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第25回 酒と脚本家の日々
絶対飲まないとはいわないが、基本的にはここ二十年ほど、僕は体のため、禁酒中である。酒席は極力遠慮しているから、今の若い脚本家の人たちがどれぐらい酒を飲むかをよく知らない。
だが、昔は、僕も含めて、この業界の人はほとんど酒飲みだった。酒を飲めない脚本家を僕はほんの少ししか知らない。
外国人と違って、日本人の半数の人の肝臓には、アルコールを分解する機能がない。だから日本人の半分は酒が飲めない体質なのである。
無理に飲めば、顔が赤くなったり、青くなったり、気持ちが悪くなり吐き気がしたり、ひどい人は気絶したり、禄な目に会わない。
それなのに、日本人に酒を飲む人は多い。なにかといえば「ちょっと一杯、飲みながら……」と言うことになる。
つきあいという意味で、本人もおそらく気がつかず、体に無理なことをしているのである。
アルコールを分解できる能力のある欧米人じゃあるまいし、酒造メーカーのCMに躍らされるように、果汁ソーダで割った焼酎やビールを飲み、晩酌という名で日本酒を飲み、洋食にはワインが付き物で、そのまま飲むのが本来の姿であるウイスキーやブランデーを水で割ってまで飲もうとする。ジンやウォッカはおしゃれなカクテルに化ける。
日本人の半分以上が、飲めない体質であるにも関わらず、飲んで酔っぱらい、気持ち良くなったつもりでいる。本当は、気持ちが悪いはずのところを勘違いしているのである。気分が悪いのを我慢しているから、酒癖が悪くなる。もちろんアルコールを分解できる肝臓を持っている残りの日本人も、酒を飲めば酔っぱらうのに変わりはないから、夜の日本の盛り場は、世界で一番酒の飲み方の品が悪い、いわゆる酔っ払い天国の国になる。
女性の社会的地位が向上するにつれ、女性の飲酒人口も増えつづけている。特に僕たちの業界のように脚本家に女性の進出がめざましい世界は、今更ながらに思い出してみると、酒を飲まない女性がほとんどいない。アルコール依存症の女性の急増は、ずいぶん前から日本の社会問題である。……なんて、酒に対して批判的なことを言っているが、僕はアルコールを分解できる肝臓を持つ日本人に属していて、若いころの酒量は凄まじいものがあった。ウイスキーのボトルを一本飲みながら原稿に向かい、一夜明けたら、ボトルが空になり、シナリオもでき上がっていたなんてこともあり、すごいときには、ウイスキー三本で、文庫本一冊書き上げたこともあった。それでも、本人は酔った気がしていなかった。たぶん日本人としては、めちゃくちゃ酒に強い部類だったと思う。
そんな自分を知りたいこともあり、アルコールとアルコール依存(昔はアル中と呼んでいた)にやたらと詳しくなってしまい、アルコール依存症という病気に関してなら、そこらの医者より知識が豊富で、その種の本ならすぐに二、三冊書ける自信はある。
こんなことに自信を持っていても仕方ないが、アルコールが切れるとヘアートニック(アルコールが含まれている)まで飲んでしまうという重症患者本人や、その家族の心理や症状(アルコール依存症は、家族が飲まなくても、家族ぐるみの病気と言っていい……今はよく耳にするアダルトチャイルドと言う言葉のもともとの意味は、アルコール依存症を親に持つ子供という意味である)、そしてその治療法(ほとんど不治の病と言っていいが……)も、精神科の専門医ぐらいは知っているつもりである。
しかし、そんな僕も、最初から酒に強かったわけではない。「シナリオ研究所」でおそらく一番若かった僕の作品は、意外と評価がよかった。年上の研究生の人たちは、そんな僕のシナリオの批判をするのは大人げないと思ったのだろう。その代わり、僕をよく酒に誘い、映画論をふっかけてきた。
その人たちの言うことには……
「お前はこういう映画の理論を知っているのか?」
小難しい理屈や、映画作家の名が飛び交い……それを、僕は知るはずもなく……
「お前はそんなことも知らずにシナリオを書いているのか」
「無知だからこそ書けるシナリオっていうのもあるんだな」
「若さだけで書いている……そんな感性は歳を取ればすり減って消えてしまう」
「70年安保を目前にして、政治的主義主張に目をそむけてシナリオは書けないぞ」
「ヌーベルバーグの波をどう解釈するのか……ジャン・リュックは……アントニオーニはベルイマンは……フェリーニは……トリフォーはちょっと違うな」
「アートシアターの活動……ロマンポルノの存在価値……新藤兼人の革新性?……大島渚の創造社は何を目指すのか……寺山修司……三島由紀夫……サルトル・ボーボワール、存在と無、ついでにインターナショナル……突然、吉田拓郎、井上陽水、カルメンマキ……傘がない……神田川……新宿ゴールデン街、飲み屋街の聖地……ここで飲むのは、だるまじゃない。角でもない白ラベルだ……etc……そしてここでも自己批判……ナンセンス……総括……異義なーし……いや、異義ありだらけー」
これを読んでくれているみなさん、分かりますか?
