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アニメの作画を語ろう
シナリオえーだば創作術――だれでもできる脚本家[首藤剛志]

第38回 
『戦国魔神ゴーショーグン』レミー島田のモデルになった女性・その3

 『戦国魔神ゴーショーグン』の脚本は、1話と2話で確立されたといっていい。総監督はいなかったが、脚本執筆には、葦プロ側のプロデューサーとして、相原義彰氏が付き添っていた。しかし、彼は内容には、いっさい口を挟まず、注文としては、ロボットのゴーショーグンの合身シーン(合体とは言わなかった)だけは、たっぷり見せてくれというものだった。……といっても、前もって作ってあったシーン(貯めておいて何度も使うからバンクと呼ぶ)で、ロボットがゴーショーグンのメンバーの乗るメカを、体内に組み込む過程を丁寧に描いた部分(多分、1分間近くあるように感じる長いシーンである)……おそらく、スポンサーの玩具屋さんを満足させるための格好いいシーンだが、僕には、毎回やっていると、長すぎるように感じてきて、ドラマの休み時間としか思えないものに見えてきた。
 だから、後の映画版の総集的な作品では、次第に短くして、ブンドルに「ワンパターンも慣れると早い」という台詞を言わせたシーンでもあった。
 もっとも、このシーン、ロボットファンからは、評判が良かったそうだから、人それぞれ、好き好きである。
 代理店側のプロデューサーは大野実氏、竜の子プロでおなじみの方で、この人も内容をとやかく言う人ではなく、面白がってくださったようだった。
 第1話のストーリーは、一生懸命、設定を説明している。
 が、僕が気にしていたのは、グッドサンダーの面々が危機に瀕したとき、北条信吾が、「ここは俺に任せて、みんなは逃げろ」と、ヒーロー風の台詞を言ったとき、思わずレミー島田が漏らす「かっこいい」の一言だった。
 ヒーローもどきの信吾に、あきれるというか、ひやかすように呟いてほしい台詞だが、ここを文字通り「かっこいい」と、きゃぴきゃぴ感動されては困るのである。
 小山茉美さんは、この短い台詞を見事に皮肉っぽく、といって、あざとくなく呟いてくれて、後のレミー島田の個性を確立してくれた。
 残るは、グッドサンダーに襲いかかるブンドル軍団だが、ここで流れるクラシックは、第1回目だけは、僕がヨハン・シュトラウスの「美しき青きドナウ」を指定したが、2回目以降の戦いでブンドルが流すクラシックは、全て音響監督の松浦典良氏が選んだものである。
 松浦氏もこの作品に乗ってくれたのだ。
 ある時など、著作権フリーのLPレコードをかけるため、レコードプレーヤーをダビングルームに持ち込んで録音した事もあった。
 つまりブンドルの流したクラシックはテープ録音ではなく、レコード針が拾った曲が流れた事もあったのである。ブンドルのクラシックを聞いた方の中でそれに気がついた人が何人いただろうか?
 そして、極めつきのブンドルの台詞「美しい……」。これが「バルディオス」の主人公と同じ、塩沢兼人氏の口から出た言葉だと、誰が信じるだろう?
 「美しい……」この一言でブンドルの個性も決まったのである。

