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第28回 『バルディオス』に香水を……
後で思えば『宇宙戦士バルディオス』の酒井氏式シリーズ構成は、他の人のシリーズ構成とは、ずいぶん違っていた。
普通、本読みといえば、プロデューサーや総監督や演出……時によれば、スポンサーや代理店、局のプロデューサーも立ち会う会議のようなものをイメージする。事実、そういった形の本読みも多いのだが、『バルディオス』の時は違っていた。
本読みは、酒井氏と僕だけ……他の人は誰も立ち会わなかった。だから、『バルディオス』の総監督ということになっている広川和之氏とも最初の顔合わせの時、挨拶したぐらいで、ほとんどお会いしていない。
そればかりか、他の脚本家とも会うことはなかった。
筒井ともみさんとも、他の打ち合わせや、飲み会などではよく会っていたが、こと『バルディオス』に関して出会うということはなかった。
筒井さんと僕は、お互いの作品の批評などするタイプではないから、『バルディオス』が、話題になることもなかった。『バルディオス』の脚本には他に鳥海尽三氏、鈴木裕二氏などという名も見えるが、『バルディオス』に関しては挨拶をしたこともなく、鈴木氏にいたっては顔も知らず、その後、会ったこともないし、『バルディオス』以後、他の作品で名前も見ないから、誰かのペンネームかもしれない。もしかしたら、聞きはしないが、酒井氏自身が何かの理由で、鈴木というペンネームを使っていたのではないかと、今も僕は思っている。
違っていたら、鈴木裕二さん、そっと出てきて僕に教えてください。
なお、佐藤茂氏というライターが、『バルディオス』を1本だけ書いているが、この人は、よく知っている。『まんがはじめて物語』を書いていた脚本家で、『バルディオス』を書かせたらどうかと、僕自身が酒井氏に紹介したのだから、知っていて当然である。
シリーズ構成の立場ではない僕は、制作現場にも行かなかったし、いつもなら立ち会うアフレコ現場にも出向かなかったから、『バルディオス』の主人公の声が、塩沢兼人氏で、後に「戦国魔神ゴーショーグン」に登場する美形変人悪役のブンドルの声と、同じ人であるということなども知りもしなかった。
あくまで、本読みは酒井氏との2人だけ……喫茶店の片隅で1時間ほど、ぼそぼそとやっただけである。
酒井氏は、他の人の書いた完成台本を、僕に見せてくれて、『バルディオス』の大体の構想を話し、僕の書いた原稿を読む。
気になるところは原稿用紙のはしを、くるりと折る。
この仕草に、最初、僕は、びっくり仰天した。原稿用紙の二枚に一枚は、くるりと折り曲げられてしまうのである。……おいおい、これじゃ、ほとんど書き直しじゃないか……そんなひどい脚本を書いた覚えはないんだが……。
酒井氏は、原稿を読み終えると真面目な顔で、折り曲げた原稿用紙の部分を広げ……。
「この字、なんて読むの? ……読みにくいんだけど」
「この字、間違っているよ」
「ここ、脱字だろう」
つまり、僕の悪筆、誤字、脱字の部分を、いちいち指摘するために、原稿用紙を折り曲げていたのだ。
その部分を消しゴムと鉛筆で書き直したり、書き入れたりし終えると、
「うん、これでいいよ。で、次の話はどうする?」
『バルディオス」の話の大きな流れに沿った形で、僕の書きたいもののプロット(あらすじ)を、口で話す。
話しただけで、書いたプロットはほとんどなかった。
「うん、それでいいよ。……○話あたりにその話をいれよう」
酒井氏は、僕の原稿をバッグに入れると、喫茶店のコーヒー代を払ってくれて、次の本読みの日を決めてそれで終り……ほとんどが1稿で決定……放送されたものも脚本通りだった。
これでいいのか? ……と、こちらが心配になるほど簡単な本読みだった。もっとも、僕の書いた他の作品『まんが世界昔ばなし』も『まんがはじめて物語』も、書き直した事などなかった……つまり一稿で通っていたから、さほど不思議だとは思わなかったのだが、後で、自分がシリーズ構成を酒井氏流でやるとなったら、大変なことがよくわかった。
実際は、プロデューサー、演出サイドから、様々な意見が出ていたはずで、酒井氏はそれを押し切って、現場の意見を僕の耳に入れなかっただけなのだ。つまり、シリーズ構成である「酒井あきよし」を通った脚本は、現場の意見がどうであろうと守るという姿勢を崩さなかったのだ。
この姿勢には一理ある。
本読みで、プロデューサーや演出からいろいろ意見が出ると、気の弱い新人脚本家や、器用な脚本家は、その意見にいちいち頷き、自分の書いた本を、指摘されたところだけ直してしまう。
結果、様々な意見のつじつまだけ合わせた、当たり障りのないつまらない脚本ができあがってしまう。
