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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第224回 大成する脚本家はアニメから

 そろそろ、このコラムも店じまいの時期が近づいてきたようだ。
 「誰でもできる脚本家」として、僕が皆さんに語れることはもういくつもない。
 僕のことを曲がりなりにも物書きとか脚本家と呼んでくれる方もいてくれる。「どうせ、人生なるようにならんのだから、ええだば。ええだば」と、いい加減な僕のような生き方をしていてもなれる職業が脚本家で、だから「えーだば創作術 誰でもなれる脚本家」という題名をつけたのだが、流石にこの年齢になると、こんなことをやり続けて終わる人生もなんだかなあ……と、いささか空しい風のようなものが胸の中を吹き抜けることもある今日この頃である。
 みなさんに伝えるような大したメツセージもなく、書きたくない気持ちを抑えるために若いころから酒びたりだったが、この歳まで物書きを続けていられるというのは、よほど親から恵まれた体が丈夫なのだろう。それでも、最近は、若いころの不摂生がたたったのか、ウィスキーのボトル1本で脚本を書ける体力はとうに消えうせて、ほんの数日、不養生な暮らしをすると、病院のお世話になる羽目に陥ってしまう。
 その日暮らしの物書き稼業だが、それでも長く続けていると、苦手だったというのに、なんとなく僕でなければ書けないだろうと思うものがちらちらと浮かびだしてくる。それらの売れる売れないはどうでもいいが、僕が生きているうちに書き終えらせそうもないものが多く、いささか困っている今日この頃である。
 これからの僕は、生まれながらに持っている面倒くさがりの性分と、書きたいものを書こうと思う気力と体力の勝負だろう。
 なんだかこれからの僕の老後はうんざりである。
 それを考えると、なぜこんなことをして今まで生きてきてしまったのか、自分のしぶとさがうざったく思える時もしばしば。
 で、今になって考えるに、そんな僕が、ここまで、何とか物書きで食べてこられたのは、勉強とか努力とはほど遠い「なるようになるだばないだばさ」といういい加減さを、しぶとく持っていたからかもしれない――と最近、思うようになってきた。
 「世の中なるようにしかならない」と人生をはかなんで自暴自棄になって自殺するのも面倒くさい。面倒くさいと思ういい加減さにかけては、案外僕はしぶといのである。
 真面目に脚本家として大成しようと夢見ている方たちは肩すかしを食わされた気分だろうが、僕は、物書きとして大成するということがどういうことなのか、分からないのである。
 最近、放送作家の親睦会のような日本放送作家協会のお偉いさんたちが、「放送は文化である。先進国の中で放送文化の要である脚本を軽視しているのは日本ぐらいのものである。もっと、脚本を文化遺産として大切に保存管理すべきである」という趣旨のことを言い出し、日本脚本アーカイブズ(脚本の図書館のようなもの)特別委員会などというものをつくってしまった。
 理想はでかく、日本で放送された脚本をすべて集めようというのである。
 今この瞬間にも何十本も消耗されていく放送脚本をかたっぱしから保存管理して、後世の人たちに文化遺産として残そうという。
 脚本が文化遺産かどうかはともかく、借金にあえいでいる日本という国を何を基準に先進国と呼ぶのかもともかくとして、日本の放送は文化と言える代物なのだろうか?
 昔、放送が始まった時、大宅壮一という人が「一億総白痴化」と揶揄したTV放送である。
 そりゃ、玉石いりまじり、文化価値のある脚本もあるかもしれないが、アーカイブズを実現するのに、いったいいくらお金がかかるのか? 誰がお金をだすのか? 第一、放送を作っているのは脚本家だけではない。それを、脚本だけ蒐集して文化国家と胸を張ろうというのか?
 アーカイブの資金はどうやら、国会図書館や文化庁を頼りにしていて、わずかながらすでに文化庁から調査費としてお金をもらっているらしい。公的機関からのお金って税金でしょ?
 ただですら借金まみれの日本、税金の使い道はいくらでもあるはずである。老人がやたら増え、世界一と言われるのは少子化国として、という日本の現状……そんなことを考えているのかいないのか、日本の脚本アーカイブズなんて、文化人のやることではなさそうな気がする。放送作協のお偉いさんのシンパらしい人に聞いた。
 「アーカイブが実現しなかったら、文化庁にどう弁解するの?」
 「そんなことは知るか」
 つまり今、文化文化と偉そうなことを言っているのが快感ってこと?
 脚本家として大成するってことは、1000人ちょっとしかいない放送作家たちの団体のお偉いさんになって、日本国家の文化について大言壮語することなのだろうか?
 ちなみに、放送作協はTV放送作家50周年記念の本を作って売りだした。
 400ページの本の中でアニメに触れているのは10ページ……それも勘違い表記が多い。少ないページに、できるだけ多くのアニメ関係者名をちりばめようとした、その文を書いた方の御苦労は察するに余りあるのだが……。
 日本の放送番組で、アニメの脚本家の占める著作権や2次使用料は全体の60パーセントを超える。
 日本に放送文化なるものがあるとしたらそれはアニメ放送文化だろう。
 それが、TV放送作家50周年記念本では400分の10、ラジオのことなどほとんど触れていない。
 放送作家の大成した偉いご老体さんには、アニメは文化には見えないようだ。
 アニメで育った日本の子供たちが、すでに、40代から50代に層をなして存在していることに気がつかず放送文化を語っているとしたら、外国の文化人から、鳩山(元)首相が言われた以上の皮肉単語を浴びせかけられても、僕は怒りはしないだろう。
 あ、そうそう、アニメを数本しか書いていなくて、小説で活躍している作家が、悲痛な声で言っていた。
 「公的資金が脚本の管理保管に使われるようになったら、脚本の思想や表現の自由はどうなってしまうのか?」
 なるほどなあ……と思った。
 もともと、スポンサーありきの放送、NHKだって公共放送である。
 放送作家はそんなことまで気にしないのだろう。
 思い出してみたら、大勢の子供が倒れた画面ピカピカのポケモンショック……その以前に、NHKのアニメで倒れた子供のいたことをNHKは黙っていたもんなあ。
 アニメも当分終わりそうもない不景気で、スポンサーがなかなかつかず、放送自体よりもDVDなどの二次使用の儲けが命綱である。
 とっくの昔に視聴率が関係のない世界にアニメは突入している。
 さらに、インターネット、携帯、なんとかpad……。
 それだけに、個々の作品の魅力がものを言う時代と言えないこともない。
 僕は大成した脚本家とは言われたくないが、案外、大成する脚本家はアニメの中から生まれるかもしれない。
 ただし、「ジャパニメーション」の時代がそう長く続くとも思わない。
 だからこそ、アニメの脚本家の皆さんは、今頑張ってください。
 僕は、今後アニメの脚本を書くなら、スポンサーも視聴率も気にしないものを書くつもりです。
 昔も気にしてはいなかったけれど、人に言われれば気にしているふりはする。
 こういう時にこそ「なるようになるだば、ないだばさ」をしぶとく言い続けたいと思っている。
 で、まあ、次回は、僕なりに知らず知らずに体得した、アニメを面白くする方法をお伝えしよう。僕の書いた脚本が面白くない方には、意味のない方法かもしれないが……。