分からなくていいんです。当時の僕も分からなかった。今じゃ、ほとんど意味不明の死語の羅列に近い。
それは、酔った勢いで、言っている本人も、訳の分からない、知っているだけの言葉と人名のシャワーを僕にぶっかけ、自己満足し、困惑する僕をいびっているだけなのだ。おまけに、その頃は、近くの飲み屋で、映画監督大島渚の本物が、一家を引き連れて気勢をあげていた。他の一派もいろいろいて、気勢だけは負けない。お前の作品はくずだ! てめえこそ時代錯誤だ! ビール瓶を振りかざしての立ち回り……酒が酒を呼び、理屈と主義と思想と映画論と、お互い同士のやっかみがまじりあっての大混乱……相手を間違えて、地元のやくざをぶん殴り……それ、出入りだと、やくざたちが勘違い。やくざがどーっとくり出し、パトカーだってぶっ飛んでくる。そんなエピソードが、あちらこちらにころがっていて……こんな状況に負けたくない僕は、酒を飲みながらも、真面目に酔わずに考え、浴びせかけられた言葉の答えをせめて見つけようとしていたから我ながらかわいい。
答えが分からなければ、紀伊國屋書店で映画関係の本を立ち読みして、次の日の夜のゴールデン街に出かけていった。
ところが、僕に言葉を浴びせかけた連中は、前夜言ったことなど、酔っぱらっていてすっかり忘れている。
ま、しょうがない。僕は最年少だったから、飲み代をみんなにおごってもらった……ま、それでここは我慢しよう。
こんな具合の日々が入れ替わり立ち替わり訪れたから、酒に強くならないわけがない。飲んでも酔わない訓練ができてしまっていた。
それに、彼らのわめいていることは、つながり方は酔っぱらっていいかげんだが、その言葉や人名は実在するものだから、それがなんであるか、何者であるかを知る勉強にはなった。
そのうち、酔ってくだを巻いている人の中に、「シナリオ研究所」で偉そうなことを言っていたプロの脚本家たちもいることに気がついた。
酒が入って、さらに偉そうになってわめいている人もいれば、偉そうなことを言ってしまった自分に自己嫌悪をもよおして、「俺は駄目な脚本家だ……」と、落ち込んで涙を流す泣き上戸な人もいた。
つまり、彼らが「シナリオ研究所」で語ってくれたことは、「自分はこうあるべきだ」という理想論で、現実はけっして本人が満足しているものではなかったのだ。
僕は若かった。酒に対する体力があった。だから、酒に強くなった。ほとんど酔わなかったと思う。自分でも不思議なほど覚めていた。だから、その酒場で見て聞いたことには、辟易した。みっともないと思った。
いつか、僕も、こんな人たちのようになってしまうのかな……と困ってしまった。
こんな酒は嫌だな……と思った。こんな酒のつきあいはご免だな……と思った。だが、そう思ったころには、酒が僕の体になじんでいた。
僕は、酒飲みである。
だが、美味しいと思って飲んだことはほとんどない。
美味しいと思って飲めない酒を飲めるようになることは、いいことではない。
酒を飲むなら、美味いと思える酒じゃなけりゃ意味がない。
これは、脚本家に限ってのことではない。どんな職業のどんな状況でも、美味いと思えない酒は飲まないほうがいい。
酒は百薬の長と言う言葉がある。嘘である。毒性のある極めて依存性のある薬物である。美味しいと思えない状況の時、あなたが飲んだ酒を美味しいと感じたら、酒の毒性がききだしたと思って、そこから先は止めておいたほうがいい。
もともと、日本人の半分以上は飲めない体質なのだ。無理して毒物を摂取することはない。大酒飲みと言われている僕が言うのだから確かである。
つづく
●昨日の私(近況報告)
前回の続きをしよう。
コピーはなかなかオリジナルを凌駕できない。
だから、コピーのコピーにならないためにも、オリジナルを見ておくべきであるという話をした。
すると、首藤剛志がオリジナルだという映画だって、元のストーリーや小説があるはずだという意見があった。その通りである。だが、僕は今、映画の話をしている。映画として出てきたときの初めという意味のオリジナルの名作という意味である。
オリジナルをコピーして劣化した作品は山のようにある。だから、そんな作品を例にしても皆さんの役に立たないと思う。
そこで、逆に、オリジナルをコピーして、それぞれに個性を持った珍しい例を上げてみようと思う。あくまで、僕の独断と偏見で挙げる例である。できるだけ、ポピュラーな作品を選んでみた。
それは「ロミオとジュリエット」である。言うまでもなくイギリスのシェークスピア(実在した人物かどうかの疑問はいまだに残っている)の戯曲の映画化である。原作の戯曲は「ロミ・ジュリ」と略されるほど有名なラブロマンス悲劇である。2つのいがみ合った家系の男の子と女の子が愛し合い、この許されざる愛に、せっぱ詰まって、駆け落ちを企てるが、勘違いと行き違いで、両方ともまるで心中するように自殺してしまうという悲劇である。中学の時、このストーリーを知って、いささか感動した僕は、「ロミ・ジュリ」が、なぜシェークスピアの4大悲劇に選ばれていないのか、不思議だった。言うまでもなく、4大悲劇は「ハムレット」「リア王」「オセロ」「マクベス」だ。確かに人間の悲劇と言う意味では、「ロミ・ジュリ」は若さゆえの行き違いの悲劇だけに、人間の悲劇というには、青臭く甘すぎる悲劇といえるかもしれない。