付け加えるならば、それでよしと自分で納得している職業脚本家が多いのが、今のアニメやドラマの脚本が面白くない理由のひとつであることは確かだ。
逆に、あっちこっちからいろいろな意見が出てくる本読みに、若い時の僕のような、書きたいものしか書かない強気のタイプは、脚本をほうり投げて降りてしまい、作品化されないだろう。
僕の例では絶対ないが、伝説的なエピソードがある。
ある作品の本読みで、プロデューサーから、あちらこちらの直しを言われた某脚本家は、それに頷いて、数日後、あちらこちら直した第2稿の脚本を持って、本読みに出てきた。
その脚本は、第1稿と変わっていなかった。
「ちっとも直っていないじゃないか」とプロデューサーが、脚本家に言うと……脚本家は平然と答えた。
「よく読んでください。ずいぶん直しました……難しい漢字をひらがなに……それでも読めない人のために、簡単な漢字にはふりがなをふっておきました」
つまり、おまえは、まともな脚本も読めないプロデューサーだ……という強烈な皮肉だ。その後、プロデューサーがどんな態度に出たかは知らないし、その脚本家がどんな仕打ちを受けたかも知らない。
くれぐれも断っておくが、僕には、その脚本家の気持ちは分かるが、それを行動にうつす度胸はない。
ともかくそんな脚本家がいたという伝説があることは確かだ。
いずれにしろ、本読みに大勢の人間が加わればロクなことはない。
脚本に関する責任者は、しっかりした人が1人いればいい。それがシリーズ構成だ。シリーズ構成が、プロデューサーや演出と綿密な打ち合わせをやり、自分が選んで見込んだ脚本家とシナリオを作ればいい。
そこには、もう他の誰も、くちばしを入れさせない。
シリーズ構成は、そういう立場にいるというのが、酒井流だったと僕は思う。
つまり、酒井あきよしシリーズ構成作品は、酒井氏を通過しさえすれば、脚本家の役目は終わりということである。
その分、酒井氏の脚本を読む目は厳しくなる。
だが、彼が選んだ脚本家は、運が良いのか悪いのか、筒井ともみ氏と首藤剛志である。どちらも自分の脚本を簡単に直すタイプではない。
酒井氏が、筒井・首藤の2人の脚本家にシナリオを書かせる前に、プロデューサーや演出相手に、どれぐらい苦労したかは知らないし、どちらかといえば、なんの苦労もなかったことを願いたい。
どっちにしても、僕は、『バルディオス』の中盤までは、自分の書きたいものを『バルディオス』の設定に合わせて書いただけである。『バルディオス』中盤までで、僕が一番苦労したことといったら、15話にゲストで登場する女性ジャーナリストが、どんな香水を使っているかだった。
日本人の女性は、オーデコロンはよく使うにしても、余程のことがない限り香水を体にふりかけたりはしない。使っても薬味程度だ。
だが体臭のきつい外国人にとっては、自分の性格を表す程、大切なのが香水だ。女優マリリン・モンローといえば、香水はシャネル5に決まっている。『バルディオス』に登場する女性ジャーナリストの性格を表すのに、どんな香水が似合っているか……まさか、筒井さんに聞くわけにもいかず(女性ジャーナリストとは性格が違いすぎる)……その時は、手ごろな香水名を聞けるガールフレンドも不在で、女性用高級品ブランドメーカーの入っているデパートをうろついて、未婚なのに、「妻の誕生日に贈る香水を探している」と大嘘をついて、登場人物に適切な香水を探し回った。おかげで、今でもアニメ脚本家の中では、かなりの香水通だという自信がある。いい歳をした男が、香水探しなんて遺憾であるといわれても……。選んだのは夜間飛行なんかじゃないよ。レール デュタン……香りもちゃんと知っている。ただし、香水は、使う女性の体臭とのバランスで価値のあるものである。タバコ臭い僕の手の甲に付けた香りが、適切な香りとは言いがたい。
残念なことに、いまだに、レール デュタンの香りが似合う女性とは、すれ違ったことがない。
あの香水が似合う女性がいたら名乗り出て欲しい。香水通に聞けば、それほど、使いこなすのに難しい香水ではないそうだから、どこかにそんな女性がいるはずである。
死ぬまでに一度だけでも、すれ違ってその香りを知ってみたい。
ロボットアニメに香水の香り……必要ならば、どんな知識や経験も要求されるのが、脚本家である。
つづく
●昨日の私(近況報告)
またまた映画の話である。
いつかは書かなければならないと思っていたが、どうせだから忘れないうちに書いておく。
映画・映像の基本と言われているモンタージュのことである。
映画監督じゃあるまいし、脚本家に映像の基本を知る必要があるか? と聞かれれば、脚本家の仕事は、文章を書くことではなく、映画の素を書くことだから、モンタージュを意識しておくべきだと答えるしかない。