      ×     ×

 一言で決まったといえば、20代の僕を決めたのも、一言だった。
 ドイツの田舎町キルハイムテックのホテルの屋根裏部屋で、ガールフレンドが言った言葉、「シナリオはどうしたの……ほんとうにこんなところに来るようじゃお終いだわ」。
 彼女は、観光パスポートのせいで、ひとつの国に半年以上いられず、そのたびごとに国を変えて、今までヨーロッパにいた。やっと、スイスで闇の労働許可を手に入れ、ドイツで仕事を見つけ、やって来た1週間そこらのところで、僕に遭遇してしまったのである。
 彼女の仕事はホテルの主人の幼児のベビーシッターで、小さな子供の世話をしながら、子供の言葉からその国の言葉を覚えていくという、体当たり的、ドイツ語勉強法をこなしていた。
 「ドイツ語は、ビッテぐらいしか知らないわ。だからなんでも、ビッテ、ビッテで押し通しているの」
 ビッテは独和辞典では、どう訳されているか知らないが、日本語でいえば「どうも」とか「なに?」「もう一度言ってください」とかいう、英語でいえば「パードン?」に近い、合いの手のようなものである。
 彼女は、そんな方法で、ヨーロッパの各国語をマスターしていたのである。
 日本で習った英語など、教科書的英語すぎて、英国それぞれの地方の訛りを持つ本場の英語には、ほとんど通用しなかった。
 僕の英語が、ロンドンで通用しなかったのも道理である。
 まして僕はその時、ドイツ語は「ビッテ」という言葉すら知らなかった。
 「やー」と「ないん」、つまり英語の「イエス」と「ノー」しか、ドイツ語とは縁がなかった。何もしゃべれない、何も読めない、何も書けない、まったくの異邦人、いや、ヨーロッパではまるで、宇宙人に近かっただろう。
 そんな中で2年間も頑張ってきたガールフレンドに、昔のボーイフレンドの事など考える余裕などあるはずがなかった。
 それは、ロンドンでわずか1日過ごしただけの僕にもよくわかった。
 「こりゃ彼女と会っても駄目だ……」と、ほとんどあきらめの境地で、それでも勢いと成り行きで、わずか3日でガールフレンドに出会ってしまったのだ。
 彼女だって、さて、これからドイツに慣れようとした矢先だ。忘れかけていた日本の昔のボーイフレンドに土足で踏み込まれたようなものだったろう。
 彼女は、僕がヨーロッパに出かけてきた事すら、その時点では知らされていないのだ。「ここから出ていってよ……」しか、言いようがないだろう。
 「出ていくのは言いけれど、おまえ、これからどうする気……?」
 「なるようになるわよ」
 彼女の口調はあっけんからんとして、暗いところがなかった。
 「今なら、日本に帰れる用意もしてある……」
 「いいの。これから先、30歳になるまでには、自分がどうするか決めるわ」
 この口調も、けっして投げやりではなく、彼女自身が、誰が何と言おうと決めているように聞こえた。
 彼女は当時、24歳。あっさりと気楽に言う。度胸が座っているとしか言いようがない。
 ともかく、お互い、心になんの用意もなく出会ってしまったのだ。
 こちらもホテルから出ていこうにも、どこに出ていっていいかもわからない。
 名もろくに知らない、ドイツの小さな町である。外はもう夜で、真っ暗だ。
 「しかたないなあ……今日だけよ」
 彼女は、片言のドイツ語で、ホテルの主人に身振り手振りで説明して、2階の別の部屋に、泊まる事だけは許してくれた。
 この日の2人は、2年ぶりの出会いとしては唐突すぎると、さすがに僕も思った。
 僕は次の日の朝早くホテルを出ると、小さな町をさまよった。
 とりあえず、他の宿屋を探すためである。
 しばらく行くと駅があった。シュットガルドから出ている支線の終着駅だった。それほど田舎の町だったのである。
 駅前に、食堂とも飲み屋とも言えない3階建ての建物があり、「ダッチェスハウス」とドイツ語らしい単語が書いてあった。
 汽車のない馬車の時代、ヨーロッパでは停車場に、食堂や休憩所を兼ねた宿屋がある事を、外国の小説で覚えていた僕は、つたない英語で、泊めてくれないかと宿屋の女将に頼んだ。
 その食堂兼飲み屋は、もう宿場は経営していなかった。しかし、空き部屋はあったから、なんとか泊めてくれる事になった。
 幸運だったのが、大みそかが近く、ドイツの大都市に出かけていた若い人たちが、里帰りをして、ドイツ語風英語が話せる人が少しはいた事だ。
 暮れ以外のキルハイムテックは、若手は大都市に就職してほとんどおらず、老人ばかり住んでいる町だったのである。
 辺鄙な田舎町で、それまで日本人などめったに訪れていない町だった。もしかしたら、ガールフレンドと僕が、最初にこの町に訪れた日本人だったかもしれない。
 現在はともかく、その頃のドイツ人、とくに老人たちは日本人にとても親切だった。冗談ではなく、今から30年前の田舎のドイツ人にとっては、日本人はドイツとともに連合軍と戦争をした仲間意識があったとしか思えない。
 「今度はイタリア抜きで、連合軍と戦おうぜ」と、ドイツ人は思っているという古い笑い話が、ほとんど通用するような町だった。