   つづく


●昨日の私(近況報告というより誰でもできる脚本家)

 世界を席巻していると言われる「ジャパニメーション」(いうまでもなく日本のアニメ)。
 しかし、のんきなことも言っていられない。
 基本、平和でのんきで、ひきこもりが許されて、世界語にまで昇格したオタクとその文化。
 なんだか、自閉症的センスが、ニューヨークもロンドンもパリでも、大手をふるって歩きまわっている昨今だが、アニメでこれをやるのか? というかなりびっくりの映画が出てきた。
 日本に負けじとディズニー系のアメリカアニメががんばっても、そこは所詮エンターテインメントの国である。3Dにしてみたり、アニメか実写か分からないCGてんこもりの映画が出てきても、驚きはしない。
 「アバター」なんて、3Dで、なんとかあばたをエクボに見せかけてごまかした古臭い西部劇で、これも言いつくされた「先住民さん、ごめんなさい」映画にしか思えない。
 日本が「おくりびと」でアカデミー外国語映画賞をもらい大騒ぎしていたころ、その外国語映画賞の最有力候補だった映画である。
 この年の外国語映画賞候補には、「おくりびと」より優れていると思った映画が少なくともふたつあった。
 ひとつは、ドイツ赤軍の末路をあわれとしかいいようがない青春映画にした「バーダー・マインホフ 理想の果てに」。
 でも、図抜けてすごいのが『戦場でワルツを』。これ、長編アニメである。
 この作品は、イスラエルのレバノン侵攻を背景……というか舞台に、1人の男が欠落した記憶を埋めるために様々な人と出会うセミ・ドキュメンタリーであって、それでいながらアニメでしか描けないだろう世界を描いている。
 俳優や実在の人間を写した実写映画やドキュメンタリー映画では描けない。アニメの力をフル活用している。
 こんなアニメ映画、日本では、発想さえされないだろう。
 万が一思いついたとしても、戦闘シーンをアクションとして描くに違いない。
 そして、「泣かせ」を売り物にしてしまうだろう。
 同じ年の短編アニメ賞も日本の『つみきのいえ』だったが、あれはあれでアニメとしてよくできていた。しかし、短編アニメの世界は、ノルンシュテインのアニメを筆頭にして、一種のアートである。驚きはしない。
 しかし、『戦場でワルツを』の世界は、全く別世界のアニメ映画である。
 イスラエルの映画だそうだが、気がつかないうちに世界中でアニメは進化している。
 アニメという表現方法の多様さはまだまだ尽きることはないだろう。
 日本のアニメも描ける世界がもっとあるはずだ。
 つけくわえるが、セミ・ドキュメンタリーの形を借りた脚本があきれるほど巧みである。
 DVDが出たようだから、ぜひご覧になることをお勧めする。
 このアニメを作った人たちは、どんな気持ちで、絵を動かしていたのだろう?
 ラストに実写が数カット出てくるのが反則技の気もするが、このアニメがアニメではないという作者の主張でもあり、反則ではあっても、これは現実なんだというこのアニメの声は、強くこの映画を観る者を引きつける。

   つづく
 


■第225回へ続く

(10.06.02)

 
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