それに、主人公たちが若いから、背筋がかゆくなるような甘い愛の台詞が多い。有名な台詞で「ロミオよロミオ。どうしてあなたはロミオなの」という青臭くて愛のこもった台詞がある。実際に使うには照れ臭さの限界である。僕は恥ずかしげもなく実際に使ったことがある。「おまえね、おまえ。どうしてお前なんだい。お前がお前じゃなかったら、俺はお前と、こうはならなかった」。キザだが、実用的に使えるぎりぎり線で、うまくいった。と、同時に、この台詞、ギャグになるなと思っていたら、『さすがの猿飛』というアニメシリーズで、やはり敵対する組織の2人が愛し合い、そのラブシーンで女の子が「小太郎さん、小太郎さん、どうしてあなたは小太郎さんなの?」と心を込めた愛の台詞を言うと、その台詞を物陰から聞いていた猿飛肉丸がつぶやくのである。
「そりゃ、お父さんかお母さんが名前を付けたからじゃない?」
一緒にいた肉丸の恋人、魔子があきれて、ロマンティックなシーンをぶち壊した肉丸の頭をポカリと叩いたのは言うまでもない。
このシーンを書いたのは金春智子さんで、爆笑もののパロディである。
さて4大悲劇の方はずいぶん映画化された。あの黒澤明監督も、「リア王」と「マクベス」を日本の時代劇にコピー(アレンジ)して作品化した。しかし、どの作品も決定版というものはないような気がする。4大悲劇の完成度が高すぎて、どの映画もコピーした感じが強いのだ。
その点「ロミ・ジュリ」は若くて甘い悲劇だけに、アレンジがしやすかったのか、僕の知る4本の「ロミ・ジュリ」はそれぞれいい味を出している。戯曲の舞台版に一番近いのがローレンス・ハーベィがロメオを演じた「ロミ・ジュリ」で、それなりに舞台の雰囲気を出していた。
だが10代の「「ロミ・ジュリ」を演じるにはローレンス・ハーベィは、舞台の映画化としては納得できるが、おじさんだった。だが、この映画が公開されたときは、誰もそれに文句を言わなかった。それなりによくできていたのである。
ところが、もう一つのコピー・アレンジ版が出てきた。10代の俳優を「ロミ・ジュリ」にした、若々しく躍動感のある新鮮な「ロミ・ジュリ」だった。当時10代だったオリビア・ハッセー(後に大人になって、一時的に日本人の布施明の奥さんになったことで全世界から失望された)がジュリエットを演じた。「ロミ・ジュリ」は若さゆえの悲劇でなければならないという映画監督の信念が、この「ロミ・ジュリ」を名作にした。
さらに、卓抜なアイデアを持った監督が新たな「ロミ・ジュリ」を作った。舞台を現代の南米に変え、そこまで変えながら、台詞はシェークスピアのオリジナルをほとんどそのまま使い(シェークスピアはソネット――4行詩――の名手であり、台詞が詩を謳うように韻を踏んでいる)、斬新な「ロミ・ジュリ」を作り上げた。ロミオを、レオナルド・ディカプリオが演じたこの「ロミ・ジュリ」も将来、名作として記憶されるだろう。
最後に忘れてはならない「ロミ・ジュリ」が、「ウエストサイド物語」だろう。ミュージカルであると同時に、2つの対立する家を対立する人種におきかえた。ニューヨークを舞台にしたこの製作当時、斬新すぎるミュージカルが「ロミ・ジュリ」のアレンジだと気がついた人は多くなかったろう。「ロミオよロミオ、どうしてあなたは……」の台詞の下りも、ジュリエットの変わりにロミオが歌う「マリア」と名曲に姿を変えて残っている。
僕は、あえてこの4つの「ロミ・ジュリ」を作った製作者や監督の名前を書かなかったが、それぞれ、コピーとかアレンジという意味を超えた製作意図があったことは確かである。
コピーやアレンジは、オリジナルを劣化させる。
だが、「ロミオとジュリエット」というひとつの戯曲が、4つのオリジナルを作りだすこともあるのである。
作り手たちは、「ロミ・ジュリ」のコピーなんかを作る気はなかった。
「ロミ・ジュリ」の本物を作りたかったか、自分たちの作りたかったものに、「ロミ・ジュリ」を素材として使ったのである。
ただのコピーではないのである。
それが分かるだけでも、過去のオリジナルを見る価値がある。
コピーやアレンジについての話は、これで終わる。
他にも、過去の名作を見なければならない理由は、大切なことが沢山あるのだ。
この項つづく
■第26回へ続く
(05.11.16)
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