 他の東洋人や、欧州人の中にあるジプシー(これは、今の欧州においても重要な問題だと思う)に対する偏見の代わりに、好意を、得体のしれない「やーぱん(日本人)」に示してくれたのだ。
 僕が日本人だと知ると、店の客はビールをただでおごってくれたし、宿場の女将さんは、日本人用にと、わざわざ米を使った料理(ピラフやパエリア)を作ってくれたほどだ。もっともその米は、イタリア製の米で、けっしておいしいとは言えなかったが……。食堂の女給さんは、僕におごられたビールを出してくれるときは、必ず陽気に、
「ふぃーれん、だんく」と言ってくれた。「フィーレン、ダンケシェーン」の略で、日本語で言えば「とっても、とっても、ありがとう」といった意味である。
 住みごごちがよかった事もあって、僕は、ガールフレンドの住んでいるホテルとはかなり離れていたが、同じ町の宿場で、その年を越した。
 クリスマスと違い、ヨーロッパの大みそかは、乱痴気騒ぎである。
 ビールを飲み、客達と大声で歌い合い、でかい猟銃を空に向かって撃ち新年を祝う。
 僕も、銃を撃て撃てと勧められ、生まれて初めて、本物の銃を撃つ経験をした。余談だが、この銃を撃つ経験は、脚本を書くようになってから、かなり役に立った。
 おそらく、僕の生涯で、かなり重要な位置を与えられる大みそかだった。
 僕が、ひと通りの挨拶の他に覚えた初めてのドイツ語は、「じるべすたー」である。「大みそか」という意味だ。
 もうひとつは「ぽりさい」……警察という意味である。何も仕事をせず宿場の食堂でぼんやりビールを飲んでいる僕を見たドイツ人が、僕が警察に疑いを持たれると困ると思ったのだろう、「ぽりさい」「ぽりさい」と言って、連れて行ってくれたところは、なんと町の職業安定所だった。観光パスポートの僕が、職業に就けるわけがない。
 これ以上、食堂に集まる人たちに心配をかけるのも気が引けるので、僕はキルハイムテックを出て、都市のシュツットガルドに向かった。
 行くあてなどなかった、
 何しろ、日本では、ガールフレンドを探し、事によっては何ヶ月でもかけてやる、と周りに大騒ぎして出てきた以上、ヨーロッパに来て、わずか3日で本人に会って、1週間も経たずに振られて帰ってきましたでは、格好が悪いし、みっともない。
 それだけは避けねばならない。少なくとも数ヶ月はヨーロッパで頑張ったように見えなければ、笑いものである。
 急いで日本を出てきたから、ドイツ語の会話集も持っていない。
 シュツットガルドには1ヶ月いたが、どうやって暮らしていたか、ほとんど記憶にない。
 シュツットガルドがどんなところか知らないから、名所、旧跡に行った覚えもない。ただ、やたらと、ドイツの軍隊と戦車が目についた事は覚えている。ああ、ドイツの戦車か……これがあの有名なタイガー戦車(今で言えばティガータンク)か、と妙に感心した。
 もっとも、戦後30年も経って、第2次世界大戦のタイガー戦車が、ドイツにあるわけもない。ドイツ軍といえばタイガー戦車と戦闘機メッサーシュミットが代表と思い込んでいた僕の、勝手な想像だった。
 後で、日本に帰って聞いたら、その頃、ドイツ赤軍の親玉的存在の、バーダー、マインホフが、シュツットガルドの牢獄に捕まっていて、その警備のために軍隊が出ていたのだそうだが――バーダー、マインホフは、その後、牢獄で自殺した――僕はそんな事はつゆしらず。赤軍派ほか反体制の嵐が世界的に吹き荒れた時代に、注目を浴びていたシュツットガルドを、さした目的もなくふらふら1人の日本人がうろつきまわっていたのだから、自分でも恐れ入る。捕まって日本赤軍と間違えられたりしたら、ほとんど話せない英語で、ドイツ人にどう申し開きしたものか、その無謀さとラッキーさにいまだに呆れている。
 ともかく、1ヶ月ほどして再び、僕は、ガールフレンドの気持ちを確認するために、キルハイムテックに行った。最初は突然の出会いだったから、お互い動揺して、気持ちをうまく言えなかったのかもしれないと思ったからだ。
 彼女のヨーロッパに残る決意は固かった。そして、「シナリオライターはどうしたの?」という言葉をもう一度言われた。
 これ以上、無理だと悟った。
 「ストーカー」……その時代にはこんな言葉はなかったが、考えてみれば、これ以上彼女に近寄れば、日本からドイツまでの、長距離ストーカーのようなものである。ストーカーと好きな異性を追いかける事の差は、異性の相手がこちらを嫌がっているかの違いだろう。
 まだ、僕は嫌われてはいない確信があった。
 だが、彼女だって1人とはいえ、2年も日本に帰らず、あっとこっちの国を回って頑張っているのである。
 たった1人でできる事ではない。そこには彼女が作り上げた交友関係もあるはずである。そこに、事情を何も知らない日本人の、2年前のボーイフレンドが飛び込んできた。僕は、彼女の生き方を邪魔する、いつ嫌われても仕方のない状態なのだと、自分で判断した。
 僕は、彼女に「サヨナラ」を言い、キルハイムテックを出た。
 それでも時間はたっぷり余っていた。
 シュツットガルドの駅で、下手な日本語のドイツ案内の小冊子を見つけた。気持ちが落ち着かないまま通り過ぎた、前のシュツットガルドの駅では目に留まらなかったものだった。その小冊子を目安に、ドイツ南西部を中心に歩き回った。
