」という感じは持たないと思う。
しかし、若い父親の中には、「大事な娘を奪われた」という感情のよぎる人が多いらしい。
僕の40歳離れた娘に対する気持ちが、大多数の父親の気持ちと重なり合うだろうか?
『結晶塔の帝王』は、僕個人の娘へのささやかなプレゼントも意味するが、それはあくまで僕の個人的な気持ちであり、本当は、娘を持つ世界中のすべての父親へのエールになっていなければならない。
そして、女の子には、あなたのパパはどんな思いであなたを考えているか見つめ直してもらいたい。
ついでに男の子も、自分の父親を見つめ直してください。
『ポケモン』映画は夏休みに公開される。
子供につきそってくる父親も多いだろう。
父親にとって、めったにない家族サービスである。
そして、観た映画が、子供だけでなく、その父親にもなにかを感じさせるものになっていれば、つまり、引率者の父親を視界に入れた映画なら、ある程度のヒットも望めるだろう。
ただし、父親の存在をテーマにしたこの作品内容が、いい映画、面白い映画であるのが前提条件である。
僕に父親を語る資格があるだろうか……。
ぱったりと、パソコンのキーボードをたたく手が止まってしまった。
そして、でき上がった部分だけ、順に送った。
終わりまで行っていない脚本である。
ずいぶん制作サイドはいらいらしただろう。
結果、『結晶塔の帝王』第1稿の脚本の出来が遅れ、プロデューサー、監督にずいぶん迷惑をかけた。
不思議に思われたかもしれないが、『結晶塔の帝王』には、僕と並んで共作者の名がある。
ただ、この時点では、その共作者は、『結晶塔の帝王』にはからんでいない。
共作といえば一緒に相談しながら脚本を作るイメージがあるが、今回の場合は、少し当てはまらない。
次回、そこいらの事情も書いてみよう。
つづく
●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)
『魔法のプリンセス ミンキーモモ』のアニメの脚本家の1人からメールで、ミュージカル「ミンキーモモ」の制作発表のコメントを教えてもらった。
で、びっくりした。
ミュージカルの脚本家いわく、「空モモ」「海モモ」などの原作を尊重して書くのに苦労した、と。
僕はこの脚本家に会ったこともないし話したこともない。他のアニメスタッフもおそらくない。
アニメも全編は観ていないだろう。
しかし、この脚本家は、おそらく原作者と称する誰かとは会ったのだろう。
けれど、この原作者と称する人は、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』をほとんど分かってはいない。
だから、設定その他にずれがある。テーマもとんちんかんだ。
その原作者さんは、ミュージカル「ミンキーモモ」の脚本らしいものを、「つまらないから、なんとかならないか」と、よせばいいのに僕に読ませている。
昨年の暮れである。
僕は、ミュージカル「ミンキーモモ」の脚本家に対してとやかく言う気はない。
原作者と称する人の言うとおりに書いたのだろうから……。
でも、この原作者、いつから現れたんだ?
アニメには、僕の役職は、原作、原案、シリーズ構成、監修……いろいろな名称で表示されている。
でも、この原作者の名前は、企画とか制作とかでは知っているが、原作者として見たことは、僕を含めて誰もいないはずだ。
ついでに、2代目『魔法のプリンセス ミンキーモモ』に「悪夢のお願い」という話があるが、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』にとっては割と大切なエピソードで、セクシーな悪夢(ナイトメア)の国のプリンセスが登場している。このセクシーなプリンセス、悪夢と名がついていても悪役ではない。
この女の子の存在を、原作者と称する人は、おそらく御存じない。
つづく
■第213回へ続く
(10.02.17)
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編集・著作:
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