モンタージュ理論(技法)は難しい事を言い出せばきりがないし、そんな基本は知っているという人は、ここらの文章はすっとばしてくれていい。
モンタージュ理論を実践した傑作映画、エイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」を見ろとはいわない。だが、名前だけは、知っておいたほうがいいかもしれない。映画にうるさい奴にエイゼンシュテインと「戦艦ポチョムキン」を知らないと言えば馬鹿にされるかもしれない。
ついでに、階段を乳母車が転がり落ちてくる名場面がある映画だということも常識にしておこう。この場面は引用されたりパロディに使われることがよくある。最近では、渡哲也をメインにする石原軍団が出演している保険会社のCM――「熟年離婚」という僕らの年ごろには身につまされるドラマを見ていると流れている――が、それである。「戦艦ポチョムキン」の映画自体は、現代の人が見ると、古くさくてかったるい無声映画にしか見えないし、どこにも新しさを感じないだろう。当たり前である。「戦艦ポチョムキン」以後の映画は、みんなモンタージュを基本にして作られているから、当たり前の事を、いまさら偉そうにモンタージュなんて言われてもピンとこないのが当然である。
過去、いろいろモンタージュ理論を破ろうと試みた映画も作られたが、結局、モンタージュの変形でしかなかった。
モンタージュは、映画にとって、地球に空気があるような常識的なものである。だが、いくら常識と言っても、生きていくには変わりがないにしろ、地球に空気があることを知らないのと知っているのでは、かなり違うのである。地球に住む以上、やはり、空気の存在を意識しておいたほうがいい。少なくとも、何も知らずに、空気のない水の中に落ちて窒息死する危険だけは避けられる。
で、モンタージュについてだが、簡単に説明しようとすると、けっこう難しいのである。数式にするとA+B=Cということに要約される。
つまり、映像において、Aというものと、BというAとは別のものがつながると、Cというさらに別のものが生まれるという事である。
モンタージュを簡単に説明してくれる方法はないものかな?
と、中学生のころ、考えていたら、当時、有名な映画評論家……食通としても知られていた……故・荻昌弘(おぎ・まさひろ)氏が、……この人の週刊朝日に連載していた映画評は中道を行く正論で僕は信頼していた……モンタージュについて、どこかのテレビで、とてもわかりやすく説明してくれていた。
荻氏いわく……。
はあはあ舌を出している犬の顔が写っている……これがA
全然別の場所にある骨付きの肉の塊が写っている……これがB
この二つの映像をつなげる……つまりA+B
すると、肉を欲しがっている犬という、別の意味が生まれる……これがC
Aの犬は別に肉を欲しがっているわけではない。
Bも犬とは関係のない場所にある人間が食べるための肉である。
しかし、つなげると、違うものを感じさせてしまう。
これが、モンタージュの基本である。
……ここまでが荻氏のおっしゃることの受け売りである。
つまり、これを男と女のラブシーンに応用する。
酒を飲んでいる男に「酒が好き?」と聞く。「大好きさ」と男が答える。その「大好きさ」という顔だけを映画に撮る……A
きれいなバラの花を見ている美女に「バラが好き」と聞く。「大好き」と美女が答える。その「大好き」という顔だけを映画に撮る……B
AとBをつなげる。「大好きさ」と「大好き」がつながる。
酒飲み男と美女はなんの関係もない。しかし二つの場面がつながると愛し合っている2人という意味が生まれてくる……C
ついでに、酒飲み男と美女とも関係ない、公園かどこかで抱きあっているカップルの顔が見えない程度に遠い場面をつなげると完璧である。
「大好きさ」、「大好き」、公園で抱きあっているカップル。
三つの場面は全然関係ない。しかし、つなげると、公園で抱きあうぐらい愛し合っている2人という意味が出てくる。その後に、まるで関係のないラブ・ホテルの看板でも写っていたら……それこそ会ったこともない2人が、そこまでいっている恋人同士という意味を持ってしまう。
これが、モンタージュの基本である。そして、モンタージュは映像だけに使われているわけではない。
次回、それを説明してから、モンタージュが脚本を書くうえでも大事な要素になってくることをお話しようと思う。
ともかく、次回まで、モンタージュを理屈でなく体で感じるためにも、映画を見続けてください。
この項つづく
■第29回へ続く
(05.12.07)
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