 もちろん言葉は、ドイツ語が使えるはずもなく、片言の英語だった。
 今はどうか知らないが、日本で知った英語が通じるのは、英国本国より、むしろドイツである。
 しゃべりが早く、方言だらけのくせにキングスイングリッシュの英国英語は、初心者にはとても無理である。
 ドイツ人の日本人への親切心もあるが、彼らにとっても外国語である英語の方が、発音にしろ、しゃべりの速度にしろ、日本人には分かりやすかった。
 ドイツで英語を慣らして、飛行機嫌いの僕は、ドーバー海峡を船で渡り、ロンドンに行った。
 そこで、ホテルではなく一般家庭の間借り人になって、1ヶ月、ロンドンのウェストエンドのミュージカルを見まくった。
 これも、普通の芝居では台詞が聞き取りにくいからである。その時見なかったミュージカルは、売り切れで切符がどうしてもとれなかった「キャッツ」だけといっていい。だから、いまだに「キャッツ」に対しては、日本版、英語版を通して、うるさい思い込みがある。
 続いてパリに行った。嫌いな飛行機の往復切符のフリーの帰りがパリ発だったからだ。盗難にあった事もあって、お金は底を尽きかけていた。パリには1ヶ月半ほどいた。もちろん、フランス語は全然知らず、ドイツ語以下の語学力だ。
 パリのホテルは☆印で評価づけしてあるが、☆もない安宿だった。
 同じ階に住むインド人が自炊するカレーの匂いが、いつも匂っていた。
 観光地にはほとんど行かず、一升瓶の安ワインを抱えて、安宿の近くをふらふらした。  
 観光地に興味がなかったのである。ルーブル美術館にもヴェルサイユにも行った事は行ったが、そこに2時間といなかった。
 ただ、パリのペールラシューズの墓地には行った。後にそこは『巴里のイザベル』のクライマックスや『戦国魔神ゴーショーグン』の『時の異邦人』に登場する、墓地のモデルになった。
 パリに1ヶ月以上もふらふらしていたら、ついにお金が尽きた。
 日本の羽田空港(当時、成田はまだなかった)にたどり着いたとき、羽田から渋谷の自宅まで行く電車賃もなく、しかたなく、自宅に電話して、タクシー代を用意してもらって、やっと帰り着いた。
 僕の旅行は、半年近く、ヨーロッパをさまよっただけで終わった。
 もちろん、得たものは多かった。
 ただ、肝心の目的は、何も果たせなかった。なんとかするつもりだったガールフレンドは、そのままだった。僕は、そのたくましいというか、一生懸命な生き方をのぞいただけだった。
 そして、言葉の分からない国々で、様々な人種の人とすれ違っただけだった。最初から観光旅行のつもりはないから、名所、旧跡もろくに行かなかった。
 ただ、半年近くもよくがんばったね……と、知り合いやセールス会社の同僚から、半ば呆れるように感心されただけだった。
 これじゃあ、なんのエンドマークも出た気がしなかった。
 そんな時、思い出されるのは「シナリオライターはどうしたの?」というガールフレンドの言葉だった。
 この話が、ハッピーエンドに終わるにしろ、アンハッピーエンドに終わるにしろ、僕がシナリオライターにならなければ、起承転結にも序破急にもなりはしない。
 この話に、続編があろうとなかろうと、一応のエンドマークは出さなければならない。そう、僕は思った。
 エンドマークのために「絶対シナリオライターになろう……」などというのは、普通の脚本家志望の方々にとってみれば、邪道もいいところだろう。
 しかし、僕はそのつもりだったし、それが、このエッセイの第1話の最初の部分に戻る事にもなるのである。
 後にも先にもシナリオライターになろうと思ったのは、この時だけというのは、そういう事なのだ。
 だからいまだに僕が、自分の事を「脚本家」と呼ぶのに、どこか気が咎めるのは、「シナリオライター」――いわゆる物書きに、本来の志望者とは、どこか違う感じでなってしまっているという、後ろめたさがあるからなのかもしれない。
 今でも僕は、自分の仕事を電話で相手に言う時にはライターとしか言えない。……成り行き任せでなってしまった百円ライターみたいなもの、という気持ちから、どこか抜け出せないでいる。
 しかし、ドイツで会ったガールフレンドは、割り切っていて、さばさばとして、「よくまあ、こんな女性をガールフレンドにしていたよ」と自分で呆れるほど、格好よく感じた。
 その女性を、よりチャーミングにしてくれたのが、小山茉美さんの声である。
 レミー島田の声は、今の僕には、実祭のモデルになった女性より、その人らしく聞こえる。
 レミー島田は、すでにモデルになった女性とは違う人が動いている感じである。モデルになった女性+アニメとして動かした人達の女性+小山茉美さんで、独り歩きを始めたのである。
 それでいながら、レミー島田という女性は、しっかりと僕の中でも生きている。
 昔、プロデューサーの相原義彰氏が、こんな事を言った事がある。「首藤君って変わったところがあって、自分で作ったアニメのキャラクターを、実際に生きている人間のように、あつかっているように見える事がある」
 まさに、そうかもしれない。

      ×     ×

 次回からは、アニメ『戦国魔神ゴーショーグン』に関わる話だけにしぼって、お話していこうと思う。

   つづく


●昨日の私(近況報告)

 世の中には、だれ1人、同じ人はいない。
 当たり前の事だが、案外それに気がつく人はいない。
 ヨーロッパに行った話をしたが、全然言葉が通じなくても、出会う相手が、それぞれ違う個性である事は分かる。
 日本人である僕と、外国人であるその他大勢という見方はできない。自分が他でもない自分自身であるという事を、言葉の通じない相手に分からせるのは、身振り手振り、そして、目である。
 「目は口ほどにものを言う」という古いことわざは嘘ではない。
 身振り手振りは大げさでなくても、相手には分かる。相手もこちらをできるだけ分かろうとしているからだ。
 欧州人の場合は、意志を伝えようとする時、相手の目を見つめる。
 目をそらすと、こちらに後ろめたい事があると思われる危険がある。
 日本人相手だと逆に、目を見つめると相手が恥ずかしがって目をそらすか、逆に、相手を見透かそう、相手に取り入って悪巧みを考えているように思われるので、言いたい事のポイントポイントだけ、相手の目を見るようにしよう。……余談だがこれはセールスマンのテクニックでもある。
 ところで、相手に言葉が通じようと通じまいと、相手は個人である。大多数の人ではない。
 ドイツ人達のビアガーデンなどでの会話を聞いていると、会話のほとんどが「ないん」……つまりNO、「違う」という言葉で始まる事に気づく。
 「やー」……つまりYES、「はい」という言葉で始まる事はほとんどない。
 結局意見が同じで、結論はイエスでも、まず、お互いが違うと言ってから会話が始まる場合が多い。
 それぞれが個人で、他人とは違うという意思表示が、先に出てくるのだと思う。
 これは、脚本を書く上でも、考慮しておくべき事だと思う。
 あなたの脚本に出てくる登場人物は、だれ1人、同じ人はいないのである。
 たとえば、その他大勢のわき役で人物A、B、C等と記号で出てくる登場人物がいるとする。
 だいたい、それらの人物は同じような事を言っている場合が多い。
 脚本家が、その他大勢のわき役など、誰の言っている台詞だって同じだ……という気持ちが、A、B、Cという記号に表れているような気がする。
 しかし、現実はAもBもCも、別々の個人なのである。
 人はそれぞれ違う。違う個性と感受性を持っている。同じような事を言っているようでも、実は表現も感性も違うのである。
 それを分かろうとしたら、できるだけ多くの人間と会ってみる事だ。
 同じような趣味、同じような感性の人達だけと付き合っていると、その違いが分かりにくい。同じようなドラマや同じようなアニメばかり見ていると、登場人物のパターンの違い、俳優、声優の違いは分かっても、個性、感性の機微は分かりにくい。
 ところで、沢山の名作映画を見る事は、沢山の個性、感性と出会う事でもある。沢山の映画を見ているあなたなら、映画を見ながら、空いた時間は、沢山の生身の人間と付き合ってみよう。
 相手がどんな人でもいい。自分と趣味や感性の違う人と、より多く、会ってみるべきである。
 好き嫌いは言わず、できるだけ多くの人と付き合ってみる事が、脚本家になろうとするあなたの引き出しを、広く大きくする。
 ともかく、街へ出て、いろいろな人の声に耳を傾けよう。
 では、具体的には、どんな事をすれば多くの人に会えるのか……。
 僕自身の個人的な例は、次回に、述べようと思う。

   つづく
 

■第39回へ続く

(06.02.22)

 
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編集・著作:スタジオ雄  協力: スタイル
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